第三十四話 新月の御嬢様
ego cogito, ergo sum. (我思う、故に我在り。)
――ルネ・デカルト
憑子は華藏月子ではない。――學園長・大心原毎夜の執務室で彼女に促され、そう切り出した彼女は、自身の出生と華藏家の秘密について語り始めた。
『華藏家には一人娘の月子に関する悪い噂が在った。彼女は悪魔に憑かれていると言われており、そして新月の夜には正気を失い悪魔に身を委ねるのだと……。』
静かな語り口だが、真里愛斗は憑子の言葉が何処か恐ろしく感じられた。今迄の話から推察すると、憑子こそがその悪魔なのだと捉えられる。
しかし、彼女は違う答えを紡いだ。
『それは一つの事実。そして彼女は生まれた時から内面に巣食うその悪魔に悩まされ続けた。私と二人でね……。』
「え、二人? つまり、貴女の他にももう一つ華藏會長には何かが取り憑いていたという事ですか?」
『そう。しかし、その取り憑き方は少々異なっていた。』
憑子は愛斗の左胸を指差した。その瞬間、愛斗は指し示された一点に熱と痛みを感じ、小さく呻いた。
「真里、大丈夫?」
戸井宝乃の気遣う言葉に、愛斗は手を差し出して無言の内に心配無用と制する。その感覚には覚えがあった。
「憑子會長、貴女は今、まさか……。」
愛斗は胸を摩りながら憑子に問い掛ける。彼の頭には惨劇の夜、悪魔の様な顔の華藏月子を模った白い靄が入り込んで来た時、胸に覚えた強い痛みが浮かんでいた。それに比べれば大した事は無いが、それと今の小さな痛みの共通項が一つの答えに気付かせた。
「貴女が取り憑いているのは心臓ですか? 今の僕も、華藏會長も。」
『その通り。』
憑子が白い靄で模った姿が揺らめいた。憑子の美貌が一瞬崩れ、悪鬼羅刹の様相を垣間見せる。
『私は元々、華藏月子の心臓に吸収されていた双生児の片割れ、もう一個の生命体。それは一つの腫瘍に一個の人間の機能を持つ存在。』
「聞いたことがある……!」
西邑龍太郎がハッとした様に顔を上げた。
「畸形嚢腫か……!」
『一般的なそれとは大きく違い、取り憑いた心臓に多少の負担を掛ける事はあっても大きく成る事は無く、外見も変化せず共存可能だった点は特殊だけれどね。御蔭で姉とはそれなりに仲良く出来た。』
憑子は目を閉じて、恐らくは過去を思い起こしていた。どうやら華藏月子の事は双子の姉と認識している様だ。
『ただ、姉はずっと私とは別の、もう一個の意思に蝕まれ、苦しめられていた。それは私と違い体ではなく心に取り憑いていた為か、姉だけにしか感じ取れなかった。けれど、姉は時折常軌を逸した行動を起こしていた。』
「それが、悪魔の仕業だと……。」
『恐らくは。だから私は、姉と約束したの。必ず悪魔を姉から追い出す、と……。』
華藏月子を模った表情に悲しみの色が帯びる。それは何より雄弁に、憑子が約束を果たせていないという事を示していた。
「成程な、大方の事情は呑み込めたぜ。」
仁観嵐十郎が長い睫毛を蓄えた瞼を閉じて頷いた。
「だが、それと今の状況に何の関係が有る? それはあくまでお前達姉妹、精々が華藏家の問題だろう?」
『大有りなのよ。何故ならその悪魔の出所こそ、私達の曾々御爺様がこの華藏學園創立の際に関わってしまった大いなる闇だったから。』
憑子の答えに、仁観は薄目を開けて彼女をじっと見詰める。
『真里君には既に話したけれど、華藏學園の移設場所に選ばれたこの山には古来より残された、取り壊すことが出来なかった建築物が幾つか在るわ。それは二つの何か、此岸と彼岸を一つに繋げたり、逆に一つの何かを此方と彼方に分離したり出来る神秘の力が有ると言われている……。華藏家の子女は御爺様から三代続けてこの學園に通っていた。恐らくその間に、あの悪魔はこの血筋と一つに繋がったのよ。』
「異界の……扉……?」
『即ち、死後の世界、冥府。』
「まるで黄泉比良坂だな……。」
西邑が小さく呟いた。
『はっきりとした事は解らないけれど、悪魔の出所は恐らくそういう所だと思われるわ。そして學園の神秘、その力の究極の本質は、万物の境界線を操作する事。生と死の狭間を自在に縫い、又は分かつ事。その先に私があの夜悪魔に対してやろうとした事と、悪魔がこの世界に対してやろうとしている事の本質がある。』
雲が日光を遮り、學園長室に影が差した。
『生と死の境界線を操るという事は、肉体に秘められた命を分離し、死体に異なる意思を吹き込むことが出来るという事。私は華藏月子から悪魔を分離し、冥府へと還そうとしたけれど、失敗してしまった。結果、私も恐らく悪魔も華藏月子から分離され、それぞれその場に居た別の人間の肉体と一つになった。これが私と真里君が、悪魔と聖護院先生が同居するに至った経緯。』
「じゃあ、基浪先輩と砂社先輩は?」
「紫風呂の奴はどうしちまったんだ?」
戸井と仁観が立て続けに質問を投げ付ける。
『先ず、紫風呂君。彼は生命活動を停止しておらず、恐らくは単に操られただけ。何時になるかは分からないけれど、時間と共に目を覚まし正気に戻る筈。彼に付随して操られた不良共も同じ。一層の事消えてくれれば良かったのに……。』
「御嬢様、その様な事を仰るものではありませんよ。」
學園長の大心原が年長者、教育者として憑子に釘を刺した。普段は愛斗に対して平気で毒を吐き悪びれない彼女も、今回は煩わしそうに眉を顰めていた。
『恐らく、未だ間接的に大規模な人数を死体に変えて操る力は得ていないと思われるわ。それを考慮すると、聖護院先生もまだ死んではいない。逆に、基浪君と砂社さんは……。』
「あの時死んだから、それに乗じて操られている、という訳ですね。」
「おい、一寸待ってくれ。」
当然の様に話を進める愛斗に、仁観が待ったを掛けた。
「先刻からあの夜とかあの時とか、一体何の事なんだ? それに、基浪と砂社が死んだってのは……?」
「済みません、その説明をしなければなりませんね。」
愛斗は無言で憑子を見上げ、情報開示の伺いを立てる。憑子は黙って頷きそれを許した。
「僕にとってこの一件はあの生徒會合宿の夜に始まった。ずっと黙っていたけれど、今からとても大事な事を話すよ。あの夜何が起きたか、僕の解る範囲で……。」
憑子に代わり、今度は愛斗が二人の秘密、惨劇の夜について話し始めた。戸井は瞠目し口を抑えて震え、西邑と仁観は思わず目を背けていた。大心原は目を閉じて何かを考えている様だった。何れにせよ、とんでもない報せである。
「『闇の逝徒會』……か。つまり鐵が寄越してきたあの犯行声明に書かれていたのは、あいつの新しいグループじゃなくてその悪魔の一味だったって訳か。」
『ええ、間違い無く彼等の差し金でしょうね。その後に、闇の力で操られた不良達が襲って来た事を踏まえてもそうとしか考えられない。』
「一体、その悪魔は一体何をしようとしているの……?」
戸井が震えながら憑子に尋ねた。それは愛斗も気になっていた事である。これまで學園に潜む闇と悪魔に憑いては語られ、実際に遭遇したものの、敵の最終的な目標に付いてはずっと宙ぶらりんになったままだった。
『答えは先刻触れた現状の中に在るわ。』
「と、言いますと?」
『今は未だ、間接的に大規模な人間を殺し操る事は出来ない。即ち、時が経ち力を付ければそれが出来るようになる。』
愛斗は背筋が凍り付く様な寒気を感じた。一つの悍ましい想像が全身を駆け巡る。そしてその憶測は憑子も同じ考えだった様だ。
『あの悪魔をこのまま放置すればどうなるか。祠によって通じる異界から死者の魂を己と一つに吸収し続け、どんどん力を増していく。遠隔的な、間接的な大量殺人が可能な程に闇の力が巨大化していく。』
西邑、戸井、仁観の顔も引き攣った。推論されるのは余りにも絶大な邪悪である。
『その先に在るのは華藏・假藏両學園の生徒達の鏖殺、そして基浪君砂社さんと同じ様に別の意思を死体に入れられ奴の操り人形にされる。それに因って大量の死者が発生すれば、また祠の力で自らの糧とし、闇の力は雪達磨式に増大していく。そしてその規模は學園に留まらず拡大していき、果てにはこの国、この世界中が屍の奴隷帝国となり、悪魔は神と成り代わり世界の秩序を引っ繰り返す……。』
それは一聴すると荒唐無稽な御伽噺である。しかし、憑子の眼はそこに一切の冗談が無い事を物語っていた。
『言っておくけれどこれは決して誇大妄想ではないわ。一つ、悪魔の精神性については姉を通じて私もよく知っている。何より、残忍な異常行動の数々がその印象を裏付けている。一つ、展望の実現性については私自身が祠や学園の秘密について調べ尽くしてよく知っている。今日対峙した奴の力が順調に増大している事から、このままでは遠くない内に學園中が喰われるわ。』
「だから、已むを得ず休校を決断しました。」
大心原の下した判断には思いの外重大な意味があったらしい。無論、この様な真相を明かすこと等出来る筈も無かろうが。
「御嬢様、ここからは私から、皆さんの今後についてお話ししましょう。宜しいですね?」
『お願いするわ。どう出るつもり?』
「既に一つ、手を打ってあります。」
彼女は執務机に着席すると、卓上に置かれていた手帳の頁を捲った。
「昨日、私は學園の土地に纏わる神秘に対して深い知見を持つ専門家を数名召喚しました。何れも、嘗て華藏學園が文化的素養を見出し特別枠で推薦入学を承った、という名目で招聘した方々です。」
「つまり、私達の先輩という訳ですか……。」
西邑が眼鏡を上げながら鋭い目付きで大心原の発言を訝しむ。
「奇妙な偶然が在ったものですね。偶々特別推薦で招いた方々が、學園の闇の専門家になるだなんて。」
「御察しの通り、入学の理由は表向きです。元々、貴方達の枠自体が華藏學園の神秘を研究する為の人材として関係を結びたいが、学力の都合上入学が難しい若者を招き入れる為の方便だったのです。最も、今は形骸化して本当に文化芸能方面の推薦枠としてしか機能していませんがね。」
一見何でもない制度だったが、その裏には矢張り學園が抱えていた闇に纏わる秘密が隠されていたらしい。また、それは華藏學園が自校を取り巻く環境を打破しようと動き、小中学生に対してさえ目を掛けていたという事を意味している。
「全員、癖の強い人物ですが知識と腕は確かです。必ずや事態を解決に導いてくれる事でしょう。皆さんはこの一件に関わってしまった関係上、『闇の逝徒會』から何時狙われるとも限らない。その為の護衛も兼ねています。」
「成程……。」
愛斗としては、憑子の力とそれを以てしても敵わない許りか更に強くなる悪魔を目の当たりにして行き詰まりを感じていたので、この救援は素直に心強かった。若しかすると、もうこれ以上彼が動く必要すら無いかも知れない。
「本来は一週間前、両學園融合と聖護院先生の行方不明が同時に起きた時点で対処すべきでした。しかし、皆さんももうお解りでしょうが敵は我々の記憶に干渉し、重要な情報を思い出せない様にしていた。初期の段階では何が起きているのか理解出来なかったのです。」
『当初は未だ力が弱かったから、時間を稼ぐ必要があったのでしょうね。』
「逆に言うと、今はその必要が無い。即ち事態は急を要する。更に悪い事に、我々の戦力で最も強力な力を持っていた聖護院先生が敵の手に落ちている。此方は残る総力を挙げて対処しなければならない。否、それでも足りないでしょう。」
憑子と大心原の視線が愛斗に白羽の矢を立てた。その眼が何を意味するか、愛斗には直ぐに解った。
「引き続き、僕も解決に当たって協力しろ、と?」
「悪魔と戦う為に研鑽を積まれた『新月の御嬢様』の御助力は喉から手が出る程欲しい現状です。である以上、その宿主となられた貴方の御厚意にどうしても御縋りする他無い……。」
大心原は皺の刻まれた表情に後ろめたさを滲ませていた。學園長として、生徒の安全に責任を持たなければならない立場として、真里愛斗という一生徒にその一端を担わせる不甲斐無さと、そうせざるを得ない現実に忸怩たる思いが有るのだろう。
愛斗も半ば覚悟していた。動もすればこの奇妙な重責から解放されるかも知れないと淡い希望を抱きもしたが、こうなるであろう事は十分予想出来た。
それでも良かった。
「この一週間、僕は今迄で一番自分の役割を実感していました。生徒達のより良い學園生活の為に身を粉にする生徒會役員としての責務と自覚を……。」
愛斗の双眸に灼熱の焔が宿る。既にこの闇にとことん迄付き合う覚悟だ。
「僕に出来ることがあれば何なりと仰ってください。」
決意に満ちた返事を聞き、憑子は何処か嬉しそうに小さく微笑んだ。大心原も強張っていた表情を少し緩める。
「今後、貴方に足を向けて眠れそうにありませんね。」
『私の教育の賜物ね。』
憑子は愛斗の元へ戻ると、体の中へ入り込む様に華藏月子を模った姿を消した。
「では、この場は解散としましょう。可能な限り早急に担当の護衛を手配して連絡します。夫々の担当と接触した後、各自指示に従ってください。我々は全力で事態への対処に当たります。」
平穏な學園生活は終わりを告げ、愛斗と憑子と學園の悪魔、光と闇の生徒會の戦いは新たな局面に入った。
華藏學園と假藏學園、両校の生徒達に帰宅指示が下り、愛斗達は他の生徒達と共に帰路に就く。
凡その戦いに於いて、その緒戦は負ける訳にいかない物として始まる。その敵と理由が開示された事で、奇譚は本当の意味でその幕を開けるのである。
※お知らせ
本作は6/20㈫の第二章終了を機に、一旦休載致します。
第三章以降の再開は8/19㈯を予定しております。
何卒御理解の程宜しく御願い致します。




