第三十五話 漆黒の記憶
あゝ覚えてゐます、覚えてゐますとも。あなたの目付き鼻立ち唇の艶、表情一つ一つを心の写真帳に鮮やかなままで蒐集してございます。ですから頁を引けば、何時でも何処でも何度でもあなたがどういふ仕草で私の琴線に触れてくださつたか、寸分違はず思ひ出すことが出来るのです。
え、初めて出会つた時の感情、でございますか?
生憎私の事は能く覚えてをりません。
――旭冥櫻著『斑夢想』より。
華藏・假藏両學園は双方の話し合いの下で無期限の休校措置が取られる事となり、生徒達は帰宅を促された。華藏學園の生徒達にとっては卒業と進路への不安から、假藏學園の生徒達にとっては自分達を悪者扱いされた事への不満から夫々反発が生じたが、学校のいう事に素直に従う優等生と学校に来なくて良いならそれでいい不良で異なる理由から、両學園共に最終的には受け入れられた。
帰りのバスの中、真里愛斗達は二人ずつ二列に固まって席を取っていた。普段バスに乗り慣れていない西邑龍太郎と戸井宝乃に配慮して乗り物酔い対策に前の方に陣取っている。
「見えんのか、愛斗君?」
窓の外を見詰める愛斗に、隣の仁観嵐十郎が問い掛けた。二日間、登校時のバスに同乗した彼は愛斗が窓の外を見がちな事に気が付いていた。
「ええ。今も窓に映っていますよ。彼女が……。」
學園長室で、愛斗はこれまでの経緯を一通り三人と共有した。今迄憑子とどういう手段で意思を疎通して来たのか、その方法も。
「しかし、俺にとっては色々と妙な気分だぜ。」
「何がですか、仁観先輩?」
「何って、華藏月子は俺の幼馴染だ。そいつの事をつい先刻まですっかり忘れ果てていた、というのが一つ。更に、そいつが実はとんでもない秘密を二つも抱えていた、という話が一つ。ま、中々腑に落ちねえ所はあるがな。」
仁観は髪を掻き上げ、眉間に皺を寄せた。その眼は何か只ならぬ感傷を記憶に映している様に思えた。
「仁観先輩?」
「愛斗君、俺が敢えて奇抜に、個性的に生きる様になったのは、実は一つの切欠が有っての事なんだ……。」
意味深に、仁観は切り出した。彼と以前より親交のあった西邑が口を挟む。
「……お父さんの件でしたっけ?」
「ああ。親父は俺が餓鬼の頃に自殺した。人間、何時死ぬか分からないと身に染みたよ。」
幼い頃に降り掛かった身内の不幸、それが彼の死生観に強烈な影響を与えていた。だが、このタイミングで彼がその話を口にしたのは別の意味がある。
「だがな、或る時親父の死について一寸奇妙な噂話を聞いたんだ。」
「噂話?」
愛斗の後で、窓に映った憑子が顔を顰めていた。彼女には仁観の言う噂話に心当たりが有るらしい。
「それは俺が華藏月子と疎遠になった大きな理由だった。ま、それ以前に俺は段々あいつの事が信用出来ねえと思い始めていたがよ。」
「信用出来ない、ですか……。」
一瞬、愛斗は仁観の発言を意外に思った。少なくとも彼女は外面だけは理想的な美少女だった筈だからだ。しかし、古くから知るという仁観にはその裏側に潜む別な顔も見えていたのかも知れないと思い直した。
『言っておくけれど、私が華藏月子として外に出る様になったのは中学以降、もっと言えば真里君、君の虐め騒動より後の話よ。それ以前は姉と、それから悪魔が表で動いていたわ。』
「そうですか……。」
憑子の声は現在、愛斗以外に聞こえていない。彼女には会話相手を選別し、それ以外の相手に自らの一切を認知させない事が出来るらしい。普段は愛斗の身体を操るのと同様に力を消費する為、必要に迫られない限りは愛斗以外には姿も声も晒さない様にしていると話していた。
「と言う事は、仁観先輩が仰っているのは今の憑子會長ではないという事ですね。」
『そうなるわね。』
「やっぱそうなのか……。」
仁観は溜息を吐き、椅子に凭れ掛かった。その表情には追憶というより、何か強い怒りや憎しみの様な感情が滲んでいる。
「じゃあ愛斗君に取り憑いてるあの白い靄みたいな奴、『新月の御嬢様』といかいうのは、俺の親父の自殺には関係ねえって事だな。」
天井を見上げながら、仁観はとんでもない事を仄めかした。裏を返せば、現在の憑子以外に彼の父親の死に関わった人物が居たという事になる。
「どういう事ですか?」
「親父が死んで数年後の事だった。俺は華藏月子に関して、布臭え話を聞いた。あの女は時折異常な残虐性を発揮する、と。そしてその一例として、幼馴染の男の子の父親を自殺に追い込んだ、という話も……。」
「成程。つまり、噂が本当なら悪魔は貴方にとって父親の仇だという事になりますね。」
西邑は腕を組んで考え込む。それが事実だとすれば、仁観にとって悪魔は愛斗以上に因縁が有るという事だ。その心境は尋常ならざる物が在るだろう。
「愛斗君よ。悪魔祓い、俺も協力させて貰うからよ。」
「え? 気持は有難いですけど、普通の喧嘩じゃなくてオカルト的な存在が相手だと勝手が違いますし、危険だと思いますよ。」
「協力するからよ。」
矢張り仁観は自分本位な人間である。気を使って制止するだけ無駄なようだ。
「真里、仁観先輩程役に立つ自信は無いが、私も可能な限り助力しようと思う。君は親友だからな。」
「私も……このまま學園生活が終わりなんて嫌だし……。」
彼に釣られてか、西邑と戸井まで協力を申し出てきた。仁観の様に身勝手な人物でなくとも、その意志が固ければ止めるのは難しいだろう。
「解った。けど、絶対に無理はしないで、自分の身の安全を大事に考えて、退く時は迷わず退いて欲しい。それだけは、絶対に約束してくれ。」
「何を言ってるんだ、愛斗君。それはお前だって同じ事だぞ?」
仁観の指摘通り、愛斗の言葉は自分だけは我が身を顧みてはならないかの如き発想から出たものだった。それは違う、勘違いするなというのは他の二人の意見も同じだろう。
「御免、有難う……。」
最後に仁観は自らの原点、苦い記憶に関連して悪魔と戦う意思を示した。それは彼にとって、忘れていたかった傷痕に違いない。
それを思った時、愛斗の頭に軽い頭痛が瞬いた。まるでそれは、自らの中に封印された漆黒の記憶が小さく囁いたかの様だった。
バスは学び舎から離れていく。
もう一度このバスに乗り、平穏な學園へ戻る為に彼等は人知れず闇との戦いに身を投じるのだ。
☾☾☾
その夜、愛斗は自宅のベッドに寝そべり、考え事をしていた。
『騙していた事、怒っている?』
憑子が例によって華藏月子を模った姿を見せ、愛斗に問い掛ける。
今までずっと愛斗は自身が華藏月子本人だと思っていたからこそ渋々従っていた面は否めまい。――そう憑子は考えていたからこそ、黙っていたのだろう。
現に、彼女はその前提を覆す事を躊躇っていた。
「いえ、別にそういう訳じゃないんです。貴女が華藏先輩じゃないという事実が在るなら、それはもう仕方が無いじゃないですか。劫々言い出せないのも当然だと思います。」
しかし、目下愛斗にとっての問題はそこではなかった。事実は事実、只受け容れるより他は無い。
それよりも愛斗は危機の中で蘇ったある一つの記憶が気に掛かっていた。
「憑子會長、若し御判りなら教えて頂きたい事が有るんです。」
『教えて欲しい事?』
愛斗は上体を起こし、憑子の眼を見て問い掛ける。
「貴女が僕の中に入り込む事になったあの夜の事で、朧気に思い出した事が一つ……。」
その言葉を聞いた憑子は顔を顰めて訝しむ様な視線を愛斗に返してきた。まるでこれから愛斗の口から語られる質問が彼女にとって都合が悪いとでも言わん許りの不穏な表情だった。
しかし愛斗は続ける。
「今日まで僕は、あの夜の事を途中までしか覚えていなかった。あいつらが記憶に干渉してきたせいなのか、それとも僕自身が何か思い出したくなかったのか、それははっきりしません。でも一つ、どうして僕が翌朝現場で気を失っていたのか、その断片的な答えの様な物は蘇って来たんですよ。」
愛斗が思い出した、あの夜最後の記憶。倒れ伏していた少女が見せた、今迄の彼女からは想像も付かない優しい微笑みと、直後の暗転。その原因となった、誰かに殴られた記憶。
「あの夜、僕と會長と聖護院先生、それ以外にもう一人あの場所に居ましたよね? 僕を最後に殴り倒した男が……。」
『……確かにそうね。』
憑子の答えは「渋々認めた。」と言った調子だった。彼女は明らかに、愛斗がそこに触れるのを嫌がっている。
「會長、何か問題でも?」
言葉を中断する問い掛けに、憑子は小さな溜息で答えた。流石の愛斗も、憑子には未だ話せない事が有るのだと確信させられる。
「その誰かは、訊かない方が良いみたいですね……。」
『君の疑問に対して、一つだけ言っておく事が有るわ。』
憑子の返答は、逆にそれ以上の事は告げるつもりが無いと言外に物語っていた。
『君が思い出せないのなら、それは幸いな事よ。』
「それは知られると都合が悪いからですか?」
『少し違うわね。孰れ君にも判る時が来るでしょう。でも今は……。』
未だ明かす訳にはいかない、という事か。――愛斗は再び仰向けになった。
「全部話してくれるものだと許り思っていましたよ。」
それは彼の、大きな失望の呟きだった。これまでの不平不満とは違い、彼は答えが欲しかった。
愛斗には漆黒の予感があった。この記憶には、何か途方も無く恐ろしい秘密が隠されていると思えてならない。恐らく、思い出せないのは自ら追憶を拒んでいるからだ。
記憶の闇は、靄は晴れない。自分を殴り倒した男の顔を覆う影がどうしても拭えない。
そして、定かで無いのは男の顔だけではなかった。
(意識を失う直前、誰かに殴られたのは思い出した。その直前、僕は逃げようとしていたという事も……。でも、あの會長の微笑みから逃げ出す迄の記憶が繋がらない。あの、何処か優しくも悲愴な微笑みを思い浮かべると、次の瞬間には既には知っていた映像に接続されてしまう……。)
瞬間、愛斗の心臓が強く脈打った。憑子が彼を止めようとしているのだろうか。
『真里君、どうしたの?』
否、彼女の意図に由るものではないらしい。
また一つ、強い鼓動。今度は同時に砂嵐の光景が脳裡にフラッシュバックする。
「何……だ……?」
三度目。今度は両手に生温い液体の感触が蘇る。
「うぁ……あ……!」
愛斗は例え様の無い恐怖を感じていた。都合の悪い真実が隠蔽されている。そして頑なに蓋をし続けているのは憑子ではない。
「血……⁉」
刹那にも満たない、須臾の間。ノイズ交じりの映像が、確かに鮮血で染められた自身の両手を浮かび上がらせた。
(何か……。根本的な事を思い違えていないか……?)
奥歯が小刻みに打ち合わされる。愛斗は何時の間にか震えていた。開けてはいけない、南京錠で大袈裟に鎖された扉が記憶に横たわっている。
愛斗は一つ、禁断の前提を思い出そうとしていた。
(あの時……あの朝……! 僕は何を考えていた……? 死体を見て、僕は直ぐにこう思い込んだ……! 僕が生徒會の皆を殺したのだ、と……‼)
壱、弐、惨、と来て、死度目の鼓動が鳴る。
「あの夜、まさか僕は……!」
思わず漏れた声が聞こえたのか、憑子は目を皿の様に見開いた。良からぬ事が起きている、といった様相だ。
『真里君!』
それ以上はいけない。――そう言わんとしているかの様だ。
と、その時、愛斗のスマートフォンが鳴動した。我に返った彼は相手先を確認し、胸を撫で下ろす。
「西邑……。何の用だろう?」
親友の存在が彼を現実に引き戻した。気が紛れ、それ以上自分の記憶に深入りできなくなったのだが、それが寧ろ愛斗を安堵させた。
「もしもし?」
『真里、例の元特待生とやらから連絡は来たか?』
電話口の西邑の声はやや興奮気味だった。
「いや、幾ら何でもそんな早くには来ないよ。」
『私の元へは来たんだよ! そして、何と何と驚く勿れ! 偉大なる先輩が私に直接会ってくれるそうだ‼』
愛斗は知っている。西邑がこの様に燥ぐのは、決まって本に関わる何かがあった時だ。
「どんな大先生だ?」
『浅倉桜歌先輩! ペンネーム、旭冥櫻先生だ‼』
旭冥櫻。華藏學園の卒業生にして、学生乍ら既に大物として名を馳せている幻想作家である。そして、愛斗は西邑から彼女への尊敬の念を何度も聞かされていた。
「まさか、あの旭冥先生が今回の為に學園から確保されていた『人材』……?」
『これは残りのメンバーも大物揃いかも知れんぞ‼』
非常事態だというのに興奮を抑えられない、抑える気も無さそうな様子の親友に、愛斗は呆れ返ってしまった。だが、同時に心を切り替えるには丁度良い。
「有難う、西邑。」
『ん?』
そうだ、今は定かでない記憶に怯え、疑心暗鬼の泥沼に嵌っている場合ではない。『闇の逝徒會』が一度逃げられたからといって諦めるとも思えないし、彼等は平気で無関係の人間を巻き込む。
今は敵と戦う為に、一つ一つ確実に準備を進めるべき時だ。
「いや、何でもないよ。西邑、どうか無事でな。」
『仁観先輩も言っていたが、それはお互い様だ。』
通話を終えた愛斗は、何処か胸に晴れ間が差す様な心持ちだった。
「會長、済みませんでした。質問の件は、時が来る迄胸に仕舞っておきます。」
『ええ、そうしておきなさい。』
憑子の表情も何処かほっとした様に緩んでいた。
愛斗達にとって長い一日が、どうにか日暮れの時を迎えようとしていた。
※お知らせ
本作は6/20㈫の第二章終了を機に、一旦休載致します。
第三章以降の再開は8/19㈯を予定しております。
何卒御理解の程宜しく御願い致します。




