第四十八話 死、生、現実
三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は生き続ける。
――吉田茂
華藏鬼三郎は戦前の豪商であるが、先の大戦の頃には既に故人であった。それ故、彼にその結末に思う所があるというのは、実際に彼自身から聞くまで今一つ信じられなかった。況して、その勝敗に執着していたのは余りにも予想外だった。
「そんな事の……為に……今の世界は滅んで構わない、と?」
『何が悪いというのだ?』
鬼三郎の脇で竹之内斧丸が開き直った。
『我々が積極的に滅ぼそうというのではない。また、循環構造そのものは文明が滅ぶ直接的原因ではない。おまけに今すぐに滅ぶという訳ではなく、何百年或いは何千年も後の事かも知れないのだ。深刻に受け止めねばならぬ理由が無い以上、滅んだ後に再生する次の歴史に我々の望む結果を望んでも、それは浪漫を求めているだけではないか。』
真里愛斗は考える。
これは確かに、救いを求める人間を見殺しにする類の話ではない。遥か未来に人類が滅ぶのなら、その後に自分にとって望ましい新世界を求める、というのも取り立てて邪悪な思想ではないだろう。
だが、愛斗はそこに一つの引っ掛かりを覚えていた。
「御三方は、それを意の儘に取捨選択しようとしているのではないのですか? 態々祠の力を研究し、循環を脱する方法を探そうとしている。しかし見付かったとしても、今の世界に適用するつもりは無い。都合悪いからと今の世界を斬り捨て、都合の良い世界が訪れてからそれだけを救おうとしている。その選別を、僕は純真なものと思えません。」
『うむ、君の言う事は尤もだ。』
意外な事に、鬼三郎は愛斗の述べた批判を素直に受け容れた。
『知っての通り、儂は先の大戦を生きて経験しとらん。その時代を超えたのは聖護院宮殿下と竹之内君じゃ。あの時は二人に共感し、學園の方針変更を是認したが、真里君、君の言う通りだと思う。』
鬼三郎の両隣で、聖護院稔久と竹之内斧丸は気不味そうに脇目を逸らした。話に拠ると、循環する歴史の取捨選択は元々鬼三郎ではなく他の二人の意向だという。
『しかし、儂にとっても死後に日本が彼の大戦争に敗れたのは痛恨だった。儂は生前、商いを広め欧米にまで手を伸ばしたが、まだその時は海外に打って出る日本人など珍しかった。故に日本人、否、有色人種の世界的な地位の低さを感じずにはいられなかった。そんな日本が国の威信を掛けて世界秩序に戦いを挑んだからには、是非とも堂々と完璧に戦い、そして勝って貰いたかった。』
染み染みと語る鬼三郎の眼は、しかし内なる情念の焔を確かに宿していた。それは愛斗の批判を肯定しながらも、野心を棄てずにいる豪傑の眼だった。愛斗、それと戸井宝乃もその眼光に思わず身震いした。
『抑も、先の大戦には勝利の神託が在った筈だ。しかし敗けたという事は、我が国はそれに背いたのだ。神武東征に準え、八紘一宇を唱えるのならば、何故神話に倣わない。紀伊半島宛らに南米を迂回して東から攻めるべきであろう、米国を。東から西へと攻める可し。さすらば神風は吹き、光は我が皇軍に差していた筈だ。』
それは狂気と言う外の無い妄信だった。余りにも無茶苦茶であるし、真面な思考力があればそんな訳が無いと一瞬で解る。いや、それ以前に考え付きもしない。擁護の余地が在るとすれば、彼は当時既に故人であり、大戦の実際を知らないという事か。
しかし、それにしてもこんな暴論を当然の真理として話を進める所に、華藏鬼三郎の凄まじさがあった。
『華藏學園の育成目標とは即ち、二つの人材を来るべき滅亡の時より後に残す事。一つは、祠の力を身に着け、循環構造を脱する時に向けて受け継ぐ人材。そしてもう一つは、大いなる知識と知恵を身に着け、新たなる歴史の創造に我々の思想を受け継ぎ、我が国を今度こそ勝利へと導く人材。』
「それが……華藏學園の正体だと言うんですか……?」
戸井は自らの肩を抱いて体を丸めた。學園を愛していた彼女にとって、理念の裏に秘められた狂気はさぞや衝撃的だったのだろう。
『しかし、儂等の目論見は一旦中断せざるを得なかった。それ所ではない脅威が祠には眠っておったからだ。』
「成程、そういう訳だったんですか……。」
対して、愛斗は比較的冷静だった。學園には闇が在ると憑子から聞かされてある程度日が経っている。薄々と、その創立や背景に尋常ならざる裏が在るという事は感じていたのだ。
『あともう一つ、訊かせて頂けますか、曾々御爺様?』
今度は憑子が鬼三郎に問い掛ける。
『私達はこれから、學園の悪魔を討伐します。その為に、今日は此処へ来ました。では若し、討伐が為されたとして、その後の學園はどうなさるのですか?』
『我々の意向としては、当初の目的に立ち返りたいと願っている。』
聖護院稔久が鬼三郎に代わり即答した。しかしその表情は何処か他人事の様だった。その意味は直ぐに判明する。
『しかし、その意向を反映させる力など今の我々には無い。學園の経営方針は完全に華藏家とその使用人達に移ってしまった。表向き、死んだことになっていて滅多に人と会えぬ我々には、最早何も出来ん。』
聖護院の言葉に鬼三郎と斧丸も頷いた。他人事の様な表情の正体は、最早自分達の悲願は叶えられぬという諦観だったのだろう。
『我が玄孫、憑子よ。』
鬼三郎は憑子に言葉を掛ける。
『お前はどうだ? 儂の思い、次代へと受け継いでくれるか?』
『冗談ではありませんよ、曾々御爺様。』
憑子もまた、微笑みと共に即答して高祖父の懇願を拒否した。如何にも彼女らしい、華藏月子の整った顔立ちに底意地の悪い笑みを模った。鬼三郎はそれに怒るでもなく、ただただ自分達の結末を受け容れる様に両眼を閉じた。
『詮方も無し。』
『しかし華藏先生、これで良かったのだと思います。』
『ええ。これでやっと……。』
他の二人も、何処か安心した様に穏やかな笑みを浮かべていた。内心、自分達の悲願が叶わぬ夢と消える運命にあると判っていたのだろう。しかし、この場ではっきりと終わりを宣告される迄どうしても諦め切れずにいた、といったところか。自分達の妄念が招いた事とはいえ、彼等は屹度疲れ切っていた。
『踏ん切りが着いた。最期に一つ、忠告しておこう。』
少しずつ、白い三人の姿が薄れていく。それはまるで、幽霊が成仏していくかのようだった。鬼三郎の言葉は、宛ら遺言だった。
『祠の力、穢詛禁呪に呑まれてはいかん。力に影響を受けるだけならば未だしも、自ら手を伸ばしてしまっては必ず後悔する事になる。あれはこの世の理と分かたれた力だ。取り込まれれば最期、死した後にこの世界の渦の中へ戻ることが出来なくなってしまう。』
『それでは、曾々御爺様達は……!』
『心配する事は無い。我々が使うのはそれとは別だ。名前は伝わっていないが、対極となる光の力だと思えば良い。それこそが、それだけが唯一の、闇への対抗手段なのだ。忘れるな、他に道は無い。甘言に騙され、穢詛禁呪を求める事罷りならんぞ。』
鬼三郎の表情からも情念が消え、穏やかな表情で憑子を見詰めていた。そのまま、『學園三巨頭の姿が薄まっていく。
『我が孫灰丸よ、後は頼んだぞ。』
「お任せください。」
姿が完全に消える直前、竹之内斧丸が孫の灰丸に未来を託した。
そう、この邂逅はほんの前座に過ぎない。本題は、愛斗が闇と戦う術を身に着ける事だ。
☾☾☾
假藏學園は生徒會室。
閉鎖され、無人の筈の学び舎の一室で二人の男女が机を挟んでソファに坐っていた。
「ああ、腹が立つ……。」
苛立ちを吐き棄てるのはこの部屋の主、假藏學園生徒|會長《かいちょう》の鐵自由だ。刺青の刻まれた額に青筋を立て、その心中を露わにする。
「貴方が闇の力の行使に未熟だったのが悪いんだよ。」
向かい側でそれを窘める少女は部外者、華藏學園生徒會会計・砂社日和である。
二人は既に使い魔と化しており、『闇の逝徒會』の一員として『學園の悪魔』の為に殺戮を行う日々を過ごしていた。
「ま、その内慣れると思うよ。あの方が適正に太鼓判を押してるんだから。」
「けっ、真里を殺すのはその時まで御預けか。いや、あの靄の女と爺も追加だな。思い知らせるべき相手が次々増えやがる。気に入らねえことこの上ないぜ……。」
鐵は強く舌打ちした。そんな彼に、砂社は一つ提案を持ち掛ける。
「ねえ、でも体力は回復したでしょ? 大してやられなかった訳だしさ。」
「あん?」
「そんなに苛つくなら、私と……ストレス発散しちゃわない?」
意味深な視線を投げ掛けてくる砂社の心中を、鐵は最初測りかねた。だがしばらく見つめ合っている内に、言葉に出さない裏の意図を察して下卑た笑みを浮かべた。
「成程、そうかそれは良い!」
鐵は勢い良く立ち上がった。その笑みには歓喜と狂気が張り付き、邪悪な内面を余すことなく映していた。
相対する砂社は無言で立ち上がり、ゆったりとした足取りで鐵の隣へと歩み寄る。
鐵はそんな彼女の腰に手を回し、口角を歪めた。
「確かに、折角この体になったんだから、楽しまなきゃ損だよなあ……!」
健全な学び舎に有るまじきというべきか、不良校らしいというべきか、そんな邪念が生徒會室を覆っていた。
☾☾☾
黄昏時を迎えようという頃、遥か東の祠の前で愛斗は項垂れて肩で息をしていた。額からは汗と血が混ざり合い、紅樺色の雫が垂れる。
彼が向き合っているのは父と娘、竹之内灰丸と文乃である。二人は両腕から強い白色光を放っている。
今、愛斗は掌に薄っすらと帯びた幽かな光で二人の攻撃に対応し、迎撃する訓練を行っていた。当然、失敗が続けば今の愛斗の様に怪我をするし、最悪は死ぬことも有り得る。
「真里……大丈夫……なんでしょうか……?」
『大丈夫じゃないわね。抑も、本来は光の力を少しずつ身に着けつつ組手を繰り返し、それから実戦形式での訓練を行うもの。それを、中に入った私が既に身に着けていたのを良い事にその過程を飛ばしている。ただでさえ今迄碌に喧嘩もした事無いような坊ちゃんに、力を維持し、制御しながら二人の攻撃を捌くのは余りにも厳しい。』
戸井と憑子が脇で愛斗の苦戦を見守っている。憑子の言う様に、これは本来とんでもない無茶振りである。
愛斗は憑子の影響で力を既に内在させていたが、扱うのは初めての事である。本来はその制御も、何度もトライアンドエラーを繰り返して身に着けるものであり、一朝一夕では形にならない。実戦形式はその後で行うのがセオリーなのだ。
『でも、そんな事は言っていられない。真里君がやらなければならないのよ。』
「それは……どうしてですか? 他の、もっと経験を積んだ、例えば竹之内さんが悪魔と戦えば事は済むんじゃ……。」
戸井の疑問は当然だった。そんな付け焼刃の力を身に着けて、竹之内ら『裏理事会』が恐れる『學園の悪魔』に対抗出来るとは思えない。寧ろ、中途半端な力では却って足手纏いになりはしないか。
『答えは簡単、悪魔には弱点が有るのよ。』
憑子の声は、何処か努めて淡々と答えようとしている様で、却って不自然に平坦だった。恐らくそこに、何らかの只ならぬ秘め事が有るのだろう。何か知っているのか、二人の見学者の話題を嗅ぎつけた竹之内翁は娘に場を任せた。
「文乃、少し彼を頼みますよ。」
「……はい。」
娘・文乃も事情は呑み込んでいる様で、すんなりと言付を受け容れた。一対一になり、愛斗にとって少し楽になっただろう。
竹之内翁は憑子と戸井の許へ歩み寄って来た。
「続きは私が話しましょう。良いですな?」
竹之内の問い掛けに、憑子は黙った儘だった。構わず、彼は言葉を続ける。
「扨て、先程『新月の御嬢様』が仰った様に、『學園の悪魔』には一つ、その発生過程に於いて獲得してしまった一つの弱点が存在します。」
「発生過程?」
「思い出してください。『學園の悪魔』がこの世界を脅かす様になったのは何故だったか。それまで、悪魔は何処に隠れていたのか……。」
「あっ!」
戸井は瞠目した。そうだ、今と為りにいる憑子は、極めて数奇な生い立ちを送っていた。
「華藏會長の中に、憑子先輩と三人一緒だった……。」
「御明察。その結果、不純なる『悪魔』に常に憑かれていた華藏月子嬢の肉体には悪魔に対する霊的な耐性が備わったのです。それは、肉体の主導権が『新月の御嬢様』に移った後も受け継がれ、そして今は……。」
『真里君の体に移っている。そういう事ね。』
閉ざされていた憑子の口から結論が出された。
「だから悪魔に対抗する為には、彼を鍛える事が必須なのです。」
『そうね……。』
三人の目の前では、愛斗が文乃に打ちのめされて倒れていた。一対一になったとはいえ、熟練の手練れの攻撃を捌くのは全くの初心者である彼には矢張り難しかったのだ。
「ほ、本当に大丈夫?」
『厳しいわね。当然、悪魔の強さは彼女の比ではないのだから、彼女に歯が立たない様では話にならない。二対一で優勢を取れるくらいにならないと……。』
「ま、それも酷な話ではありますがな。為さねばならぬ、というのが彼にとっても我々にとっても辛いところです。」
愛斗は口元を拭いつつ立ち上がった。こんな所でへこたれる訳には行かない、というのは彼自身承知の上なのだ。
『真里君には頑張って貰わなくちゃ困るわ。私達には時間が無いのだから。』
「ふむ、矢張り気付いておりましたか……。」
「え?」
三人の間に一段と暗い影が差した。夜が近付いているから当然ではあるのだが、何処か不穏な空気が流れている。
「どういう事ですか?」
一人、要領を得ない戸井は二人に問い掛ける。
『悪魔への耐性は、元々姉の体に有ったものだった。それは真里君の身体だと適合性に難が有るのよ。時間が経てばたつ程、どんどんそれは失われていく。時間切れが近付いて行く。』
「ええ、その通りです。」
『まあ、最悪の場合は私が何とかするけれど、それは私にとっても賭けになるわ。もしここで成果が出なければ、私は……。』
その時だった。愛斗の両手が文乃の両手による攻撃を上手く捌き、繰り出した反撃が僅かに文乃の脇を掠めた。
「少し出たようですな。」
『まだまだ全然よ。』
「しかし、元々無理難題だった事を思えば反撃出来ただけでも大した成長ですぞ。娘自慢ではないですが、文乃は一人前の戦士ですからな。」
竹之内翁の言葉に、憑子はほんの僅かに口角を上げた。
『ま、確かに……。少しくらいは褒めてあげても良いかも知れないわね。大まけにまけて、だけれど……。』
「ふむ、もうすぐ日が落ちますし、今日の所はこれくらいにしておきましょうか。明日、帰る直前まで訓練の続きを行い、後は戻ってからお願いしましょう。」
こうして、愛斗は最後の最後でほんの僅かな前進を達成してこの日の訓練を終わらせた。
来るべき戦いに備え、何とかギリギリでスタートラインに立つ事だけは出来た、そんな瞬間だった。




