第五十一話 手詰まりと上の空
美しき物、比翼の鳥が離れ墜ちるその刹那、互いの心の移ろう様、違う心の拗れる様。
闇の中、男と女の絶叫、悲鳴が谺する。
『全く、君達には失望したよ。』
華藏月子の声を上から冷厳に突き立てられ、鐵自由と砂社日和が倒れ伏していた。尤も、二人の失態を顧みれば主君の怒りは当然である。
『君達は私の指示を離れ、勝手な行動に出た挙句、重大な失敗を犯した。』
「ぐぎゃああああっっ‼」
「ひぎいいいいいッッ‼」
紫の靄に覆われた二人は全身から紫の体液を吹き出させている。恐らく、実を焼く様な耐え難い苦痛に抱き締められているのだろう。
『鐵君は、態々仁観嵐十郎という敵側の最も厄介な相手に我々と戦う手段に覚醒させた。その上、あろう事かこの私を裏切る素振りまで見せたな。』
「うぐ……。仁観の件は……そうだが……裏切りは……違う……。 あれは飽くまで振りだ……。ただ活路を見出す為の方便……ぐああッッ‼」
『どうだかな……。砂社さん、君は『裏理事会』のメンバーに成す術無く完敗した許りか発信器を取り付けられたのにも気付かず、この隠れ処の場所を敵に漏らしてしまった。』
「ごめんなさい……。ごめんなさい……! アビイイイイッッ‼」
二人の前に、闇の中から痩せた成人男性・聖護院嘉久の姿が現れた。その表情は人間離れして冷たく、意識が彼自身のものではない事を雄弁に物語っている。この数日間で、肉体の主導権が再び悪魔に移りかかっている様だ。
『とはいえ、まだ暫くの間は君達を頼らざるを得まい。しかし、今回の一件で私は非常に不安を覚えた。ここは、最後の手駒に本格的に動いて貰う他あるまい。』
そう呟いた瞬間、聖護院の片目が上を向いた。上下互い違いに動く眼球の異様、それは未だ完全には聖護院の意識、支配が消えていない為である。
「最後の手駒……だと……?」
片方の歯が食い縛られる。聖護院には該当する人物に心当たりが有る様だ。
『そうでしたね。聖護院先生、貴方も御存じでしたね、そう言えば。あの夜に顔を見ていますものね。』
「矢張りあいつか……! あいつは初めから……!」
聖護院の片方の口角が歪に吊り上がる。
『闇は長く触れれば触れる程にその者へと馴染んでいく……。つまり、私の切り札、懐刀となるべきは最初から彼方。では、早速一働きして貰いましょう。最初の仕事はもう決まっているのでね……。』
彼の両眼が紅く妖しく煌めき、華藏月子のものとは思えぬ悍ましい高笑いが闇の中響き渡った。
☾☾☾
翌日、月曜日。
世間では週末の休息も終わり、慌ただしい社会の営みがまたしても始まる憂鬱な日であるが、華藏學園と假藏學園はこの日も休みである。そろそろ、長い休校措置に父兄から不安や苛立ちの声が出始める頃だろう。
そんな中、閉鎖されている筈の華藏學園の校庭を、少年と老翁が貸し切り状態にしていた。
「どうしたんですか、真里君? 昨日の調子は何処へ行ってしまったんです?」
膝を突く真里愛斗に、竹之内灰丸は厳しく叱咤する。彼等が學園の校庭を使わせて貰っているのは、それが事態を解決する唯一の道だからだ。學園側もまた、一刻も早く『學園の悪魔』を斃す事を願い、彼等に全面的に協力している。訓練の続きを行う場所を提供しているのもその一環だ。
にも拘らず、愛斗は今一つ集中力に欠けている。老齢とはいえ熟練の戦士である竹之内は、そんな気も漫ろな状態で太刀打ち出来る程甘くはない。何度やっても、愛斗はあっさりと打ちのめされてしまっていた。
「これでは続けても意味が在りませんね……。少し間を置きましょうか。」
「す、済みません……。」
竹之内は溜息を吐いてインターバルを宣言した。愛斗にとっては有難いと同時に申し訳無さが募ってしまう。彼が今一つ訓練に専念し切れないのには一つ、大きな理由があった。
『昨日の戸井さんの話……かしら?』
憑子の質問は図星だった。昨日、帰りの電車で戸井宝乃が呈した疑問は愛斗の心に大きな楔を打ち込み、常に彼を責め苛んでいるのだった。
『あれは気にしても仕方の無い話だわ。』
「そうでしょうか……?」
『事の真相がどうあれ、君のやるべき事は一つでしょう?』
憑子に諭されても、愛斗の表情は浮かなかった。気の持ち様一つで悩みが霧散するならばどれ程楽だろうか。
「まあ、真里君の気持ちも解りますよ。青春とは悩み多きもの。しかも今、君が抱いているものは我々の戦いの行方をも左右しかねないものでもある。考えるなというのも酷な話かも知れません。」
竹之内もまた、理解自体は示していた。
「ですが、敵はそこに配慮してなど呉れません。寧ろ、弱みを見せれば容赦なく突いてくると思った方が良いでしょう。逆に言えば、今君が悩んでいる事自体、敵の術中ということでもあると、こう考える事も出来るのです。ならば、我々とて手を拱いている訳ではありません。」
『成程、既に手は打ってある、と?』
「手を打つと言う程の事ではありませんがね。昨日の情報を受け、『裏理事会』の全員に警戒を呼び掛けています。今の所、悪い情報は有りません。まあ、敵も動けなくなっているのでしょう。」
竹之内には当然、昨日鐵と砂社が『裏理事会』に襲い掛かってきた情報が入って来ている。つまり、二人を返り討ちにした事も知っている。ならば、『學園の悪魔』は動きを封じられている筈だ、という見解があるのだ。
「若し昨日の話が君達の悪い想像通りなら、敵はそれを動かす他ありません。しかし、その動きは現状無い……。」
「つまり、外れていると考えて良いと?」
「そこまでは確定していません。しかし、矢張り『新月の御嬢様』が言う様に今思い悩んでも仕方が無いという事です。何とか気持ちを切り替えて貰うしかないのですよ。その為のインターバルです。」
幾ら言い聴かせようと、そう簡単に憂いが取り除ける訳ではない、というのは先述の通りだ。である以上、このまま闇雲に続けても意味が無いのだから、一旦頭を切り替える時間を設けよう、というのは理に適っている。
しかしそれは、愛斗にとって単なる休憩ではなかった。
「取り敢えず、昼食を買って来なさい。」
「え? 昼食って、休校だから購買部も開いてないですよ?」
「そんな事は解っています。外で買って来るに決まっているでしょう。」
愛斗の顔は一気に青褪めた。
華藏學園は山を買い取った広大な敷地を持つ。当然、徒歩で外の用事を済ませようとするとそれなりに距離があり、特に帰りは山登りを強いられる事になる。
来る時は理事長・大心原毎夜の運転する自動車に乗せて貰ったから良かったものの、彼女は學園に滞在しておらず、帰りの時刻にまた迎えに来る事になっている。
つまり、必然的に愛斗には未体験の苦行が待っていた。
「集中力に欠けていても体力作りくらいは出来るでしょう。」
竹之内はさも当然の様に愛斗に言付けた。どうやら少なからず怒ってはいるらしい。
『私も着いて行くけれど、体からは出させて貰うわね。』
「当然ですな。二倍の力を出されては意味がありませんから。」
憑子も愛斗を突き放す。
体力的な理由で挟む休憩ではないのだから、単純な運動に由って少しでも強化して時間を有効に使う、というのもまた理屈ではある。
「まあ、先程も申しました通り、図らずも今日は敵の動けない空白の日となっておりますから、襲撃を受ける危険は少ないでしょう。しかし、万が一の時は私に連絡を入れてください。到着まで時間は掛かるでしょうが、その期間まではどうにかこの三日で教えた事を実践し、持ち堪える事。良いですね?」
「は、はい……。」
思っていた以上に、竹之内は容赦が無かった。
愛斗は渋々、駆け足で運動場を離れ、華藏月子を模る白い靄と共に初めての下山へと赴いた。
「一応、手が空いている鹿目さんにも連絡しておきますか……。彼女も怪我人ではありますが、人手不足ですから万一の時は頑張って貰わなければなりません……。」
竹之内はスマートフォンを取り出した。いざとなれば憑子と共に戦えば良いのだが、保険は確り掛けておくつもりらしい。
☾☾
愛斗は汗だくになりながら、どうにか最寄りのコンビニに辿り着いた。
『大変そうね、真里君。』
一方で憑子は涼しい顔をしている。愛斗としては華藏月子の顔が苦痛に歪む所など見たくはないのでそれは構わないのだが、対比して自分が草臥れ切った顔を晒している所が冷蔵庫の硝子に映って情けない気持ちになってしまう。
「まあ、僕が悪いんですけどね……。」
『解っているじゃない。』
「……貴方はそう言いますよね。労わってくれる人じゃないですよね。それも解っていましたよ。」
愛斗は溜息を吐いて氷のペットボトルを二つ手に取ると、パンを選ぼうと棚に移動しようとした。帰るまで時間が掛かる事を考えると、丁度良く氷が融けて飲めるようになるドリンクと熱を必要としないパンか辛うじておにぎりという選択しか考えられなかった。
と、ここで愛斗に意外な人物が声を掛けてきた。
「真里。どうしたんだ、こんな所で?」
「西邑……!」
愛斗の親友・西邑龍太郎。彼もまた今回の『闇の逝徒會』との戦いに一枚噛んでいる。
「汗だくではないか。」
「例の件で色々やらされてるんだよ。これが結構きつくてさ……。」
「そうか……。何も君がやる必要は無いと、私個人的には思うのだが……。」
「僕がやらなきゃ駄目なんだってさ、残念ながらね。」
愛斗は久々に自分の身を案じる言葉を聞いた気がした。正確には戸井も気に掛けてはくれているのだが、彼女の場合は愛斗の使命を理解している。そこに疑問を呈したのは、西邑らしいと思った。
西邑は手帳に何やらメモしている。この仕草も相変わらずだ。
「お前こそ、何やってるんだよ?」
「まあ、何となく學園の近くに来たくなってな。」
「護衛の人は?」
「四六時中一緒に居る訳ではないのでな。」
愛斗は考える。確かに、彼には時間が無いのかも知れないが、かと言って四六時中戦いの事を考えてもいられない。現に、今限界が来ているが故に買い出しを言い渡されている。
だったら一層の事……。――愛斗は固唾を飲んだ。
強い決心を無言の内に自問自答して、西邑に言った。
「なあ、金曜日は悪かったな。」
「別に、気にする必要は無いさ。何時も無理を言って付き合わせてしまっている訳だからな。」
「いや、埋め合わせがしたい。遊びに行かないか?」
西邑を誘う愛斗の提案に、憑子は眉を顰めた。そんな場合ではないだろう、とでも言いたいのだろうか。だが、彼女は何故か黙っている。
「それは構わんが……。何時にする?」
「明日だ。」
やや強く直近の日を指定する愛斗に、西邑は少し驚いた様に瞠目した。
愛斗の眼差しには何か強い意志が宿っている。憑子が不本意そうにしながらも何も言わないのは、そこに理由が在るのかも知れない。
「どうしても、か?」
西邑もまた、意味深に問い返す。しかし愛斗の態度は揺るがない。
「強引で済まん。一寸譲れないかも……。」
「そうか……。」
西邑は何を思ったのか目を閉じ、そして小さく「解った。」と答えた。
「では、そろそろ私は失礼する。また明日な、真里。」
「ああ、また明日……。」
西邑はそう言うと、何処か小さな影を背負って店を出て行った。
親友と別れた愛斗に、漸く憑子は声を掛ける。
『一応言っておくけれど。私は反対よ。今は戦いの訓練を優先すべきだと思うわ。』
「一応、という事は解ってくれていますよね? 申し訳ないんですけど、今回は僕の勝手にさせて貰います。」
『まあ、君は意外と言う事を聞かないからね……。』
憑子はそれ以上愛斗を止めなかった。
一先ず、愛斗は買い物を済ませて學園へと戻る。
☾☾
その後、愛斗は見違える様な集中力で竹之内との訓練の続きを熟し、彼に舌を任せる上達を見せた。手も足も出なかった初期と比べ、少しずつ相手の動きに対応出来るようになっていた。
竹之内は感心していた。そして、買い出しによる消耗が無ければ更に出来るようになっているだろうとも言っていた。想定以上に見込みが在った、という事だろう。
今は『闇の逝徒會』の動けない空白の時。しかし、その平穏が破られる時も近く、戦いは刻一刻と迫っている。それが何時になるかは分からないが、確実に不意を突く形で訪れるだろう。だからこそ、愛斗は少しでも研鑽を積まなければならないのだ。
解っていた。
それは解っていた。
しかしそれは思いも寄らない形で最悪の現実を突き付ける。
間近に迫る大きな決壊を露知らぬまま、愛斗達は一日を終えた。
色々と疲れ切ってはいたが、翌日火曜日には西邑との約束がある。
大事な、大事な約束である。




