第三十一話 滴る朦朧
人間の記憶が当てになるのなら、試験で誤答する者等居ない。
――華藏學園長・大心原毎夜
真里愛斗は思い出していた。
在りし日の生徒會定例会、彼に責め苛んできたのは何も會長の美少女だけではない。副會長の少年と会計の少女、この二人は謂わば彼女の取り巻きであった。故に、ボスに追従する形で彼等からも散々嫌がらせを受けた。主体性があり、自らの確固たる意志でそれを行っていた會長よりも寧ろ過激且つ陰湿ですらあったかも知れない。
華藏學園生徒會副會長・基浪計、会計・砂社日和。今、假藏學園の校舎裏で因縁の二人が愛斗を前後から挟み撃ちにする形で追い詰めている。二人は闇を纏い、眼を紅く爛々と耀かせていて明らかに普通ではない。華藏學園に通じていた祠は基浪に破壊され、愛斗は逃げ道を失っていた。
それよりも問題は先程救出した同級生・戸井宝乃の身柄である。尋常ではない様子の基浪と砂社は、無関係の戸井の事も平気で手に掛けると自ら仄めかしている。愛斗にとって最優先事項は、何としても彼女を二人の間の手から守り抜く事であった。
「憑子會長。」
『当然、許すわ。この私を殺すと迄言った連中に情けを掛けるとでも? 遠慮無く返り討ちにしてしまいなさい。』
その言葉だけで愛斗の拳に力が入る。抑も、愛斗がずっとこの二人に反抗しなかったのは華藏月子の眼が在ったからだ。即ち、憑子直々に許可が下りた今、彼等に配慮する理由は何も無い。寧ろ、散々舐め腐った相手に眼に物見せる大チャンスである。
(勿論、戸井の安全確保の為だ。深入りするつもりは無いし、一発噛ましてやったら即座に退散する。その後は尾咲さんか相津さんに連絡して三年の教室から華藏學園に戻らせて貰おう。)
愛斗は会計の砂社を睨み付ける。二人力の暴力を女子に向けるのは通常なら気が引けるが、今は形振り構っていられない。弱い方を容赦なく突いて戸井と共に逃げる最善を尽くすべきである。
躙々と、基浪と砂社が前後から迫る。愛斗は一瞬、背後の基浪との距離を確認し、再び砂社に視線を戻した。基浪は冷徹な無表情、砂社は狂気の微笑みを湛えて二人、否三人を害そうとしていた。
愛斗は背後の基浪の気配を足音で気にしながら、砂社との距離、タイミングを計る。
(やるなら速攻で、刹那でやらなければ……!)
護る可き戸井に体を寄せる。彼女の事も一瞬でこの場から連れ去らなければならない。
一歩、また一歩と迫る砂社をギリギリまで引き付ける。
(今だ‼)
間合いに入った瞬間、愛斗は躊躇わず砂社の顔面に殴り掛かった。二人分の膂力で身軽な体型を動かす、その尋常ならざる速度が並の反射神経では気付くこともままならぬ攻撃を実現する。
躱せる筈が無い。――愛斗も憑子も、そう信じて疑わなかった。
しかし、拳が当たる当にその時、砂社の身体が在り得ない角度で反らされた。
「えっ⁉」
「真里、アンタ最低の男だねえ。」
不気味な声色と共に、砂社の状態が跳ね返り愛斗の首根っこを掴み上げた。
「ガッ⁉」
「真里‼」
砂社の右手が信じられない握力で愛斗の首を絞め付ける。首を傾げるその表情は幽鬼の如く不気味な狂気の様相を呈していた。
『まさかこれ程の力を与えられているとは……!』
これは憑子にとっても予想外であったらしい。尚、愛斗が意識を失う事は憑子の失神をも同時に意味するので、彼女にとってもこれはピンチである。
「あっさり決まったな。この俺が何かする迄も無かった。」
「祠壊しといて受ける!」
「フン、所詮はレプリカだ……。」
基浪は背後の壊れた祠の残骸に目を向けた。
頼みの綱の愛斗が捕まってしまった戸井は今まで以上に怯えて震えている。
「レプリカ……だと……?」
「どうでも良いじゃん。どうせアンタはこのまま私に首を捩じ切られて死ぬんだから。」
人間離れした砂社の握力が愛斗の首を更に締め上げる。恐らく、首を捩じ切ると言うのも決して発足ではあるまい。
(このっ……‼)
愛斗は藻掻きながら、どうにか活路を拓こうとする。必死に体を捩り、苦し紛れではあるが渾身の回し蹴りを砂社に浴びせた。
「ぐっ!」
瞬間、白い光が蹴りの当たった砂社の脇腹から弾けた。砂社は堪らず愛斗から手を放してよろける。愛斗はその瞬間を逃さず、酸欠で朦朧とする意識に鞭を打って立ち上がり、戸井を抱え上げた。所謂お姫様抱っこでの退却を試みる。
「御免戸井、行こう‼」
愛斗は一目散に逃げ出……そうとした。
だが、基浪に後ろから物凄い力で後頭部を殴られた。
「おい俺を忘れて何処へ行く?」
「うぐっ……‼」
愛斗は戸井を抱えたまま膝を突いた。彼女の身体を前にしていたのは辛うじて基浪から守る結果に繋がり、不幸中の幸いだった。
「真里、大丈夫?」
「悪い、二人相手は一寸厳しいかも知れない。でも、戸井の事だけは絶対に護るから……。」
愛斗の額に血が流れる。基浪に殴られ、頭から出血したのだ。
しかし、へこたれてはいられない。愛斗は戸井を一旦優しく降ろすと、どうにか彼女だけでも逃がすチャンスを作ろうと顔を上げて相手二人の様子を窺う。
だがふと、視界に映り込んだ砂社の脚に愛斗は妙な物を見た。それは愛斗の額同様に血が伝い落ちている様であったが、その色が普通ではなかったのだ。
「紫の……血……?」
「何見てんだよ、穢露餓鬼が……!」
砂社は不愉快そうに顔を顰め、塵を見る様な眼で愛斗を見下ろしていた。
愛斗はその不気味さにたじろいだ。
抑も、ここ迄の遣り取りで砂社が出血しているのは奇妙だ。何故なら愛斗が炸裂させた攻撃は脇腹への鈍い蹴り一発で、内臓破裂や内出血、肋骨の骨折により腫れる事は考えられても外出血するというのは違和感があるからだ。
「これは一体……?」
『簡単な事よ。砂社さんも、当然基浪君も、既に闇に魅入られて人間ではなくなっているの。もう少し言えば、あの二人は生前とは全く別人。』
「生前……つまり……。」
『当然でしょう。あの時、君は二人の死体を確かに見た筈よ。』
憑子の言う通りだとすれば、差し詰め何らかの異質な意思が基浪と砂社の死体を操っている、と言った所だろうか。だが、それにしては二人とも愛斗の事を生前から知っていなければ辻褄が合わない言動が見られる。
「會長、どういう事なんでしょう?」
『それも簡単。恐らく本人達の脳を介して思考しているから、生前の記憶を参照できるのよ。』
愛斗は背中に戸井を庇いつつ壁に向かって後退り、基浪と砂社の両方正面にして距離を取った。闇と狂気を纏い、人間らしい温かみを喪失した二人の出で立ちは憑子の推察を裏付けている様にも見えてくる。
「あーあ、制服が……。」
砂社の上着、その腹部に横一文字の染みが滲む。その色もやはり紫色だ。
「出血は……最初に体を折り曲げた時の物だったのか……!」
『死体を無理矢理動かしているから、生きた人間には不可能な、無茶な動きも出来るの。』
「でも普通は死後硬直して寧ろ硬くなるんじゃ……?」
『その問題を解決しているのが、あの特殊な血液という訳。』
愛斗は自身の顔から血の気が引いていくのを感じていた。基浪と砂社、確かに生前は気に入らない所が多かったが、見知った二人が人間ではない存在となって今自分達に襲い掛かって来ている。
『だから、本当に良いのよ。あの二人はもう以前の二人じゃない。一切の負い目を感じる事無く、二人を還る可き場所に還しなさい。』
憑子の声には何処か悲しみが滲んでいる様に聞こえた。彼女にとっては共に生徒會役員として働いてきた盟友であり、そして自らの不手際で犠牲にしてしまった者達である。その死体を弄ばれ、尊厳を踏み躙られている現状に対する心情は察するに余りある。
だがそれを聞いてか、基浪と砂社は不気味な笑い声をあげた。
「フフフフフ、ハハハハハ‼」
「アハハハハ、可っ笑しい‼」
困惑する愛斗に、基浪が普段の仏頂面とはかけ離れた歪んだ笑みを向けた。否、というより彼は愛斗であって愛斗でない者を見ているかの様に、視線が合っていなかった。
「俺達がもう以前の俺達じゃない? どの口が言うんだ、逝徒會長。」
愛斗は基浪の言葉に戦慄を覚えた。彼には憑子の声が聞こえている。更に、砂社も続いて嘲笑する。
「生まれて来る可きでなかった者が、他人様に向かって還る可き場所がどうとかよく言えるよねえ!」
愛斗の背筋を冷たいものが奔り抜けた。それは憑子の声を認識した基浪と砂社の不気味さに対する違和感だけではなかった。
もっと別の、何か恐ろしい者が傍に居るのを感じる。
ふと、愛斗の脳裡に忘れていた記憶が閃光の様に瞬いた。
(何だ……これは……? あの夜の……?)
愛斗が思い起こした映像、それは生前の華藏月子に見た最期の微笑みだった。彼はずっとそれ以降の記憶を失っていた。だが今、朧気に断片的に跡切れた光景が戻って来ていた。
「うぐっ……‼」
愛斗は額を抑え、蹲る。彼は鈍い痛みを覚えていた。基浪に殴られたものとは違う。それは後頭部だった筈だ。
『真里君、どうしたの⁉』
「思い……出した……! 僕はあの夜……誰かに……。」
封印されていた愛斗の記憶、それは意識が途切れる直前、あの場から逃げようとした時に誰かとばったり出くわし、その人物に頭を殴られたという物だった。
(誰だ……?)
しかし、顔が思い出せない。激しい頭痛と記憶に今も掛かった靄が愛斗に全てを明かさない。
そして、動けない彼だが今はそれどころでもない。
「真里‼」
背後の戸井が愛斗の名前を呼ぶ。
そう、今は基浪と砂社が愛斗と戸井、そして憑子を殺そうとしている。蹲っている場合ではないのだ。
「何か、都合の悪い事実を思い出したか?」
「ま、何でも良いじゃない。アンタもすぐに私達の仲間に入れてあげるよ。死者だけが入れる、『闇の逝徒會』に……。」
纏った紫の闇を夫々の右腕に集めつつ、基浪と砂社は愛斗と戸井に迫る。今の彼等には素手で人間を殺傷する力があり、このままでは愛斗も戸井も、そして憑子も確実に殺される。当に万事休すである。
その時、痛みに苦しむ愛斗の脳裡に微かな憑子の声が聞こえた。
『已むを得ないわね……。』
何やら苦渋の決断を匂わせる呟きの直後、愛斗の身体を白い靄が包み込む。
「な、何? 真里に何が……?」
「ほう……。」
「どうやらその気になったみたいね……。」
基浪と砂社は脚を止めて様子を見る。その表情から余裕が消え、警戒心を露わにして愛斗を見詰めていた。
「憑子……會長……?」
『真里君、心的外傷に苦しんでいる場合ではないわ。どうしても動けないというなら、私が君を動かす。余りやりたくはなかったけれどね……。』
愛斗を覆う白い靄は濃さを増していき、彼の姿を隠していく。中の影が辛うじて確認出来るようになった時、靄は別人の姿を模った。
「え……?」
戸井は目を丸くしていた。
「華藏……先輩……?」
驚愕と共に漏れた戸井の呟きから、愛斗は自分に何が起きているのかを何となく察した。華藏月子の姿が衆目に曝される事は一連の異変解決まで無いと思われたが、どうやら勘違いだった様だ。
「とうとう出て来たな……。」
「私達の本当の敵……。」
基浪と砂社は姿勢を低くして構えを取った。
『私が動ける時間は限られている。真里君はその短時間で頭痛を気合で捻じ伏せ、再び戸井さんを抱えて走れるように快復しておきなさい。』
「會長……?」
『あの二人にはかなり厳いお仕置きをしてやるわ。大人しく死んでおけば良かったと、後悔するくらいのね……。』
愛斗の足が彼の意思とは無関係に一歩前へ出た。どうやら嘗て愛斗に文字を書かせた時の様に、彼の身体を操っているらしい。
『二人とも、覚悟するが良いわ。四方や忘れてはいないでしょうね? 私の、闇の力に対抗する為に聖護院先生と身に付けた力、それから歯向かう者への容赦の無さをね。』
愛斗の身体が一瞬にして基浪との間合いを詰め、掌底を彼に叩き込んだ。瞬間、攻撃を食らわした基浪の胸部が一瞬白い光を放った。
「ウガアアッッ⁉」
「基浪くっ……‼」
空かさず、隣の砂社にも後ろ回し蹴りを見舞う。矢張り同様、打撃を叩き込んだ腰が白く光った。
「ぎいいいいッッ‼」
基浪と砂社は明らかにその白い光の攻撃に因って悶絶していた。振り返れば、先程愛斗の膝蹴りでも同じ現象が起こり、砂社は苦しんでいた。
「憑子會長、これは?」
『言ったでしょう。私は〝學園の闇〟を祓う為に色々調べたのよ。とは言っても、先刻言った通り余り長くは戦えない。この程度で彼等は死ったりしないだろうしね。』
憑子の言う通り、基浪と砂社は此方を睨み付けて体勢を立て直している。
『継戦不能になる迄は任せなさい。その時には合図を送るから、その瞬間電光石火で此処から逃げるのよ。』
初めて、憑物少女が闇の力に対してその威力を振るおうとしていた。
※お知らせ
本作は6/20㈫の第二章終了を機に、一旦休載致します。
第三章以降の再開は8/19㈯を予定しております。
何卒御理解の程宜しく御願い致します。




