第四十九話 復讐という甘美
歴史の過ち、復讐――凡そ人類に止められないそれらは、螺旋構造に譬えられる。
皮肉な事に、遺伝子も螺旋構造だという話ではないか。
――聖護院稔久
土曜日、夜。
客人である真里愛斗、憑子、戸井宝乃の三人が部屋で休んでいる間、竹之内灰丸は前日に引き続き食器を洗っていた。
「深奈さん。」
「はい、何でしょう?」
竹之内翁は居間で寛ぐ妻に話し掛けた。同室し共にソファに腰掛ける娘の文乃も目線で彼の言葉に注意を向ける。
「明日からまた暫く空けますので。」
「ああ、存じ上げておりますよ。文乃ちゃんから事情は聞いています。暮れ暮れもお気をつけて……。」
「……すまないね、毎度々々。」
「いえいえ、お構いなく。基より、承知の上ですから。」
夫婦はそれ以上言葉を交わさなかった。事情を知っている、という事は妻の深奈も夫が危険な仕事を担っていると解っているのだろう。しかし彼女は引き止めない。それは夫の身の安全を気にしないという冷血な意味ではない。
「御父様の事は私が守りますよ。」
憂いに潤んだ深奈の眼に、文乃は安心させようと言葉を掛けた。
「何を言っているんですか。戻って来る時に貴女が欠ける事など在ってはなりません。」
そう釘を刺すのは親族として当たり前の感情だろう。
「そう言えば文乃。」
洗った皿を拭きながら、竹之内翁は今度は娘に問い掛ける。
「私は途中から離脱してしまったが、彼の感触はどうかね。何とか最後は成果が見えた様だが……。」
「見込みは在ると思いますよ。じっくり鍛える事が出来れば、きちんとした戦力に育てる事も可能だったと思います。」
「ふむ、そこは私も同様の見解だ。しかし、そう悠長な事も言っていられない。」
「はい。しかし正直、最後の反撃は未だ判断しかねますね。成長の証なのか、偶然に過ぎないのか……。」
どうやら愛斗の訓練は決して見通しが良くはないらしい。再三言われている様に、本来はもっと時間を掛けて長い目で見た訓練を施すのだから、無理からぬ事だった。
「しかし、祠前での訓練は明日迄だ……。どうにかそこまでで基本は完璧に身に付けて貰い、後は焼け石に水でも何とか力を伸ばして貰わなければ……。」
「今日明日で即戦力になる様な稀代の天才であれば良かったのですが、そう都合良くは行かない物ですね、矢張り……。」
だが、泣き言許りも言ってはいられない。無理にでも見込みを付けなければ、取り返しの付かない事になるのだ。
僅かな希望の意図を手繰り寄せられる事を夫々の胸に願いながら、彼らは日曜の朝を迎える。
☾☾☾
翌日、日曜日。
昨日に続き、祠の下で愛斗の訓練が行われる。
「そう言えば、どうして態々祠の近くで訓練するんですか?」
愛斗はこれまで何となく流していた疑問を竹之内翁にぶつけた。
「最初の内は此処でやらないと、力の制御が安定しないんですよ。最終的には祠から離れても問題無く戦える様になるのが目標ですがね。」
つまりそれは、実戦は現在の訓練と比較にならない程の難易度の制御を要求されるという事だ。愛斗は気の遠くなる思いだった。
「ですので、今日の内に安定した制御を身に着けて貰わねばなりません。大変かとは思いますが、帰りの電車に間に合うぎりぎりの時間まで追い込んでいく予定ですので、そのつもりで。」
竹之内の扱き宣言に、愛斗は渋い顔を浮かべるしか無かった。
☾☾☾
一方その頃、遥か西方の、愛斗達の地元に新たな危機が訪れていた。
華藏學園の『裏理事会』は精鋭揃いである。皆、愛斗が現在苦戦している訓練を乗り越え、闇と戦う力を身に着けた確かな実力者達である。
それが、昨日の土曜日の時点で一名殺害された。尾藤という、『闇の逝徒會』の隠れ処の場所を探っていた男が殺されたとの報は他の『裏理事会』メンバーにその日の内に共有され、警戒を強めた。
そして、その毒牙は今或る男女へと向けられていた。
「しつけえ男だな、てめえも……。」
華藏學園の女子制服を身に纏い、|如何《いか》にも助番風の格好をしたこの人物、仁観嵐十郎は体も中身も紛う事無き男だが、個人的な趣味でこの様な格好をしている。特筆すべきは、そんな見かけの雰囲気にも関わらず、人間離れした身体能力と喧嘩の強さの持ち主だという事だ。
そんな彼は、『闇の逝徒會』のメンバーの内一人から強い恨みを買っていた。
「言っておくが、この俺をあの時と一緒と思うなよ、仁観ィ……!」
「だろうな。今までとは明らかに違う、人の道を決定的に踏み外した禍々しい眼をしてやがる。あの野郎と同じ様に……!」
闇の眷属の一人、假藏學園の逝徒會長にして最大の不良グループ『弥勒狭野』でナンバー2の座に坐る男・鐵自由。数日前、彼は戸井宝乃を拉致して仁観の怒りを買い、完膚無き迄に叩きのめされ無様を晒した。
だが、そんな格下の男と相対しているにも拘らず、仁観の表情に余裕は無かった。彼の背後に一人の若い女を庇っているというのもあるのだろうが、それだけでは説明のつかない緊迫感が浮き出ていた。
「うぅ……。嵐様、御免なさい……。」
女は酷く怪我をしている。彼女は『裏理事会』の一人・鹿目理恵、仁観嵐十郎の護衛を担当することになっていた。しかし、先に鐵の襲撃を受けて絶体絶命のピンチに陥っていた所を仁観に助けられるという、本末転倒の失態を犯していた。
「本来は……私が嵐様を御守りしなければならないのに……。」
「謝るな。元を糺せば悪いのはこいつらなんだ。それに、誰であれ暴漢に襲われてる女が居たら助けるに決まってんだろ。俺を誰だと思ってるんだ。」
鹿目は個人的に仁観のファンであった。彼女の本業は音楽ライターで仁観の才能に心底惚れ込んでいるのだ。
そういう事情で、仁観は元々彼女を知っていた。つまり彼にとって、鐵は闇云々以前にまたしても自分の関係者を傷付けたことになる。
「褒めてやるよ、鐵。ここまで何度も何度も性懲りも無く俺に挑んできやがった奴はお前が初めてだ。雑魚には雑魚なりの意地があるんだと、そこは評価せざるを得ない。ま、つまりもう拷問すら生温いって事だがな。」
飽くまで強気な仁観の態度に、鐵の蟀谷が不愉快そうに痙攣した。
「減らず口を聞けるのも今の内だけだぜ。今の俺はお前には絶対に斃せねえんだからよぅ……‼」
「自分だけ安全地帯に居るから調子に乗ってるってか。如何にも雑魚の思考回路だ。」
仁観は闇の眷属と戦う術を身に着けていなければ、それが必要だという事も知らない。だが、鐵が自分の敗北など無いだろう、一方的に蛸殴りにしてやろう、という卑怯な思い上がりに染まった相手と同じ顔をしている事に気付いていた。
だからこそ、仁観は一筋縄では行かない事を予感していた。そういう、喧嘩として無粋な策を練りながら自分の眼の前に顔を出す事の異様さが気になっていた。
そんな警戒心を露わにする仁観の様子を見て、鐵は然も愉快気に笑い声を上げる。
「くっくっく、良い表情だなァ。だが、俺が見たいのはそんなもんじゃねえ。もっと、苦痛と絶望、無力感に染まった負け犬の顔だァッッ‼」
「へっ。あの時のお前みたいにか?」
「はははっ‼ そういう態度ならそれもまた良し‼ 強がった儘、無様に死れ‼」
鐵の両手に愛用の武器、トレンチナイフ付きのナックルダスターが装着された。
「その綺麗な顔をグシャグシャにしてやる‼」
鐵は狂気に両眼を爛々と耀かせ、口から僅かに舌を覗かせて仁観に殴り掛かった。だが、拳は兎も角この顔は拙かった。前に出て来るのに合わせ、仁観が鐵の顎を蹴り上げたのだ。
「がペッ⁉」
「舌出して掛かって来る奴が在るか。やっぱお前莫迦だろ。」
そう、鐵は仁観に顎を激しく打たれ、思い切り舌を噛んでしまったのだ。因みに、舌を噛み切った時に残った部分が喉奥に詰まって死ぬ、という創作で定番のシーンだが、実際にはそう容易に自殺出来るものではないらしい。
更に、仁観は出鼻を挫かれて隙だらけになった鐵の顔面へと容赦なく拳の連撃を見舞う。
「オラァァアアアアッッ‼」
「ぐええあアアアアッッ⁉」
鐵では仁観の相手にならない、それは彼が闇の眷属になった今も変わらなかった。考えてもみれば当然の話で、仁観は常人の二倍所ではない異常過ぎる身体能力の持ち主であり、更に喧嘩慣れもしている。愛斗にあれだけ苦戦し、撤退を余儀なくされた鐵では矢張り逆立ちしても勝てないのだ。
だが、それは一つの条件を抜きにした場合の話だ。鐵は拳の猛攻によろめきながら後退るも、決して倒れる事無く冷静に距離を取った。
「随分……タフになったじゃねえかよ……。ま、予想はしてたがな。」
勢いよく地面に紫色の液体を吐き棄てる鐵を、仁観は苦虫を噛み潰した様な表情で睨み付けていた。
既に闇の力で操られた不良の群と対峙した彼にとって、この鐵のパワーアップは想定の範囲内だった。しかし、彼が吐いた、恐らく血の色を見て嫌な確信を得てしまう。
「人間を辞めたって事か……。そこまでしてこの俺に勝ちたかったのか? 物好きな野郎だな。たかが喧嘩の、不良の王者になった所で何が偉いんだって話だぜ。」
「だったら……そのたかがの、別に偉くとも何ともねえ目標の為に打ち殺されなよぅ……!」
鐵は紫色に充血した目で仁観を睨み、再び凶器を握り締めた拳を構える。
仁観にとって今の所幸いなのは、未だ鐵が仁観を喧嘩で叩きのめすつもりでいる事だ。若し本格的に闇の力に恃み、仁観を爆散させる手段を採ったら、彼に対抗手段は無い。
「オラァッ‼」
「フン!」
「ぐベエッ⁉」
従って、この様にあっさりと反撃を叩き込み軽くあしらい続け、鐵を追い詰めるのは仁観にとって実は得策ではなかった。だが、重ねて幸いにして鐵は自分を虚仮にした仁観に眼に物を見せてやろうと思う余り、楽だが張り合いの無い手段に考えが至らなかった。
鐵は、自分が頭の良い策士だと思っている莫迦である。彼がそのちっぽけなプライドを捨てるには、もう少し手詰まり感を強めなくてはならなかった。
「ガアアアッッ‼」
「しっつけえんだよ‼」
鐵の攻撃、それ即ち、反撃の被弾。これは非常に良くない状態だった。鐵はこのままでは埒が明かないと、苛立ちを強め始めている。
(クッソがあ……! やっぱ一筋縄じゃ行かねえか……。一層の事、闇の力で手っ取り早く殺っちまうか?)
鐵の嗜好が危険な方向に流れている。だが、彼の視界に或る人物が過った事で、その方向は転換された。
尤も、それは良い兆しではない。鐵は下卑た笑みにその表情を歪ませている。如何にも、邪悪な企みを思い付いたといった顔つきだった。
「ヒャハッ……ヒャハハハハハハハハハァーッッ‼」
「なんだなんだ、とうとう気が狂れたのか? そんなテンプレ染みたやられ役の外道モブみてえな笑い声上げやがってよ。」
鐵は仁観の挑発も意に介さず、性懲りも無く殴り掛かって来た。若干の違和感と面倒さを覚えつつ、これまでの様にあっさりとカウンターを合わせようとする仁観。
しかし、今度は鐵が仁観に拳を合わせて来た。素手の拳とナックルダスターが激突し、鐵の指が圧し折れる音が響いたものの、仁観は思わぬ展開に一瞬硬直した。
「なッ⁉」
「ヒャッハァーッ‼ そう何度も莫迦の一つ覚えを繰り返すと思うかぁ⁉ 俺の狙いはこいつよォッ‼」
僅かな隙を突き、鐵は仁観の背後に回り込んだ。そこには彼が庇っていた鹿目が居る。素早く、鐵は彼女の体を盾にする様に抱え込んだ。
「畜生、しまった……‼」
「あうぅっ、御免なさい嵐様‼」
「ハハハァーッ‼ この女の身を案ずるなら、両手を上げてゆっくりこっちへ来い‼ 貴方の勝ちだと今誓え、罪を感じて懺悔をしろ、蹴られても抵抗するな、泣いて許しを乞え、そして負け惜しみを言え、いつものように強気な目付きで、最後に此処で死んで見せろ‼」
本来護るべき筈の敬愛する仁観をピンチに陥れてしまった鹿目は慙愧の念に顔を歪ませる。
仕方なく鐵の言う通りに両手を上げ、間合いに無抵抗で入る仁観に、鐵の蹴りが炸裂した。
「ぐっ……‼」
「覚悟しろ、このまま蹴り殺してやるからなあ……‼」
不良としての、喧嘩自慢としての意地は何処へ行ってしまったのか、こんな勝ち方で満足なのか、そんな問い掛けは鐵に対して無意味だった。それが通じる知能も美意識も彼は持ち合わせていないからだ。
形勢は逆転、仁観はただ嬲り殺しの運命を待つ許りとなってしまった。
「復讐を達成する快感……今俺は、予感している。丸で射精に向かって昇り詰める中で解放の時が近付いている様な感覚だ……。ああ、もう逝っちまいそうだぜ……‼ そうだ、お前を殺した後は、只の肉人形になった体を死姦してやろう。折角女の格好をしているんだから、ちゃんとそう扱ってやらねえとなあ……‼」
「ケッ、変態が……。別にお前が男でも構わず食っちまうのは構わねえが、死体なんぞと事を致そうというのは流石にどうかしてるぜ。ま、俺にはそっちの気はねえから余計に悍ましくて仕方ねえがな。」
飽くまで強気な仁観に嗜虐心がそそられたのか、鐵の蹴りが激しくなる。
だが、鐵は迂闊にも一つ失念していた。抑も鹿目は仁観を護る為に派遣された『裏理事会』の一員、闇の眷属と戦う術を知っている。そんな彼女と近接し、盾にしている間は両腕が塞がっている、というのは愚行だった。
「このっ……‼」
鹿目の両手が光に包まれる。残された力を懸命に振り絞り、鐵に起死回生の一撃を見舞った。
「ぐっ‼ てめえ……‼」
後ろに繰り出した肘打ちが鐵の鳩尾に突き刺さる。それは即ち、中丹田、闇の眷属にとって最大の弱点である。
流石の鐵も、これには後退り人質を放してしまう。
「ぐはっ……! くくく、狙いは良かったがなあ……。」
だが、既に愛斗との戦いで痛い目を見ていた鐵はしっかりと対策していた。得意気に上着を捲ると、胸に仕込んだ雑誌が露わになった。
そして人質作戦を破られた鐵は、とうとう開き直った。
「まあ良いか! もう充分蹴りを入れて心は晴れたしな! 此処らで終わりにしてやる! 闇の力で爆ぜるが良い‼」
紫の靄が鐵の身体から一気に噴き出し、仁観に襲い掛かる。こうなっては如何に仁観が圧倒的な強者でも一巻の終わりだ。
だがここで、鐵も、鹿目も予想外の事が起きた。鐵の放った靄を、仁観は拳で振り払ったのだ。
「な、何……?」
それは信じられない光景だった。仁観の拳が白い光に包まれている。
「鐵、さっきお前は鹿目さんの何て事ない拳で明らかによろめいたよな? つまりこの光は、今のてめえに効果があるって事だ。」
「莫迦な……? 何でてめえがその力を⁉」
「さあ? 鹿目さんが拳を光らせるのを見て、何となく真似しようと思ったら、出来た。」
物が違う天才、仁観嵐十郎。彼は遥か東方で愛斗が苦しんでいる闇への対抗手段の会得を、見様見真似であっさりと成してしまった。
鐵は焦燥感から歯噛みし、額に青筋を立てて瞠目していた。
「てめえ……仁観、てめえ……‼」
「余裕が消えたな。漸く戦いの舞台に引き摺り下ろしたって訳だ。つまり、お前は終わりだ。」
仁観は光る拳を構えた。理不尽な逆転劇が今始まろうとしていた。




