第五十二話 春が終わり散る花(上)
最もやさしい友情と、最も強い憎しみとは、親しみの結果から生ずる。
――アントワーヌ・リヴァロール
その日の夜、真里愛斗は夢を見ていた。
(此処は……この光景は……。)
彼にとって、それは何度も通った景色でありながら、見慣れないものであり、且つ鮮烈な印象を脳裡に焼き付けられているものだ。暗い怖い、不気味な闇が彼の進む道を覆っている。
先を行くのはよく見知った少女。同時に、今は久しく会っていない、先輩に当たる人物だ。
(會長……。嗚呼、そうか。これは……。)
そう、愛斗が今見ている夢とは、忘れもしないあの夜。全ての始まり、未だ華藏月子の体を動かしていた頃の憑子と、それから数学教師・聖護院嘉久と立ち入り禁止の山道に入り、祠と邂逅した惨劇の夜の夢だった。
(そうだった……。僕はずっと気に掛かっていたんだ。)
周囲の音は小さく、話し声は微かな雑音の様にしか聞こえない。しかし、愛斗にとってそれは大した問題ではなかった。彼の気掛かりは、このまま経過を映像として振り返れば解決するからだ。
一つ、愛斗にはこの夜の記憶が或る瞬間を境に途切れている。聖護院によって華藏月子の肉体と『學園の悪魔』を切り離す儀式が執り行われていた時、愛斗は強いられた苦痛からその場を逃げ出そうとした。しかし、色々あった後に誰かに殴られた後は覚えていないのだ。
(若しかしたら、思い出せるかも知れない。僕の予想が正しければ、多分今なら記憶の扉が開いても良い。いや、間違っていて欲しいんだけど……。)
愛斗は自分自身の行動を何処か傍観者のように眺めていた。自ら動いている感覚は有るが、ただ記憶を辿る許りで自由には動けない。
今、恐ろしい表情をした白い靄が愛斗の中に入って来た。幸いな事に、あの時と違い苦痛は小さい。記憶の通り、愛斗の脚はその場から逃げ出し、聖護院がしがみ付いてきた。
(若しかして、この時逃げなければ今起きている事は全て無かったのかな……?)
愛斗の胸中に次第に自責の念が込み上げてきた。此処で悪魔が自由になってしまったが為に、主に鐵自由によって大勢の人間が犠牲になっている。若しこのまま過去に戻れるのならば、大人しく聖護院に身を委ねてしまえるのにと、後悔が募る。
それに呼応する様に、愛斗は少しずつ感覚が明瞭になっていく気がした。あの時感じていた胸の痛みが蘇ってきている。同時に、小さいながら声もはっきりと聞こえる様になっていた。
(あっ、そういえば……。)
この後の流れは、「華藏月子が聖護院を殴り倒し、愛斗に優しく微笑み掛ける。」だった筈だ。眼が覚めた時は、そこで記憶が途切れていた。誰かに殴り倒されたと思い出したのは、少し後の事だった。
(ん? 待てよ……? 何かおかしいような……。)
愛斗は微かな違和感を抱いたが、記憶はそれを置き去りにする様に流れていく。起きた事実の通り、聖護院は殴り倒され、愛斗は月子の穏やかな笑みを見詰めていた。
屹度それは、愛斗が何よりも愛して已まない至上の美、そして安らぎであった。
嗚呼、ずっとこのまま見詰めていたい、彼女のこの世のものとは思えぬ程美しく、そして優しい笑顔を。――叶わないと知りながら、愛斗は切望を禁じ得なかった。
だが、明瞭に聞こえる様になった自分の声が無情にも願いを押し流していく。
『會長……? まさか、會長が先生を……?』
あの時、愛斗は彼女の行為に動揺しつつも直感した。この瞬間、目の前に居る少女こそが正真正銘の、嘗て自分を助けてくれた憧れの先輩、華藏月子なのだと。どういう訳か知らないが、今迄何らかの事情で華藏月子は全くの別人にすり替わっていたのだ、と。
それを裏付ける様に、彼女はこれ迄の愛斗に接してきた得体の知れない性悪な少女とは全く異なる態度を見せた。
『真里君、今迄苦しめて御免なさい。でももう大丈夫。彼等二人のこの二年に亘る計画は君の抵抗で頓挫する。再び私が戻って来られたのだから、もうあいつの思い通りにはさせない。』
『どういうことですか? 會長、貴女は何を言っているのですか? どうしてこんな事に……? 一体何がどうなっているんですか……?』
鈍器で人を殴ったというのに、その聲は蕩けそうな程甘く愛斗の心を揺さ振る。まるで虐めを受ける中で心のオアシスになってくれたあの頃の様に。
しかし、愛斗の問いに答えは返って来ない。
彼女は何か悲壮な覚悟を決めた様な眼で目下の聖護院を見下ろし、そのまま愛斗に逃走を命じる。
『行きなさい、真里君。そいつが君の中に入ってしまう前に。私の事は良いから、君は自分の事だけを考えなさい。』
『でも、會長……。』
『私は大丈夫。それよりも、早くしないと今度は君がそいつに乗っ取られるわよ。』
依然、白い靄は愛斗の中に片足を突っ込んでいる。しかしその醜鬼の貌に見える頭の部分は憎々し気に彼女を睨み付けていた。対する彼女もその物体に視線を移し、仰ぎ見て不敵に笑う。
『貴様……! やっとここまで……! しくじったの……? 聖護院先生……何という様……‼』
『お前の身の程知らずな夢も此処迄ね。そして、やっと出て行ってくれた。何を企んでいたかは……凡そ見当が付くけれど、逆に私がこの腐れ縁を終わりにしてやるわ。』
自分の姿を模る何者かに対して強気な言葉を吐く彼女だが、その表情に普段の貌が見せていた溌溂とした瑞々しさは欠片も見当たらず、明らかに衰弱している。
そして、彼女にとって更に悪い事に、横たわっていた聖護院が藻反々々と動き出していた。
『ううううぅっッ‼』
聖護院は渾身の力を振り絞る、といった様子で月子の身体を押し倒した。
『聖護院先生……っ! 生徒に対して随分乱暴をするのね……!』
『貴様は……貴様だけは……‼』
『よくやったわ、聖護院先生‼ そのまま抑えていなさい。少々予定は狂ったけれど終わらせるわよ!』
確かこの時、愛斗は考えた。無い頭で考えていた。
この状況、明らかに月子の分が悪い。何とかするには、自分が動くしかない、と。
だが、今ではそれが間違いだと解る。状況から察するに、愛斗の味方なのは白い靄こと憑子と聖護院の方だ。あの狂おしくも甘い安らぎを齎した少女、その中に入っている者の正体こそ、悍ましい邪悪なのだと解ってしまう。
しかしその矢先、愛斗の視界が揺らいだ。不倶戴天の敵に愛おしさを覚えてしまった嫌悪感からではない。頭の痛み、明らかに自身に異変が起きた。
何が起きたのか理解出来ない儘、愛斗は朧気な意識でこの場の者達の声を聞いていた。
『貴方はっ⁉』
『な、何故君が此処に⁉』
『念の為に誘き出しておいて、どうやら正解だったようね。さあ、先刻の言葉通り終わりにしましょう。』
その後、岩という音が響いて人の声は愛斗の意識に全く届かなくなった。夢に記憶を振り返っている愛斗は、この時誰かに殴られたのだと察した。
(誰だ……? 僕を殴ったのは誰なんだ?)
愛斗は仰向けに倒れる中で、一瞬だけ下手人の顔を仰ぎ見た。
(お前は……‼ やっぱりお前だったのか……‼)
痛絶なる記憶が解き明かされると同時に、愛斗は目を覚ました。時は丁度、火曜日の朝を迎えていた。
☾☾
朝食を済ませた愛斗は玄関から出ると、周囲に警戒の視線を送りつつ駅へと向かった。懸念しているのは敵の襲撃は勿論の事、竹之内灰丸ら『裏理事会』に見つかるのも厄介だと思っていた。本来は今日も訓練の予定が入っており、愛斗はこれをサボる形で別の予定へ向かおうとしているからだ。
『君は本当、勝手な事をするのね。』
憑子は呆れた様に呟いた。愛斗がこっそりと抜け出すのはこれが初めてではない。以前にも、食欲不振から半ば無理矢理連れて行かれた保健室を黙って抜け出し、假藏學園の不良と揉めた事がある。
「今となっては……色々と懐かしい思い出ですね。」
『そんなに日数経ってないでしょう。精々二週間前の話じゃない。』
「そうでしたね。あれ以来、何だか昨日一昨日が遠い昔の様に感じてしまって……。」
愛斗は道を歩きながら、思い出す。
あれが切掛で知り合った紫風呂来羽は今も昏睡状態が続いているらしい。変で迷惑な男だったが、『闇の逝徒會』に利用された挙句この様な目に遭ったのは流石に気の毒に感じていた。
そしてもう一つ、その前に保健室へ行く事になったのは、これから遊びに行く相手の西邑龍太郎に食欲不振を心配されての事だった。
愛斗はそんな西邑と、今日どうしても会いたかった。昨日偶然会ったのは僥倖だったと言えるだろう。
『ま、君はこうなったら止めても聞かないものね。熟々、生意気な子だわ。』
「そりゃ済みませんでしたね。」
そんなこんなで追憶したり憑子と言い合ったりしながら、愛斗は最寄駅から電車に乗って待ち合わせ場所へと向かった。
☾☾
いつもの待ち合わせの駅、改札を出ると、例によって西邑は読書をしながら待っていた。
「よ。」
「ああ、来たか。で、何処へ行く?」
彼は珍しく本から目を離し、愛斗に行き先の選択を委ねてきた。
「いつも通りで良いよ。まず、切りが良い所までゆっくり読めよ。」
「そうか……。では、もう少しでこの本も読み終わるのでな、最後まで待って貰おうか。」
西邑は再び本へと視線を戻し、頁を捲り始めた。何気に、終わりまで読むと言い出したのはこれが初めての事である。心無しか、普段より西邑の読書のペースが遅い。
愛斗は黙って待ち続ける。思えば最初は、待たせた分だけ待たされる、という理屈で先に来た西邑の読書を愛斗が待つ慣例が出来たのだった。曰く、この時の西邑の読書量は愛斗を待った時間に基づいて配分されるのだという。
(そんなに……何を待たせたんだ?)
西邑のペース配分に態とらしさを感じる愛斗は、ふとその意味に考えを巡らせる。が、答えが出てくる訳も無かった。とも有れ、暫しの時間の後、西邑は手持ちの本を読み終えた。
「待たせたな。では、何処から行く?」
「それもいつも通りで良いって。書店に行って、古本屋へ行って、その後は図書館だろ?」
とことん自分の趣味に付き合おうという愛斗の言葉に、西邑は一瞬訝しげに眼鏡の奥で鋭い目を更に細めた。だがそれは何かを察した様に閉じられ、愁いを帯びた様な小さな溜息の後に何事も無かったかの如く元に戻った。
「では、行くか。いつも通り……。」
「ああ。」
もう何回目か分からないが、彼らは西邑の趣味として大型の書店、古本屋、図書館を巡り、軽い昼食を取った後に本題の目的地へと向かう。
☾☾
この日の行き先はカラオケボックスだった。
「平日の昼間に高校生が行くと流石に変な目で見られるな……。」
「そうだな、西邑。だがま、人が少なくて好都合だよ。」
この場所を指定したのは愛斗だった。そこには、実は憑子も一枚噛んでいる。
『じっくり話すなら個室の方が良い。そうよね、真里君……。』
実の所、愛斗の目的は歌う事ではない。憑子はそれを本人から聞いた訳ではないが、何となく察した様でそれに適った場所を提案した。
そして西邑も、曲を入れようとはしなかった。
「扨て、どういう風の吹き回しだ? 真里、君は歌が苦手だった筈だが?」
「ん、ああ。ま、一寸話がしたくてさ。」
愛斗はそう言うと、放送の音量を零にして部屋から余計な音声を除いた。
「話? そんな物はいつもしているだろう。」
「いや、もっとこう、二人で落ち着いてゆっくり話がしたかったんだ。」
西邑はペンと手帳を取り出すと、何やらメモ書きを走らせた。そして指で眼鏡を上げると、また一つ小さく溜息を吐いた。
「聴こうか。」
「そうだな……。先ず、僕はお前に感謝しているよ。未だ僕や生徒會に関する記憶がごっそり抜け落ちていた頃、連休明け直ぐから僕に協力すると言ってくれたのはお前が最初だった。」
「別に、そう大袈裟な物でもないさ。私は唯、君に興味が有っただけだ。」
愛斗は一つ呼吸を置くと、話を続ける。
「それでさ……。あの時、お前は僕が生徒會役員だって知らなかった訳じゃん。だからこそ、學園の為に動こうとする僕の行動を狂気だと思って、それで観察したいと言い出した。」
「ま、そうだな。」
「でもさ、お前僕が元々中高一貫コースだってのは覚えてたんだよな。二つの學園が融合したあの時、僕を過去に虐めていた連中が假藏送りになったと教えてくれたのはお前だった。」
「そうだったかな? まあ、生徒會に立候補する切掛がその時の華藏會長に憧れたからだというのは遠因であっても、君が生徒會役員だったという事実に直接は関係無いからな。記憶操作の対象外だったんだろう。」
「いや、戸井は覚えていなかったんだよ。」
戸井は愛斗に覚醒剤の出所の噂を話した時、愛斗が中高一貫コースに居た事をまるで知らないかの如き口振りだった。人の噂が三度の飯より好きな彼女が愛斗のそんな事情を把握していない筈が無い。つまり、西邑と違って彼女はこの事実を忘れていたのだ。
「……それで?」
「西邑、僕はこれを偶然だと思っている。基本的にはほんの些細な、どうでも良い事だと思っている。でも、親友のお前を誰よりも信じたいからこそ訊かなければ気が済まないんだ。」
西邑のメモ書きがまた走った。しかしその手付きはいつもと違い乱雑で、些か震えている。
「金曜日さ、西邑、約束をドタキャンして悪かったと思ってる。あの後、僕は竹之内先生に着いて行くって事、話したよな? その後の事件、ニュースで見たか? 鐵の奴が僕を誘き出す為に、あんな遠い場所でテロを起こしたんだ。どういう訳か、僕があの近くに居ると知っていたかのように……。」
西邑は手を止め、固く目を閉ざして眉間に皺を寄せた。今この瞬間、愛斗の言葉で親友は戻れない一線を超えようとしていた。
「『學園の悪魔』に関わった人間だけは、生徒會役員としての僕や會長の記憶があった。覚醒剤を通して踊らされていた海山先生も、僕が生徒會役員だって覚えていたんだ。」
愛斗は固唾を飲み、意を決して西邑に尋ねた。
「西邑、あの夜最後に僕を殴り倒したのはお前だよな? お前、最初から『學園の悪魔』に関わっていたよな? 僕との友情に誓って間違いだと言えるなら、僕の事を殴ってくれ。その痛みの方が、僕にとってはずっとマシだから……。」
愛斗は胸の痛みを、あの夜よりもずっと辛く感じていた。激痛ではないが、刺苦々々痛む感覚が耐え難かった。言葉の一つ一つが心臓、肺、喉、そして口に強い異物感を与えた。
西邑は手帳を机に置き、ペンを強く握り締めていた。カラオケボックスにそぐわない、嫌な沈黙が流れた。




