第五十話 疑心暗鬼
間違えたことや、騙されたことに気づいて疑うのは易しい。しかし、それはほとんど役に立たないとさえ言いたい。そういう強いられた懐疑は、暴力のようなものだからだ。
だから、この懐疑はうっとうしい。ほんとうは、けっして信じてはならない、つねに検討しなければならないということだ。
――アラン
凄まじい威力の拳に、顔面が変形した鐵自由が大きく吹き飛ばされた。
「ぼばアアアアアッッ‼」
仁観嵐十郎が理不尽な迄の才能により独学の見様見真似で闇と戦う術、光る拳を身に着けてしまった今、鐵に勝ち目は完全に無くなった。
「ゲハッ‼ ぐえぇぇ……‼」
口から紫色の体液を吐き散らし、苦悶の表情を浮かべる鐵は、ただ仁観に弄り物にされる許りだった。不死身の肉体という、得た筈の絶対的優位が脆く崩れ去った今、鐵の眼に最早戦意や闘志は欠片も無い。
「言ったよな? もう拷問ですらねえと……。お前は悪魔に魂を売った。つまり、人喰いの獣に差し出す贄を嬉々として狩り獲る道を選んだ! いや、自らがその獣になる道か!」
仁観は鐵の頭を掴んで顔を上げさせた。肩の後ろには白い光を纏った拳が振り被られている。
「だったもう、殺処分するしかねえよな‼」
「ヒイィィィッッ‼」
鐵の本音、彼は仁観に対して絶大な恐怖心を抱いている。同じ土俵でなど戦える筈も無かった。
何度も、何度も顔面に拳が突き刺さる。頭の位置は仁観の握力で固定されているので、衝撃が全く逃げない。
「ぶばっ‼ 待ってッ! 待ってくれ‼」
命乞い、それだけが鐵に残された手段だった。しかし、力に溺れて邪悪に塗れた男に取り付く島など残されている筈も無い。仁観は全く聞く耳を持たず、淡々とその剛力を鐵に振るう。
「おい、鹿目さんよ。」
「は、はひ⁉」
名前を呼ばれた鹿目理恵はびくりと跳ねた。敬愛する仁観の冷酷な暴力に若干引いていた所に声を掛けられて驚いたのだ。
「こいつ、闇の眷属はどんだけ殴れば死ぬんだ? 多分、普通の人間ならとっくに頭潰れて死んでると思うんだが……。」
「あ、やっぱり普通に殺すつもりだったんですね? だ、駄目ですよそんなの‼」
「駄目ったってよ、じゃあこいつどうすんだ? 例えば警察に引き渡してどうにかなんのか? アンタはどうするつもりだったんだ?」
立て続けに問い詰められ、鹿目は言葉を失った。仁観に鐵を手に掛けて欲しくない、というのは彼女の個人的な感情だ。それは人として当たり前の倫理観ではあるのだが、一方で彼の指摘通り、自分の方は『裏理事会』のメンバーとして闇の眷属を葬るつもりでいた為、言葉に矛盾が生じてしまう。
「俺だって解ってるよ。いくらこいつが極悪人でも殺っちまえば罪の十字架を背負う事になるってな。だが、こいつの罪は誰がどうやって裁くんだ? 不死身の身体を持ってる以上、死刑にすることだって出来やしねえ。それ以前に闇の力が有る以上、真面に司法の裁きを受けさせられるかも大いに疑問だ。こいつはもう、人間社会の常識じゃ裁けねえんだよ。アンタだって、それは解ってるんだろ?」
既に鐵の顔面は体液で紫色に染まっていた。
「じゃあ、引導を渡さなきゃ駄目だろうが‼」
「待てぇぇェッッ‼ 取引だ‼ 取引をしよう‼」
鐵の必死の叫びに、仁観の拳を寸止めされた。恐怖の余り、鐵は奥歯を小刻みに鳴らしている。
「取引だと?」
「あ、ああ……。お前ら、俺達の隠れ処を探しているだろ? 昨日殺したお仲間が探っていたからな。それを、教えてやるよ……。それだけじゃねえ。御主人様を斃すってんなら、それにも協力する。勿論、もうあの人の為に殺しを働いたりもしない。元々俺は誰かに心から忠誠を尽くすって柄でもねえんだ。」
鐵が自分で語った彼の性格については、仁観も半分納得出来る面があった。半分、というのは、一聴すると「人に従う柄ではない」という意味に取れる言葉だが、鐵は自分より強い者には従うという事。一方で、確かに初めから寝首を掻く気満々であるという、配下として信用出来ない男であるという事。
「爆岡の事も裏切るつもりだったお前の事だ。いざとなりゃ、そりゃ『學園の悪魔』の事も裏切るだろうな。」
仁観はまるで最初から判っていたかの様にこの展開を呑み込んだ。そして乱雑に彼の身体をその場へ投げ棄てた。
(こいつは確かに良心のブレーキがブッ壊れた屑だ。だが、損得が解らねえ程に狂い切ってもいない。法や秩序には従わねえが、恐怖には従順だろうよ。)
そう、彼は確かに本気の殺意を以て鐵と向き合ったが、それは情報を吐かせることを目的としていた。若し狙い通りに行かなければその時はその時だったが、彼は未だ人の道を踏み外し切ってはいないので、命を奪わずに済むならばそれに越した事は無かった。
「鹿目さん、若し悪魔とやらが消えたら、鐵はどうなる?」
「闇の力の影響が消えますね。死体は元の死体に、生きていた人間は元の人間に戻るでしょう。」
鹿目の答えはつまり、鐵が悪魔と一蓮托生ではない事を意味していた。ならば、悪魔が敗れれば助かるという状況を維持しさえすれば味方に引き留め続ける事は出来るだろう。
だが、勿論鐵も事此処に至っては仁観の目論見が解る。そして、彼にとって重要なのは、自らの選択肢を維持する事だった。
「放したな、俺の事をよ……。」
「あ? 俺がお前の逃亡を予測しねえとでも思ってるのか? 後、俺の足の速さを知らねえ訳じゃあるめえ。逃がさねえよ?」
確かに仁観には超人的な身体能力が有る。如何に鐵が闇の力で強化されていようと、仁観とはありと汎ゆる面で到底敵わず、逃走は不可能だろう。
だが、それは鐵が己の力のみに恃みを置いた場合だ。
「忘れたか、仁観ィ‼ 闇の力の、もう一つの使い方を‼」
鐵が叫んだ瞬間、仁観と鹿目は右方からバイクのエンジン音を聞いた。しかも一台や二台ではない、暴走集団が紫の靄を纏って二人に突っ込んで来ていた。
「くっ‼」
仁観は焦った。このままでは確実に鹿目諸共轢かれてしまう。彼女を抱えて、咄嗟の回避行動、他に彼の選択肢は無かった。だがその場から跳び退いた瞬間、否が応にも決定的な隙が生じてしまう。
「ぐはははは‼ 莫迦め、ぶゎぁくゎぁむぇええええええッッ‼」
鐵はここぞと許りに目一杯の嘲笑を仁観にぶつけ、バイクの集団に捕まってその場を去って行った。
「てめえ、待ちやがれ‼」
仁観は庇った鹿目を無事に立たせると、直ぐ様鐵を走って追いかけようとした。彼には走行するバスにも追い付く脚力が有る。バイクであろうと追い付ける、そう信じていた。
だが、距離を縮める内に仁観は気付いた。
バイクの群からはいつの間にか紫の靄が晴れていた。そして、その中に鐵の姿は無かった。
「畜生、下手扱いた……。まんまと逃げられちまったか……。」
仁観は一つ舌打ちすると、置き去りにした鹿目の許へと急いで戻って行った。
☾☾☾
一方、もう一人の闇の眷属もまた、別の街角で『裏理事会』のメンバーと対峙していた。
砂社日和は黒ずくめの、ゴシックファッションの女の前に膝を突いていた。
「くっ、二手に分かれたのは失敗だったみたいね……。」
「そりゃそうでしょう。貴女達、元々は所詮素人でしょう? 私達『裏理事会』は戦いの訓練を積んでいるので。」
砂社に優勢を取っているのは『裏理事会』の一人で旭冥櫻こと浅倉桜歌、西邑龍太郎の護衛に就いた作家である。
「ここは一度……。」
「ああ、退散してくれるならそれで構わないわよ。聞く所に拠ると、貴女は既に死んだ身。悪魔を斃せば共に土に還る運命。だったら焦って片付ける必要は無いもの。罪への罰なら道連れで充分。」
砂社は眉間に皺を寄せ、やる気の無さそうな旭冥を憎々し気に睨み上げた。だがここまでの戦いで彼女は自身に勝ち目が無いと思い知っている。この場は敵の言葉に甘えて逃げる他あるまい。
「後悔する事になるからね。」
「それはどうかしらねえ……?」
旭冥は欠伸を出す余裕すら見せている。砂社は一応、その隙を見て一目散に駆け出した。
「あらあら、本当に逃げてしまったわね。良かった良かった。」
欠伸を抑えるべく口元を隠した手の裏で、旭冥は小さく笑みを浮かべた。差し詰め、計画通りといった所か。
「余程慌てていたのね。発信器を服に付けられた事にも気付かないなんて。ま、上手く行けばこれで敵のアジトの場所も判るでしょう。」
旭冥と砂社の実力差は歴然だった。彼女は敵を圧倒する許りか、序でに敵の隠れ処を探る方策を仕込む余裕すらあったのだ。
「ま、二対一じゃ危なかったかも知れないのはその通りね。尾藤さんもやられたんだもの。引き続き警戒はしておかなきゃ。それにしても……。」
彼女は一つ、奇妙な違和感を覚えていた。
「なーんか、敵の動きが変なのよねえ……。」
風がざわめき、木立が不穏な交響曲を響かせる。それは、敵の情報を探る策を突発的に仕込んだ彼女だからこそ気付けた事だったのかも知れない。
☾☾☾
日没の時が過ぎた。真里愛斗達は外食で夕餉を済ませ、四人と一人で高速鉄道にて旅からの帰路に就いている。
訓練の疲れから転寝する愛斗は、最後に漸く竹之内父娘の同時攻撃を凌ぎ、一矢を報いる事が出来た。竹之内翁は鳩尾の当たりを押さえている。
「どうにかギリギリ、及第点といった所でしょうか、御父様?」
竹之内の娘、文乃の評価は辛口なものの、決して悪くはなかった。
『及第点かどうかは最後まで判らないわ。目的を達成して、初めて合格なんだから……。』
逆に憑子の評価は最大限に厳しいものだったが、彼女の言う事も一理ある。結局のところ、悪魔の討伐が愛斗の他に為せない以上、それに至らない結果は全て落第とも言える。
寝息を立てている愛斗の目蓋が動いた。憑子の厳しい言葉に、嫌な記憶が刺激され夢にでも悪影響を受けたのだろうか。
「ふむ、しかし私は一つ希望を感じております。」
窓の向こう、憑子の顔を見つめる竹之内翁は小さく微笑んでいた。
「私と娘への反撃に成功した最後の手合わせ、あの時私達は鳩尾、即ち中丹田の付近に攻撃を受けました。つまり、彼は経験を生かし、的確に闇の眷属の急所を狙い撃とうとしたという事。また、顔に似合わず果敢な、容赦の無い攻めを打つという事。これは偏に精神的な才能と言えるでしょう。」
『ああ……。』
愛斗が敵の弱点を知ったのは鐵のと交戦で一度切りである。その経験を、彼は見事に自らの血肉に変えていた。
丸切り見込みが無いなど、とんでもない。――そう思いたいのは誰もが同じだった。
ふと、愛斗が目蓋を擦って目を覚ました。
「あ、すみません……。どれくらい寝ていましたか?」
「もう直ぐ到着ですよ。起きられて良かった。」
愛斗は未だ頭が茫っとしている様で、額を押さえて半目になっている。
「まあ、我々は今後も御二人の護衛として御傍で見守っております。難でしたら、向こうでも少々訓練も付けられるでしょう。」
「本来、娘に立ち会って貰う予定は無かったのですが、二人掛かりでより濃密な訓練が出来ました。戸井さんの御決意の賜物として、感謝しておりますよ。」
竹之内親子の申し出は愛斗にとって有難半分、憂鬱半分だった。確かに教えを受け続けられるのは僥倖だが、それだけでは済まない辛さもある。
だが、ここで名前を出された戸井はある事に気が付いた様に瞠目する。
「待って、一つ解らない事がある……。」
「どうしたんだ、戸井?」
愛斗の問い掛けが聞こえているのかいないのか、彼女は口元を抑えて独り言の様に呟く。
「一昨日私は、竹之内さんから聞いたから愛斗が遠出する事を知った……。じゃあなんで……。」
戸井の言葉に、窓に映る華藏月子の顔付きが渋くなる。彼女も何か思う所が有る様だ。
戸井は震えながら続ける。
「だったらなんで、鐵は……闇の眷属はそれを嗅ぎ付けたの……?」
それは、一つの地盤を崩す重大な気付きだった。
愛斗は何かを拒む様に、思考を停止させた。考えてはいけない、深層心理がそう言っている。
記憶の奥、扉が激しく叩かれて揺れている。
封印されていた何かが今、決壊しようとしている。
『……これまでかしらね……。』
憑子は意味深に呟いた。
愛斗達の旅は最後の最後、一つの大きな疑惑を土産として終着を迎えようとしていた。




