第四十二話 謎の古文書
古、天地未だ剖れず、陰陽分れざるとき、渾沌たること鶏子の如く、溟涬りて牙を含めり。其の淸み陽なる者は、薄靡きて天と爲り、重く濁れる者は淹滯きて地と爲るに及びて、精しく妙なるが合へるは搏ぎ易く、重く濁れるが凝りたるは竭り難し。故れ、天先ず成りて、地後に定る。
――日本書紀より。
真里愛斗は待ち合わせをしていた西邑龍太郎、戸井宝乃に断りと詫びの電話を入れた。西邑からは無闇に初対面の人間と行動を共にする事を咎められた為、その後で直ぐに大心原毎夜理事長に連絡し、自身を連れて行こうとする竹之内灰丸の身元を確認した。戸井からは主に成績を心配され、皮肉を言われた。何やら他にも思惑が有りそうだったが、問い詰めても逸らかされた。
『終わったかしら?』
憑子が竹之内と合流する様に愛斗を急かす。
「會長、何だか随分乗り気ですね。」
『私としても、大変興味深いもの。華藏學園のルーツ、そこには間違いなく当事曾々御爺様が何を思い、何を志したか、それを紐解く鍵が在る筈。華藏家の人間にはそこに惹かれない者は居ないわ。』
現在の華藏家を築き上げたと言っても過言ではない、華藏學園を創立した戦前の豪商・華藏鬼三郎。愛斗達にとって、通学時に必ず前を通る銅像で御馴染の人物だ。
だが、彼はその為人を全くと言って良い程知らない。
「會長、華藏鬼三郎氏ってどんな人だったんですか?」
『偉大な商人……という事しか知らないわ。何せ私が産まれる前に死んでしまった人だもの。逆に、君は自分の祖父や曾祖父は兎も角、高祖父の人格まで知っているの?』
憑子の答えに、愛斗は「それもそうだ。」と納得する他無かった。知っているとすれば同じ時代を生きた人の方が遥かに見込み在りだろう。
裏を返せば、学者の竹之内にはまだ可能性がある。態々學園のルーツを案内しようというのだから、少なくとも当時の事を何か知っている筈だ。
「鬼三郎氏は祠の力や悪魔については知っていたんでしょうか?」
『可能性は高いわね。にも拘らず、どうしてあの場所に學園を建てたのか……。』
「その辺りを紐解くことで、勝つ為の鍵が見付かると良いのですが……。」
『それがタージ・ハイド氏の狙いなのでしょう。』
自己紹介によると、竹之内灰丸はタージ・ハイドという変名で活動する学者だという。しかし、旧人類史学などという学問は寡聞にして知らない。
「ま、取り敢えず理事長に裏は取れたし怪しい人じゃなさそうだ。付き合ってみるのも悪くなさそうですね。」
『裏取りなら私だけで十分かと思ったけれど?』
「それはそうですが、この状況ですからね。より万全を期した方が良いと西邑の言葉で思い直しまして。あ、そうだ。竹之内さんの言うようにお母さんにも連絡しておかないと……。」
こうして、愛斗と憑子は竹之内と共に學園のルーツを求めて遥かな東の地へと旅立った。それは、戦いが新たな展開を迎えるターニングポイントであった。
☾☾☾
新幹線に二時間強揺られ、昼食を済ませてから愛斗と憑子は大学の研究室に通された。
「私は授業も研究も学生に人気が無くてですね……。ま、自身の研究を進めるには打って付けなんですが、何かと肩身は狭いんですよ。」
竹之内はそう言うと、机の引き出しから一冊の古い書物を取り出した。
「なんです、それは?」
「私の祖父が認めたという、とある古文書の翻訳書です。ま、祖父の創作、というのが学界に於ける大方の見解ですがね。」
「翻訳書?」
「原本は訳の解らぬ特殊な文字で書かれているのですよ。有史以前に我が国で使われていたという触れ込みの、実態は近世になって編み出されたそれっぽい紛い物ですが……。」
竹之内の話す所に拠ると、彼が取り出したこの書物は端的に「偽書」と言う外に無い代物だろう。だが、その様な胡散臭い古文書擬きを学者である彼が自らの研究室で大事に保管していたのは、単なる身内の感傷に因るものなのだろうか。
『竹之内先生、私達はそんなどうでも良い偽書の話を聞きに来たのではないのですよ。』
憑子が苛立ち交じりに竹之内を問い詰める。だが、彼は極めて真剣な眼で愛斗と憑子を見詰め返していた。
「確かに、この書は十中八九、私の祖父が捏造した偽物で、史学的に価値は無いに等しいでしょう。しかし、実はこの古文書こそ、華藏鬼三郎が華藏學園を創立した最大の動機だったのです。」
竹之内の言葉に、憑子は端正な顔立ちの眉間に皺を寄せた。その様な胡散臭い代物に自分の家を一代で築き上げた祖先が影響を受けたと言われて、素直に信じられはしないのも当然である。
『莫迦にしているんじゃないでしょうね?』
「大真面目で御座います。抑も、この書が信憑性の無い偽書だとされたのは、主に古代に書き記されたという触れ込みなのです。」
『成り立ちが一個人の妄想なら中身も同じ事でしょう。』
「いいえ、これを書いたのは確かに祖父の手に拠るものですが、生み出されたのは祖父の脳に由るものではないのです。」
見窄らしい古文書が、竹之内の言葉によって一転して妖しい魔力を放って見えた。愛斗は固唾を飲み、問い返す。
「それはつまり、何かを元にして書いたという事ですか? 成り立ちは捏造でも、中身は正真正銘本物だと……。」
「いいえ、八割方は嘘八百です。」
『駄目じゃない。』
愛斗と憑子は同時に体の力が抜けた。だが、竹之内の眼は相変わらず鋭い光を失っていない。
「今の貴女の反応こそが祖父の狙いなのですよ、『新月の御嬢様』。つまり、殆どの内容が出鱈目なら、残りの内容も十中八九は信用されない。私が八割方嘘、即ち残りの二割はそうではないと言ったにも拘らず、です。」
憑子は苛立ち交じりに竹之内を睨み返した。自身の先入観を指摘する言葉が癇に障ったのだろう。
『では、解るように説明しなさい。まず、その嘘だらけの古文書の何処が真実で、そう判断できる根拠は何なのか。そしてそこに、曾々御爺様が一体どう関わっているのか。』
「元より、そのつもりで御座います。」
そう言うと、竹之内は書物を開いて頁を捲った。
「御嬢様の質問には先ず二つ目からお答えしましょう。それはズバリ、私の専門とする研究分野に深く関係する事です。つまり、ここで与太話をすれば私の沽券に係わる、信じて貰って間違いないと思って頂きたい。」
竹之内の手が一つの図表で止まった。それは愛斗も憑子も見覚えが有る、恐らくは彼等にとって最も有名な家系図の一つが記されていた。
「これは……。」
『天皇家……ね……。』
竹之内が開いたのは系譜の最端、現代の皇族に近い歴代天皇と皇族が記された頁だった。ただ通常の書き方とは異なり、頁が進むにつれて遡る様に記されている。
「御二人とも御存知の様に、天皇家、皇室というのは歴史の陰に隠れていた時代が非常に長いものの、その系譜は千年以上も昔から連綿と受け継がれてきた、とされています。我が国に文字が出来た頃には既に君臨していたとされ、その起源は史学的にハッキリとしておりません。しかし、記紀を初めとした古代の伝承を参考に、宮内庁では一応、百二十代以上の歴代天皇が居た、とされています。」
竹之内は頁に記された系譜を現代から遡っていく。
「しかし、その正統性の源に近付くにつれ、どんどん継承の確かさはあやふやなものとなっていきます。特に……。」
指は系譜が次の頁に続く端で止まった。その区切り方には何か意図的、作為的なものを感じさせる。まるでこの先に重要な何かが示されているから、心して頁を捲れと言わん許りだった。
「初代を除き、二代目から数代はその事績が殆ど記録されていない。初代を含めて数合わせの創作だという説が概ね支配的ですが、一方で初代の存在を完全に否定する事は肯定するより更に困難だとも云われています。これは悪魔の証明的な意味も勿論在ると思われますが、それ以上に伝承の元となった説話や信仰が各地に確認できてしまうという理由もあるのです。」
『一寸待って頂戴。』
憑子が竹之内の話を遮った。
『私達が知りたいのは學園のルーツの話であり、古文書や皇統の話じゃないわ。一応訊くけれど、必要な前振りであって脱線はしていないのでしょうね?』
「ええ、これでも掻い摘んでおります。第一、手短に話して済む様ならば態々遠路遥々研究室まで御越し頂いておりませんし、泊り前提で親御様に了解を得る必要はありませんよ。」
「それだけ……複雑な事情が在るという事ですか?」
愛斗の質問に竹之内は頷き、話を続ける。
「扨て、話を戻しましょう。大丈夫、古文書に纏わる話はもう少しで一旦閉じます。後々また少々戻ってきますが、その前に華藏鬼三郎氏の話に移りますよ。」
『そうして貰いたいわね。正直、いきなり天皇家の話をされて少々戸惑っているもの。』
憑子は包み隠さず言うが、当然の感想だろう。
「では、ここで御二人にとってこの古文書が面白くなるであろう話を一つしましょう。先程も申しましたように、古代の伝承や土着信仰というものはこの国の各地に様々な形で残されております。今は意味を忘れられていても、小さな社や祠は各地に残されており、中には意外と重要な御神体を祭っているものも御座います。では、貴方達の良く知るあの祠、その由来に纏わる伝承が唯一記録されている書物が、今目の前に在るとすれば、どうです?」
愛斗と憑子は目の色を変えた。と同時に、共通の疑問が頭に過る。
「その話を語るのに、今の前振りが必要だったんですか?」
『真里君の言う通りね。最初からそう言ってくれれば話が早かったんじゃないの?』
「いいえ、そうではありません。その話に入る前に、まず前提としてこの古文書がどういう書物なのか、それが重要なのです。そこにこそ、あの祠がどれほど恐ろしいものなのか、その答えがあるのです。」
「……何が書かれた本なのですか?」
研究室の空気が張り詰めた。愛斗の問いによって、竹之内の口からとうとう核心が話されるのだ。
「簡単に言えば、知られざる人類の古代史。その象徴として、記録から失われた皇統は数代では済まない、と。実に百三十代以上が……。」
竹之内の指が頁を捲った。そこには前頁と変わらない規模の系譜が書き記されていた。
「遥かなる古代! 滅亡した文明の旧人類史と共に失伝してしていると、そう書かれているのです‼ そして祠とは! 旧文明の時代から存続する極めて古い神秘の力‼」
『待って。ということは、あの祠は記録に残されている時代よりも遥か昔に建てられたというの⁉ そんな時代となると少なくとも二千年以上、さっきの代数から見積もると四千年近くとも考えられるわ! とても現実的とは思えない‼』
憑子が信じられないのは当然だ。恐らく、突然こんな話を聞かされれば誰もが同じ反応をするだろう。
竹之内もそれは重々承知の様で、小さく口角を上げた。
「そこで、私の研究内容ですよ、『新月の御嬢様』。」
「旧人類史学……?」
「来る前も申しましたが、謂わば考古学のはみ出し者です。しかし私は考古学的観点による地質調査から、以前より一つの仮説を立てていました。それは、有史以前に人類は現代と同等かそれ以上の文明を築き、そして一度滅亡を迎えたのだというものです。これを私は旧文明、旧人類と呼んでいます。ま、学界からは荒唐無稽と一笑に付される話ですがね。そして、どうやら祖父と同じ推察だった。」
竹之内は更に頁を捲っていく。
「繰り返しますと、この書は殆どが出鱈目です。しかし、この様に私と同じく旧人類や旧文明と思しき記述もあり、更に、その遥かなる古代より残された各地の曰くについても記されている。これこそが、全ての始まりだったのです。この神秘に魅せられた三人の男の出会いこそが、華藏學園とその闇を生んだのです。」
そう言うと、漸く竹之内は古文書を閉じた。そして、一つの写真立てを指差した。そこには彼の言う通り、三人の男がモノクロームで映っている。
『曾々御爺様……!』
その真ん中に移る人物には憑子だけでなく愛斗も見覚えが有った。華藏學園の生徒なら誰もが知っている顔だが、銅像よりもかなり若く見える。脇の二人は更に若い。まるで一人の教師と、その教え子達といった様相だった。
「華藏鬼三郎氏……。脇の二人の内、一人は竹之内先生のお爺さんですか? 後一人は?」
「御察しの通り、写真の中央は學園の創立者・華藏鬼三郎氏。右隣が私の祖父、竹之内斧丸。そして左隣が裏理事会の一人、聖護院嘉久氏の曾祖父・聖護院宮稔久王殿下。彼等は古文書の祠を利用し、一つの大願を叶える為に華藏學園を創立したのです。」
『一つの大願……。』
憑子は何か思い当たる節がある様だ。
『矢張り、意図が有ったのね。祠の近くに學園を建てた事も、聖護院先生を雇っていた事も……。』
「そして、私が裏理事会を取り纏めていた事もそうでした。全ては創立の三人、『學園三巨頭』で誓った取り決めだったのですよ。意図的に祠の力を利用し、目的を叶える為の……。」
長い前振りだったが、漸く學園創立の謎に迫る気配が漂ってきた。愛斗と憑子はそれまで胡散臭く感じていた古文書が不気味な妖気を放っている様に思えた。




