第五十三話 春が終わり散る花(中)
私を知って欲しい。屹度私は耐えられない。
私を知らないで欲しい。屹度君は耐えられない。
――西邑龍太郎・著『美醜の彼岸』より。
平日昼という事を考慮に入れても、カラオケボックスは静かだった。親友と二人で入ったその狭い一室の空気は、堪らなく重苦しい。
真里愛斗は今、西邑龍太郎に疑いの眼を向けている。そしてそれを、彼に直接突き付けてしまった。
愛斗は考える。
今直ぐにでも、その震える握り拳を自分に振るってくれたら、どれ程楽だろうと。もう友情は戻らないかも知れないが、それでも今迄のそれが嘘偽りでなかったと確かめる事が出来れば、どれ程良いか。
西邑のペンを握る手が震えを止めた。
そして小さく低い声で、苦々しい怒気を孕んだ声で漸く沈黙を破った。
「君を……殴る訳には行かんな。騒ぎを起こせば店に迷惑が掛かる。」
西邑はそう言うと、机に置かれた手帳を開いて何やら短い文章を書いた。いつもと変わらない仕草に、愛斗は何処か安堵を覚えていた。
だが、続く言葉は無情だった。
「それに、私には君を殴る資格など無い。一層、形だけ殴って白を切り通したい所だが、そこまで図太い神経も持ち合わせていない。屹度、罪悪感で気が狂ってしまうだろう。」
「な、何を言っているんだ?」
自分が言い出した事とはいえ、愛斗は西邑の遠回しな是認が信じられなかった。だが西邑はペンを持ち、追い打ちを掛ける様に自らの手の甲に突き刺した。通常ならば苦痛と共に赤い血が流れる筈が、彼は済ました顔で紫の血を愛斗に見せ付ける様に溢していた。
「真里、君の推察通りだ。願わくはもう少し、いやずっと君と親しき仲で居たかった。」
「西邑……! 何言ってんだよ‼ 嘘吐くなよ‼ 嘘だって言えよ‼」
愛斗は激しく机を叩いた。否定して欲しかった、間違いであって欲しかった。
『西邑君。』
そんな彼を見かねてか、憑子が華藏月子の姿を白く模って顕れた。
『一切の弁明もせず、潔く罪だけ認めるというのは時として無責任な態度なのよ。事此処に至った以上は、全てを真里君に話しなさい。私が許可するわ。』
どうやら彼女は何らかの事情を知っている様だ。この時、愛斗は初めて気が付いた。
「そうか……。僕をあの夜殴ったのが西邑なら、当然憑子會長はそれを目撃しているんだ……。知らない筈が無かったんだ……!」
『そう、つまり私もまた、君にこの事を隠していたのよ。恐らくは、知らない儘の方が幸せだった。気付かない方が都合が良かった。けれども、もう言っても仕方が無い事。ならば、このまま誤解し続けるよりは全てを教えた方が良い。解るわよね、西邑君……。』
「全て……ですか……。」
西邑は苦しそうに目を閉じ、眉間に皺を寄せた。これ以上何が有るかは分からないが、この期に及んでまだ秘匿したい事でも有るのだろうか。
憑子はそんな彼に、冷たい声で命じる。
『言いなさい。少なくとも事実だけは。』
「事実だけ……ならば良いでしょう。いや、それならば寧ろ言わせて頂けて有り難い。私とて、弁明したくない訳ではないですからね。」
憑子に諭され、西邑はペンを置いた。そして、無音で映像が流れるモニターの方を見ながら語り始めた。
「真里、私はずっと君が心配だった。君が生徒會で無茶を要求されている事が気掛かりだった。全てはそんな、余計な御節介を焼き不躾な真似をしてしまった事から始まったのだ。僭越ながら、君を苦しめている華藏月子という人物を調べ、その本性を暴き、君の目を覚ましたかった……。」
愛斗も、そして憑子も思う処は有ろうが、何も言葉を返さなかった。華藏月子への憧れで盲目になっていた愛斗には何を言っても無駄だったろうし、本人が彼女への悪評を拒んでいた。そして、それでも愚痴を漏らされるくらいには憑子の愛斗への扱いも大変手厳しいものだった。その自覚があるから、西邑の所感を否定する事など出来なかったのだ。
「そうこうしている内に、華藏月子という人物が何やら學園に纏わる奇妙な神秘を探っている事が判った。これは怪しいと思い、私も調べた。幸い、作家という職業柄そういう行為の言い訳はある程度出来ると踏めたからな。彼女を着けて遠出もしたよ。これでは私は華藏月子のストーカーだと、我ながら自分に呆れる他無かったがね。祠の秘密を知ったのはそういう経緯だった……。」
「そうか……。お前は僕よりずっと前に、祠と関わっていたのか……。」
「ああ。思えばこれが私にとって、大きな失敗の一つだった。そしてもう一つは、あの合宿の様子をこっそり窺おうとしてしまった事だ。」
西邑の声は何処か自嘲的で、見えない顔がどのような表情を浮かべているかはっきりと脳裡に浮かぶ様だった。言ってしまえば、彼の行為は余りにも粘着質でとても気持ちの良い物ではない。本人もそれを自覚しているからこその口振りなのだろう。
「あの夜、華藏月子が君を利用して何やら良からぬ事をしようとしていると考えた私は、矢張りこっそりと後を着けた。熟々、気持ちの悪いストーカーで自分が嫌になるな。だが、物陰から君達の様子を覗き見している内に、どうやら本当に洒落にならない事態に陥ったと解った。君は胸の痛みを訴え、尋常じゃなく苦しみだしたし、事も有ろうに教師である聖護院先生がそれに加担していたから、只事ではないと思った。」
「待ってくれ、西邑。」
愛斗はここまでの話に違和感を覚えた。
「聴いていれば、お前はずっと僕の心配をしてくれている。若しそうなら、どうしてこんな……闇の眷属なんかに? お前は僕の敵なのか、それとも味方なのか、どっちなんだ?」
「ふむ、難しい質問だな……。」
話を遮った愛斗を咎めるでもなく、西邑は少し考え込んで言葉を探す。暫くして、彼は向き直って愛斗の目を見て答えを告げた。
「嘘偽り無く、しかし精一杯の弁解をさせて貰おう。私の思いは、今でも変わらず君の味方でありたい。」
西邑は暫く、愛斗から視線を逸らそうとしなかった。まだ少し訊きたい事があった愛斗は、そんな彼の眼にぐっと疑問を呑み込む。
「済まん、割り込んで……。話を続けてくれ。」
「ああ……。」
西邑は再び愛斗から視線を逸らし、話を再開する。
「祠について調べていた私は、ある偽書に辿り着いていた。神秘好きの界隈では有名な代物らしいのだが、タージ・ハイドという考古学者の様な人の祖父・竹之内斧丸という人物が見付けたと大見栄を切った古文書擬きだ。」
愛斗は内心驚きを隠せなかった。彼等が學園の闇と関わる前に、西邑は例の古文書まで辿り着いていたのか。
「だから、聖護院先生が何をしたのかは凡そ見当が付いた。と同時に、彼の役割も大体は理解していた。そんな彼が、君を悪い様にするのは奇妙だった。本当に、君があの場を離れるのは君にとって良くないのだと察した。だから、咄嗟に介入したんだ。莫迦な事をしたよ、本当に……。」
どうやらこれが、儀式に割り込んで愛斗を殴り倒した西邑の動機らしい。
「確かに、私は逃げようとする君を止める為に殴り倒した。急な事で、そんな乱暴な手段しか思い付かなかった。悔しいのは、今君と共に居る『新月の御嬢様』にとって何もかも計算済みだった事だ。私は彼女にとって、あの場で切れる最後の手札、動かせる最後の手駒だった。まあ、君を救えるのならば些細な事だったのだが……。」
『それについては、私も申し訳無かったわね。結局、私は敗けて真里君を救うことが出来なかったのだから。そしてその上……。』
「私も又、あの夜死んだ……。」
ついに西邑の口から出た告白に、愛斗は固く目を閉じた。信じたくはないが、疑い様が無い。親友の体に流れていた紫の血が、その事実を作家の弄する何千万文字の言葉よりも雄弁に物語っていた。
「西邑……。西邑……!」
「尤も、私はこうして生き返った。紫の血をあの女に与えられてな。自分に何が起きたかは、君が目を覚ます前にもう一人の華藏會長から聞いたよ。正直、ショックだったな。私はもう以前の私ではないのだ。体と記憶だけを君の友、西邑龍太郎から受け継いだ別の存在なのだ。」
「何でだよ……!」
愛斗は西邑の言葉を拒絶する様に激しく首を横に振った。自分の与り知らぬ間に、最も親しき友迄もが何時の間にか亡き者となり、別人と入れ替わっていたと本人に告げられたのだ。しかもずっと、生前の友と何ら変わらぬ態度で交流を続けていたのだから、受け容れられる訳が無い。
「何でそんなこと言うんだよ! お前が西邑龍太郎でなくて何者なんだ‼ 僕の親友でなくて何なんだ‼」
「そう悲嘆しないでくれ給え。寧ろ、君にとっては完全な本人でない方が良かったかも知れんのだ。あの時、西邑龍太郎が既にこの世に居なかったのならば、君と彼の間に在った美しき友情の思い出は最後まで穢れ無き儘で終わったという事になる。」
「そんな如何にも気の利いた誤魔化しを言うなよ‼」
悲痛な思いを叫ぶ愛斗に、西邑は哀し気な微笑みを向けていた。
「だからそう嘆くなと。そんな思いの資格など無い私まで辛くなる。私とて、彼の記憶から自由ではないのだ。君との美しい友情の記憶にどうしても縛られざるを得ない。心が、感情がそこに引き寄せられ、離れることが出来ないのだ。彼が遺した君との思い出は自分の運命の中に在って、たった一つの希望であり、安らぎなのだ。だから可能な限り私はそれに殉じたい。君の為になりたい、君を守りたいという想いは屹度生前の西邑龍太郎と変わらないと思う。そう思いたい。」
西邑の表情と言葉に、愛斗はそれ以上彼を責めることが出来なくなった。しかし、一方で未だ愛斗の疑問は解かれていない。
ここまでの話では、西邑に愛斗への敵意は無い事になる。だが、この事が発覚した切掛は何であったか。それは、愛斗と憑子の『光の逝徒會』、そして華藏學園の『裏理事会』への背信行為の疑いが掛かったからではなかったか。
「でもお前は、一方で僕に負い目を感じているんだよな。それは厳密には本人でないのに西邑を騙っていたからか?」
「勿論、それだけではないさ。これについては君だけでなく、彼女にも詫びなければならない。いや、もっと言えば、その対象は『闇の逝徒會』の犠牲になった大勢の人々にも拡げられるだろう。」
二人は共に、苦渋の中で云うべき言葉を絞り出した。愛斗にしてみれば此処で質問を止めれば全てが壊れる覚悟で始めた追及が無駄になってしまうし、西邑にしてみれば質問に答えないなど許されない。
「先ず前提として、私は闇の眷属となる為にあの女に蘇らされた。である以上、彼方が接触して来るであろうことは解っていた。だからその時に備え、其方の彼女と一つの約束を交わした。」
『私の部下の不出来な紛い物と違い、西邑君の場合は生前の心を強く残していた。だから、味方に引き込めるのではないかと考え、頼みごとをしていたのよ。』
「一つは、連中との戦いに備えて真里、君の協力者となる事。もう一つは、その立場に眼を付けたあの女が私を味方に引き込もうとしてきた時、二重スパイの役を演じる事……。だが、そこには一つの誤算が在った。」
西邑は大きな溜息を吐いた。深さに見合った多分な愁いが含まれている様だ。
「薄々感じていたが、信じたくはなかった事だ。だが、先の電気街の件があって最早疑い様が無いだろう。それは君と同じ見解だ。どうやら、私を通じて君達の動向は『闇の逝徒會』に筒抜けになっていた。」
ペンを握る西邑の手に一層の力が籠る。
「真里……、繰り返すが、私はせめて君の協力者でありたかった……。最期まで友情を貫き通し、君を傷付けぬ様に自然な形で消えたかった……。だがそれは最早叶わないという事だろう。」
「西邑……。」
「言っておくが君のせいではないぞ。君に気付かれなくとも、元々距離を置こうとは思っていた。昨日君に会いに行ったのは、最後に顔が見たかったからだ。」
西邑の手から激しい破砕音が響き、ペンが圧し折られた。
「残念だ……‼」
彼は手帳を懐に入れると、代わりに財布を取り出して幾らかの紙幣を机に置いた。
「おい、何のつもりだ⁉」
「詫び代の一部として、此処は払っておく。釣りは取っておいてくれ。」
「何言ってんだよ⁉」
西邑は愛斗を振り切る様に部屋の扉を開けた。
「真里、今迄ありがとう。」
「待てよ‼」
『西邑君、どうするつもりなの?』
憑子の質問に西邑は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせる。
「けじめを付けるのさ。」
それだけ告げると、西邑は足早に部屋を出て行った。愛斗は追い掛けようとするも、部屋から出て廊下の角を曲がった頃には西邑の姿は見えなくなっていた。




