第三十九話 闇の晩餐
何時の間にか離岸流に乗ってしまっていた私は、何時の間にか深淵の底流を泳いでいたのです。
――西邑龍太郎著『美醜の彼岸』より。
黄昏時の河原、尾咲求は相津諭鬼夫を打ち倒した筈が共倒れの危機に陥っていた。死闘を演じて消耗し切った状態で相津配下の舎弟達を独り相手取るのは無理が有った様で、既に足元が浮楽付いている。
「糞っ……。俺自身は相津に勝ったのによぅ……。子分の差で敗けて堪るかよ……!」
彼が窮地に追い込まれている原因、それは偏に彼の人望の無さに有った。
力に怯える弱者に力を見せ付け、脅して舎弟にするやり口。それは假藏生の勢力拡大の手段として珍しいものではないが、短絡的に質より量を集める方法である。
今回の様に、共に戦う場面に集まり怯まず逃げずやり抜く面子に尾咲は恵まれていなかった。そこが相津との決定的な違いとなって、彼から勝利を奪い決闘を御破算にしようとしていた。
「ガアッッ‼」
尾咲は気力を振り絞って相津の手下を払い除けた。未だ敵は数人残っている。悉くを返り討ちにし、倒れず河原を立ち去れるかは極めて微妙な塩梅だ。
「確かにキツイがよ……。百万年早えぜ、てめえら如きが俺を殺ろうなんざ……!」
「ククク、御苦労な事だなあ……!」
脇から聞こえた覚えのある声に尾咲は勢い良く顔を向けた。突然の乱入者を前に、相津の舎弟達も尾咲への攻撃を止めた。
「く、鐵……! てめえ仁観に病院送りにされた筈じゃあ……⁉」
尾咲の声と表情に隠せない驚きと焦り、苛立ちが滲む。この場に現れた鐵自由が漁夫の利狙いで横槍を入れようとしている事は日を見るより明らかだ。
彼は完全に鐵への警戒を怠っていた。あれだけの騒動の顛末は当然耳に入っていたからだ。
「俺が斌々している理由はお前の頭じゃ理解出来ねえだろうよ。一つ言えるのは、俺達『弥勒狭野』を差し置いてコソコソ頂点に近付こうだなんて随分姑息だよなって事だ。」
鐵は尾咲を露骨に見下して嘲ら笑う。尾咲にはその態度への不快な心当たりが有った。
「俺はてめえに負けた覚えはねえぞ。爆岡の腰巾着がよ……。」
尾咲の眼に鐵への怒りが滲む。彼には鐵がナンバー2の座に着いている假藏最大の不良グループ『弥勒狭野』との間に苦い記憶が有る。
嘗て、假藏の頂点を見据えて勢力を拡大していた尾咲は、今の様な力で無理矢理弱者を従わせる様なやり方ではなく、それなりの人望を元に本当の仲間を集めていた。そして去年最後の雪の日、彼は信頼出来る仲間を率いて『弥勒狭野』に戦いを挑んだのだ。
「ははは、あの時は傑作だったよな? 当時二年の中じゃ名を上げていたてめえと、爆岡君の一騎打ちだ! 次期假藏の勢力を占う上で注目されていた! その中でてめえは爆岡君に惨敗した‼ あれが在った御蔭で俺達『弥勒狭野』は一躍、前人未到の假藏統一を達成し得る最有力株として一気に力を集めることが出来た‼」
「ケッ、何を偉そうにしてやがる。てめえはただお零れに与っただけじゃねえか。」
爆岡義裕が假藏學園最強の不良と呼ばれる様になったのは、同格と目されていた尾咲求を一切寄せ付けず完膚無き迄に叩きのめしてからだ。
それは尾咲にとって、余りにも手痛い敗北だった。爆岡の圧倒的暴力に裏打ちされた残虐性は留まる所を知らず、尾咲に味方した仲間達は悉く陰惨極まる制裁に遭い、再起不能となって假藏學園を去った。尾咲は自分の手下を一から集め直さなければならなかった。
「鐵ェ……! 俺はずっと爆岡も、それからてめえの事も殺したくて殺したくて仕方が無かった……‼ 特にてめえは、自分は何もしてねえ癖に爆岡と一緒になって俺の仲間を痛め付けやがった……‼ 許せるわけねえよなあ‼」
尾咲は腹の底から沸き上がる怒りに任せ、既に襤褸々々になった体を無理矢理鐵へと駆り立てた。気力を振り絞り、その巨拳を憎き仇へと振るわんとする。『弥勒狭野』の介入が明らかとなった今、相津の舎弟からの攻撃も已んでいる。脇に居る女が戦える筈も無い。二人の間に立つ者は誰も居ない、筈だった。
「莫迦だな、尾咲。この俺が何の策も無く一人で乗り込むと思うか?」
鐵が指を鳴らすと、尾咲の周囲に棒立ちしていた相津の舎弟達が引き付けられる様に尾咲を取り押さえた。
「なっ⁉ おい莫迦‼ 今はそれ所じゃねえって解ったんじゃねえのか⁉ このまま全部鐵に持って行かれるぞ‼」
「ククク、無駄だよ。雑魚共を一時的に操る等俺の力でも容易い。聞いてないのか? 紫風呂の一味の件……。」
尾咲は身動きが全く取れない事に困惑していた。消耗し切っているとはいえ、彼の膂力ならば数人で取り押さえられても多少なり動く事くらいは出来る筈だ。
「何だ……? こいつら、急に強く……。」
「俺が闇の力を与えたからな。そして、止めはこの俺自身が呉れてやろう。」
鐵の両手を紫の闇が覆う。それは彼にとって最も手に馴染む形、短いトレンチナイフを模っていく。
「おいおい……なんだよそりゃ……。」
「先刻も言ったろ? てめえの頭じゃ理解出来ねえよ。ま、俺は今迄の俺じゃねえのさ。」
鐵は狂気に満ちた笑みを浮かべ、尾咲に飛び掛かった。
「死ねッ尾咲‼ こいつで頸動脈を搔き切ってやる‼」
尾咲は頭も抑えられており、鐵の刃を防ぐ手段が全く無い。
このままでは殺される、終わった。――そんな無念からか顔を歪ませて歯噛みした尾咲だったが、寸での所で彼は守られた。
「何っ⁉」
鐵は何かに足を取られて倒れた。先程尾咲との喧嘩に敗けて気を失っていた相津諭鬼夫が目を覚まし、鐵の足首を掴んだのだ。
「てめえ、相津ゥ‼ 負け犬が余計な事しやがってぇッ‼」
無様を晒した鐵が怒りに満ちた表情で立ち上がった相津を睨み上げたが、その彼から空かさず顔面に蹴りを貰う。
「ぶばっ‼」
相津は鐵の空いてもそこそこに尾咲の方へ駆け寄る。
「おい、何やってんだお前等‼ 鐵なんぞに手を貸してんじゃねえよ‼」
確かに、相津にとって尾咲は自分を打ち負かした憎き相手である。しかし、それでも見るからに後出しで横槍を入れてきた鐵に殺されて悦べる程堕ちてはいない。況してやそこに自分の舎弟、子分が手を貸すのは不本意極まる話だろう。
「止めろっつってんだろ‼」
相津は尾咲を羽交い絞めにする舎弟の一人を殴った。しかし、自身を打ち負かした尾咲ですら抑え込む者を相津がどうにか出来る筈が無い。理由も分からず強くなった舎弟に、相津もまた困惑していた。
「無駄だ……。闇の力を帯びた者は互いの力を結束させ、常識外れに大きな力を与えられる。」
相津の背後で鐵が全く堪えた様子も無く起き上がった。
「てめえらに理解出来るとは思わねえが、どういう事か説明してやるよ。木炭とダイヤモンドはほぼ同じ炭素から成る物質だが、その硬度は大きく違う。それは結晶構造による結合力が段違いだからだ。闇の力は結合を弄ることにより、一人一人の発揮する力を大幅に変動させる事が出来るのさ。」
鐵の背後で華藏學園の女子制服を着た逝徒會会計・砂社日和が微かに口角を上げた。どうやら鐵にこの様な知識を授けたのは彼女の様だ。そんな彼女は振り向いた相津の顔を見て、何かに気が付いた様に目を見開く。
「相津……? ねえ鐵、こいつ相津っていうの?」
「あ? 何だ砂社、この負け犬がどうかしたのか?」
砂社は相津に近付くと、じっと顔を覗き込む。
如何に敵対する不良の連れとはいえ、女子に手を上げない分別が相津には有った。しかしだからこそ、砂社は気が付いて侮蔑的な笑みを浮かべた。
「こいつさ、顔そっくりなんだよね。一昨日の夜に私達を斃そうとして、無様に返り討ちにされて死んだ男に。確かそいつの名前は相津実鬼也だったかな?」
「なっ⁉」
予期せず出された名前に相津は驚いて声を上げた。
「おい女! 兄貴が死んだとはどういう事だ‼」
物凄い剣幕で問い質された砂社は全く臆することなく嘲笑を浮かべる。
「言葉通りだよ。貴方のお兄さんは私達に無謀にも挑み掛かり、あの人に殺されたの! ま、寂しがらなくても直ぐに逢えるよ。ねえ、鐵?」
「さあ、そいつはどうかねえ? あいつに殺されたって事は、魂は異界行きだろ? 俺はこいつらの事は普通に殺すつもりだからな。」
「あはは、そりゃ可哀想!」
困惑して瞠目する相津を尻目に、鐵は相津へと近付いてトレンチナイフを振り被る。
「さあて、じゃそろそろ死んどけ?」
「く、鐵ェッ……‼」
自らに迫り来る絶体絶命の危機に尾咲は必至に足搔こうとする。しかし、矢張り闇の力を得た相津の舎弟達の拘束からは逃れられない。彼には吠える事しか出来ない。
「調子乗ってんじゃねえぞ、鐵ェ‼ てめえは所詮自分の力じゃ何も出来ねえ卑怯者に過ぎねえんだ‼ 相津みてえに正面から向かってくる度胸もねえ……! 決着が付いて襤褸々々になったタイミングで出て来て尚、一人で対一張るのを怖がってんじゃねえよ‼ てめえなんぞに……! てめえ……‼」
瞬間、尾咲の首から鮮血が飛び散った。鐵の刃が頸動脈を斬り裂いたのだ。
「もう黙れ。今の俺はとっくに殺れる側なんだよ。『闇の逝徒會』に入ってからな。」
舎弟達の拘束が緩み、大量に血を失った尾咲は重力に引き寄せられる儘その場に倒れ伏した。
「ま、マジか……! 鐵、てめえ……‼」
相津はあっさりと命を奪った鐵の行動に慄いていた。ただ、引き下がらないのはそれが同時に一つの証明になっていたからだ。
今のこいつ等なら、兄の命も奪うだろう。――図らずも砂社の言葉に与えられた信憑性が、相津をこの場に引き留めていた。
「ゆ、許さねえ……! 落とし前付けさせてやる……‼」
怒りで己を奮い立たせる相津だったが、既に尾咲に敗北して満身創痍の身の上ではどうする事も出来ない。それを見越した鐵は背後に相津の舎弟達を従えて愉悦の表情を向ける。
「相津、お前の事も俺が殺してやるつもりだったがな。序でだから面白い余興を思い付いたぞ。」
鐵が腕を振り上げると、尾咲を解放した舎弟達が相津に襲い掛かった。
「な、何をするんだお前等⁉」
「てめえは自分の仲間の手に掛かって死ねよ!」
「あはは、そう来なくっちゃねえ‼」
哀れにも自身の子分達に圧し潰される相津に背を向け、鐵と砂社はゆっくりと歩き出す。
「じっくり見て行かないの?」
「仲間の手に掛かるという最期、その結果が面白いんだよ。過程なんてのは蛇足だ。最終的に出力される結果が変わらなければ大した意味なんかねえ。」
「ふーん、勿体無いと思うけどな……。」
「今の時代、一つ一つのコンテンツに時間なんざ掛けてられねえよ。要点だけを早急に摂取する精神こそが作り手としても受け手としても今後の世界を支配するんだぜ。」
現代人は忙しい。それは高校生である彼等も、『闇の逝徒會』の一員となっても尚変わらないのかも知れない。
「ま、貴方が私達の本来の仕事を忘れてなくて良かったけど。余り私情を優先するようじゃ、切らざるを得ないし。」
「言ったろ? 殺戮ショーを見せてやるってな。」
二人は不気味な紫の闇を帯びていく。どうやら本当に尾咲や相津に許り構っていられない別のやるべき事を抱えている様だ。
しかし、二人はまるで遊園地へ向かう子供の様に足を弾ませていた。
「今夜は戦力になりそうな悪共を一人でも多く殺し、兵力とする。その為に、この街の土地勘が有る俺に接触したんだったな。期待に応えてやろうじゃないか。」
「彼等は謂わば前菜……。今宵は『闇の晩餐』を心行くまで楽しみましょう……。」
身の毛が弥立つ程恐ろしい企み口にし、二人は夕闇に消えて行った。
河原に残されたのは、失血死した尾崎求の死体、気を失ったまま放置された彼のまだ幸運な舎弟達、自分達の頭目に襲い掛かる相津諭鬼夫の舎弟達、その下敷きとなって死に物狂いで足搔く男。
間も無く、死体が一つ増えるだろう。――立ち去った鐵と砂社はそう見越していた筈だ。
しかし、そこに慌てて駆け寄って来る一人の少女の姿が在った。
彼女は相津に群がる不良達に手を翳すと、何やら呪文を唱えて掌から光を彼等に照射した。不良達は力が抜けた様に次々と倒れ伏していき、抑え付けられていた相津は九死に一生を得た姿を晒す。
「お前は……!」
力なく顔を上げた相津はその少女に見覚えが有る様だった。そして、彼女が自分を助けた事に大きな驚きを見せていた。
「一体どういうつもりだ? 何をしたんだ、将屋?」
鐵の配下で協力関係にあると思われた假藏の女子生徒・将屋杏樹が窮地の相津を救い出したのだ。以前も彼女は攫われた戸井宝乃の拘束を独断で解いており、何やら鐵に非協力的な姿勢を頻出させている。
「相津、話は後だ。今はアンタだけでもここから逃がさなきゃいけない。あいつらが戻ってくる前に……。」
「あ? 戻って来るだと? だったら返り討ちにしてやればいいだろ。休めば鐵如きやれる体力は戻るぜ。」
「無理だよ。あいつは闇に魂を売った。もう普通の人間が勝てる相手じゃない。」
将屋は強い怒りの籠った視線で鐵と砂社が去った虚空を見詰めていた。
「……普通の人間が、って事は、勝てる見込みはあるのか?」
相津は拳を握り締めて将屋に尋ねる。
「お前がどういう事情で何を考えているかは知らねえ。だが、俺にはあいつらを許せねえ大い理由が出来た……!」
怒りに顔を歪ませる相津へ将屋は黙って目を向けた。そして、無言で頷くと彼に肩を貸して立ち上がる。
「兎に角、今は退却だ。悪いがこいつらの事は置いて行く。」
「どうにか連れて行けねえのか? こいつ等だって狙われるだろ。俺にとっちゃ他人じゃねえんだよ。」
相津の問いに将屋は申し訳無さそうに首を振った。
「一応、仲間に連絡は入れておく。でも、何人助けられるかは分からない。それに助かったとしても、当分意識は戻らないだろう。」
「そうか……。」
相津は悔しさを滲ませつつ舌打ちした。彼にとって多くの意味で苦過ぎる一日が終わろうとしていた。
彼の憎き仇たちは宴を始めているだろう。
その真の目的は未だ計り知れないが、既に人間社会にとって容認できない甚大な被害を齎しつつある。
間も無く、戦いの鍵を握る者達に戦いを識る者達が接触する。
二つの勢力の争いは新たな展開を迎えるだろう。
※お知らせ
本作は6/20㈫の第二章終了を機に、一旦休載致します。
第三章以降の再開は8/19㈯を予定しております。
何卒御理解の程宜しく御願い致します。




