第四十四話 電気街の悪夢
悪魔の術に向かいて立ち得ん為に、神の武具を以て鎧うべし。
――新約聖書『エペソ人への手紙』第六章十一節より。
恐らくは最も有名な電気街、鐵自由はそこで自ら作り上げた惨劇の光景を眺め、ほくそ笑んでいた。
「こりゃあ良い。今の俺は死という絶対を統括する神にも等しい。最早誰にも負ける筈が無い。」
鐵が指を鳴らすと、紫の靄に包まれた人間が弾け飛び、通りを爆炎が包み込む。それら人間爆弾は容易にアスファルトを割り、建物を倒壊させる。逃げ遅れた人々は破壊に巻き込まれ、炎と瓦礫に圧し潰される。
「ははははは‼ 死ね! 死ねぇッ‼ 死者が出る程、俺達の力は強くなる! 闇の支配、死の世界の完成が近付くのだ‼」
邪悪な高笑いと共に、鐵はゆっくりと空へ舞い上がる。地上を見渡しているのは、新たなターゲットの目星を着けているのか。
「くくく。情報に拠ると、真里愛斗はこの近くまで遥々取材旅行に来ているらしい。あいつは今までの行動からかなり生意気な正義漢気取りだからな。この有様を何処かで知れば此処へやって来る可能性が高い。来なけりゃ来ないで人が死に、俺達が強くなるだけだ。」
鐵には愛斗への私怨が有る。彼の形振り構わない残虐非道な行いは、怨み骨髄の二人へと復讐を目的としていた。
「そうだ、一層の事、簡単に帰れない様に鉄道や空港も破壊しておくか。この力を使えば簡単に何でも破壊出来る! 真里の後は仁観にも思い知らせてやる‼」
暴走の歯止めが利かなくなっている。
元々、鐵は「自分を頭が良いと思っている莫迦」という度し難い性質を持った男である。頭が良いと思える程度には様々な策を練ることを得意とするが、莫迦なのでその影響を顧みない。
そんな男が邪悪な心と絶大な力を振るい続ければ、何処まで被害が拡大するか分からない。愛斗を誘き出すという目的で始めた蛮行も、気が付けば行き先を見失って無茶苦茶な破壊と殺戮のみを繰り広げる、という事にもなりかねないのだ。
「此処から一番近いのは鉄道だな。どうせなら帰りの方面だけでなく反対側や乗り換え路線も破壊して、出られなくしてやる。」
鐵が宙に浮いたまま移動しようとした、その時だった。
「鐵ェッ‼」
凄まじい声量で地上から名前が叫ばれた。
常人の二倍の肺活量を駆使したその声は、間違いなく真里愛斗のものだった。現に、見下ろせば彼の小柄な体の童顔が怒りに満ちた表情で鐵を睨み上げていた。
「来たか、身の程知らずの餓鬼めが……。」
鐵は愛斗を遥か上空から侮蔑と嘲笑に満ちた表情で見降ろしていた。
今、學園から遠く離れた地で闇の眷属との戦いが火蓋を切られようとしていた。
☾☾☾
アパートの一室で、二人の男女が食い入る様にテレビを見詰めていた。
「鐵の野郎……。調子に乗って滅茶苦茶やってやがる……。」
激しく歯噛みして悔しさを滲ませるのは假藏學園の不良・相津諭鬼夫。つい先日、闇の力を身に付けた鐵に煮え湯を飲まされ、命を奪われる寸での所で同席している女に助けられた。
「完全に闇の力に溺れているね。もうあの男は戻れないだろう。莫迦だ莫迦だと思っていたが、ここまでだとは思わなかった。」
将屋杏樹、同じく假藏學園の不良女子である。ただ、相津は一つ疑問に思っていた。
「将屋、お前は『弥勒狭野』の一員、鐵とは仲間同士の筈だろう? 一体どういう風の吹き回しで俺を助けたんだ?」
こう問いかける相津だったが、何やら事情が有る事は何となく察していた。恐らく、本心では鐵の事を全く良く思っていない。それどころか、憎んですらいる。
「それについては……一言で語り尽くせないくらい複雑な事情が有ってね。」
実際、仮に将屋が鐵や『弥勒狭野』への憎しみを押し殺し、彼等に近付いている事情が有るとしても、それだけでは説明出来ない事がある。と言うのも、假藏學園は元々祠や闇の力に纏わる彼是とは殆ど無縁だった筈だ。少なくとも、『弥勒狭野』は単に假藏の頂点を狙っていただけで、『闇の逝徒會』と関わる前は悪魔など露知らなかった。
「まあ、関係ねえか。今の俺の頭に在るのは、鐵や一緒に居た華藏の女、その一味に思い知らせてやることだけだ。兄貴を殺した事、必ず後悔させてやる……!」
相津の兄、実鬼也は假藏學園ではなく華藏學園の卒業生で、そして『裏理事会』のメンバーだった。つい先日、『學園の悪魔』と交戦して戦死したが、相津は兄の死を鐵と共に居た砂社日和から聞かされたのだ。
相津の目的、それは復讐に他ならない。兄、そして自分自身のプライド、その二つを奪った『闇の逝徒會』への復讐こそを彼は胸に誓っていた。
その為に、将屋は利用価値がある。何か有益な情報を知っているならば、その出所、素性はどうでも良い。
だが、将屋の方はそう思っていない様だった。
「相津、そのアンタの兄の事だが、彼が敗けたというのは私にとって聞きたくない情報だった。彼の所属する、華藏の『裏理事会』。假藏でそこと接点が有るのはアンタくらいだった。しかし、それも今や途絶えた……。」
「解らねえな。じゃあ何でお前はこの期に及んで俺を助けた? そういう事なら、もう俺に用はねえ筈だろ?」
「それは……。」
将屋は少し言い淀んだ。自分でも戸惑っている様だった。だが、思い当たる節は有ったらしい。
「仲間が欲しかったから……かな。私と同じく、あいつらと戦う理由がある仲間が……。」
「そうか。じゃあそれで良いぜ俺は。力を合わせれば見えてくる道もあるだろうしな。」
「どうかな? 正直厳しいと思う。特に、鐵が『闇の眷属』になった今では。正直、この展開は想定外だった。」
「厳しい?」
怪訝な表情を浮かべる相津に、将屋は頷く。
「奴等『闇の眷属』、『祠の悪魔の使い魔』とは戦い方って奴が在るらしいのさ。私はそれを身に着けたかった。だから、是が非でもアンタの兄貴、相津実鬼也と接触したかった。だが、その道筋は失われた……。」
「いや、まだ分からんぜ。」
沈む将屋に対し、相津の眼には力が宿っている。
「その『華藏の裏理事会』は、確かに今迄の俺達とは住む世界が違い過ぎた。だが、今は……。」
画面は惨劇の電気街から切り替わった。如何に未曽有の事態とはいえ、流石に延々と同じニュースを流し続ける訳ではないらしい。だが、最後に一瞬映ったある男の姿を二人は目撃した。
「今のは……!」
「ああそうさ。今の俺達には華藏とも繋がりがある。そうだろう?」
今、遠く離れた電気街では彼等の知る人物、真里愛斗が鐵自由と対峙している。
☾☾☾
地上で上空の鐵を見上げる愛斗の身体から白い靄が溢れ出す。忘れてはならないのは、徐々に華藏月子の姿を模るこの憑子こそが假藏學園での『闇の逝徒會』との戦いで基浪計と砂社日和を苦しめたという事実である。
即ち、鐵にとって敵は愛斗だけではなく、二対一の状況なのだ。
『莫迦は高い所が好き、能く言ったものね……。』
憑子は愛斗以上に怒気を孕んだ表情で鐵を睨み上げていた。自身に侮蔑の言葉を投げ掛けた彼女を鐵は鼻で笑う。
「ふん、憑依霊擬きが偉そうに……。言っておくが俺を基浪や砂社と一緒にするなよ。真面目な良い子だった華藏の餓鬼共とは違い、俺は元々假藏の頂点を狙って何度も視線を潜り抜けてきた喧嘩自慢なんだ。しかも、只の不良とは違い俺には策を練る頭脳が有る!」
鐵の右腕が上がり、愛斗と憑子の周囲から紫の靄が吹き上がった。気が付くと、二人は操られた人の群に囲まれていた。
「ははははは‼ 地上のお前等は俺に指一本触れられまい! だが俺からお前等を攻撃する手段は無数にあるのだ‼ これが假藏一の頭脳、鐵自由様の策略と言う奴だ‼」
戦う前に、必勝の布陣を整える。確かにそれは、戦術の常道である。この状況、多勢に無勢なのは寧ろ愛斗達の方で、加えて此方からは鐵に手出し出来ない。
だが一つ、鐵には誤算があった。
『やれやれ、どうせこんな事だろうと思ったわ。』
憑子は溜息と共に自らの姿を白い靄に戻し、襲い掛かる人間たちの体を覆った。
「な、何?」
白い靄が紫の靄を中和する様に混ざり合い、霧散するのを見て鐵は動揺した。彼にとって明らかに良くない事が起こっている。
紫の靄は操られていた人々から消え去り、鐵の手駒はその場に力無く倒れ伏した。
「莫迦な⁉ ええい、ならこの場で纏めて炸裂させるまでだ‼」
鐵は両目を血走らせて倒れた人たちを指す様に右手を伸ばしたが、何の反応も無い。
『無駄よ。既にこの人達の闇は祓った。どうやら悪魔は勿論の事、基浪君や砂社さんと比べても力の使い方が荒い様ね。』
拡散した白い靄が集まり、再び華藏月子の姿を取っていく。
『これなら祓うのは造作も無い、幾らでも相手に出来るわ。』
「くっ……!」
たじろぐ鐵は気付いていない様だが、愛斗には直ぐに分かった。憑子の言葉は徴りである。上空で離れている鐵には、彼女の身体が少し薄くなっているのが分からないのだ。
大勢の人間から一度に闇を祓うのは、相当に消耗するのだ。――愛斗は憑子の表情から若干の疲れを読み取って悟った。
「憑子會長……。」
『これであの男は降りてきて自ら戦わざるを得ない。ここから先はもう一度君の体に入るから、二倍の膂力で踏ん張りなさい。』
憑子の予想通り、鐵は怒りに肩を震わせながらゆっくりと降下してきた。ずばり、発足の狙いは遠隔で人を操って戦うやり方を諦めさせる事だった。
憑子はさも愛斗に臨戦態勢を取らせる目的を装い、自らの姿を愛斗の体の中に隠した。徐々に接近する鐵に薄弱化を気付かれない様にする為だ。
「踏ん張る、ですか……。」
『ええ、恐らくはそれが精一杯でしょう。闇の眷属とは戦い方というものが在る。それを知らない君に万に一つも勝ち目は無いわ。』
深刻な調子で軽い絶望を告げる憑子だったが、愛斗は一つ疑問となる矛盾を思い出す。
「あの、以前基浪先輩と砂社先輩に襲われた時は僕に二人を懲らしめろって仰いませんでしたっけ?」
『あの時は……気分よ。勿論、ある程度思い知らせたら逃げるつもりでいたわ。でも、今回はそうも行かないでしょう?』
悪びれもせず、憑子は開き直った。これまで共に生活する中で、愛斗は憑子のこういう適当なところを何度か見せられたが、釈然としない感は否めない。
『まあ、今はそんな細かい事を気にしている場合ではないわ。』
自分で言う事ではない筈だが、愛斗もそこに異論は無かった。
「何時まで耐えれば良いですか?」
『有識者の到着まで。』
有識者、それが誰を指しているのかは明らかだ。
常人の倍の膂力がある愛斗は走力も尋常ではなく、急いで全力疾走すれば大抵の人間は置き去りにしてしまう。況してや老いて衰えた竹之内灰丸が相手ならば輪を掛けて差を付けてしまうのだ。
「時間掛かるでしょうか……?」
『多分ね。ま、君の体は私の代わりに傷付く為に在るのだから、己の責務をきっちり果たしなさい。』
またしてもさらりと酷い言い草の憑子だったが、愛斗には言葉を返す余裕が無かった。鐵が地に足を付け、間合いのやや外側、一触即発の距離に立ったのだ。
「二倍の膂力……御主人様から聞いた通りの様だな。道理で華藏學園では不覚を取った訳だ……。」
鐵の眼は狂気と復讐心で爛々と輝いている。抑もの発端は、鐵が舎弟を引き連れて華藏生に狼藉を働き、愛斗に咎められた末に無様な醜態を晒した事だった。鐵にとって、愛斗もまた仁観嵐十郎と同等の仇敵なのだ。
「言っておくが、今度は油断しねえ。小動物みてえな見た目に騙されちゃやんねえよ。最初から全力で策の限りを尽くして殺してやる。」
鐵の両手にトレンチナイフが装着された。仁観と戦った時と同じスタイル、即ち本気の証だ。しかも、闇の力を身に付けた今の鐵はあの時とは比較になるまい。
愛斗にとって、正念場である。今正に襲い来る脅威に備え、覚悟を決めなければならない。
「斬り刻んでやる‼」
凄まじい疾さで、鐵は愛斗に飛び掛かって拳を振るった。辛うじて反応した愛斗は拳を躱したが、頬に痛みを感じながら飛び散る地を目撃した。
「うぐっ‼」
『よく見なさい‼ ナイフの刃まで躱さないと、頸動脈を切られでもしたら終わるわよ‼』
雨霰の様な鐵の拳、即ち斬撃を前に、憑子の警告は功を奏さなかった。勿論、愛斗もナイフを躱そうと意識はするものの、到底反応し切れる攻撃ではない。何とか急所を外し、防ぐものの流血は避けられなかった。
「うぅっ……!」
『拙いわね……。流石に限界というものがある……。』
幾ら身体能力が大幅に向上しているとはいえ、生理的には生身の人間である。血を失えばそれだけ体力も失い、動きが悪くなる。そうなれば更に攻撃を貰い易くなり、死への悪循環へと陥ってしまう。
「思ったより丁路えなあ。ま、女に借りた力でイキッてる砂利餓鬼なんざ所詮この程度か。」
鐵はトレンチナイフの歯を舌で嘗め、殺意を研ぎ澄ます。愛斗は大きく後退り、両腕を顔の前に構えて防御の態勢を取った。
「死ねや‼ 甘ちゃんがぁッ‼」
止めと許りに鐵が斬り掛かってきた。
と、その時愛斗の両足は地面を離れた。
「何⁉」
「うおおおおッッ‼」
愛斗は空中で大きく体勢を寝かせ、膝を曲げていた。両脚を延ばせば、そのまま鐵への飛び蹴りとなる。つまり、ドロップキックだ。
「がアアアッッ⁉」
勢いを付けた愛斗の蹴りが鐵に炸裂した。大きく吹き飛んだ鐵の身体は、哀れな通行人を爆破して自ら破壊した建物の瓦礫に激突して上半身を埋めた。
「僕が憑子會長に力を借りているのは事実。だが、お前にだけはとやかく言われたくないよ。」
愛斗は肩で息をしながらゆっくりと起き上がった。同時に、鐵も瓦礫から怒りに目の焦点の合わない顔を瓦礫の中から出した。
「鐵自由‼ 僕はお前を許さない‼ 『學園の悪魔』も、『闇の逝徒會』は必ず斃してやる‼」
「上等だ、餓鬼ィ……‼」
額に青筋を立てた鐵も立ち上がった。
戦いはまだ始まった許りである。




