第二十九話 不可能の皮
殆どの人間は人間である事を望みはしない。
――社会経済学者・モーア=〝スティーリー〟=アーレース
假藏學園は生徒會室の外で仁観嵐十郎と鐵自由の喧嘩、基、仁観嵐十郎による鐵自由への拷問が始まった頃、部屋の中で真里愛斗は如何にして解放された戸井宝乃を連れて帰るかを考えていた。
「このまま非常階段を降りれば帰れるし、仁観先輩には西邑から連絡を入れて貰って戸井の無事を報せる事も出来るけど……?」
目的は飽くまでも戸井の救出であり、それは既に達成されている。となれば、一刻も早い撤退が急務であろうと思われる。
だが、ここで横槍を入れる存在が居た。
『待ちなさい、真里君。此処は暫く動かず様子を見ましょう。』
愛斗の脳内で憑子が行動にストップを掛け、事態を静観する様に命じて来た。愛斗は周囲に聞こえない様に小さな囁き声でその真意を問う。
「どういう事ですか?」
『どうもこうも、このままで済ませればあの不届き者が手を引かないでしょう。あの屑の中の屑には相応の報いを与える必要があるわ。』
こう言われると、愛斗にも憑子が何を目論んでいるのか理解出来た。この場で鐵の戦力に通じている彼の配下の假藏女子・将屋杏樹も仁観に鐵は勝てないと断言している。つまり、憑子は態と救出の報せを遅らせ、仁観に鐵を完膚無き迄に叩きのめさせようとしているのだ。
相変わらず怖い人だ……。――愛斗は憑子の持つ嗜虐性を改めて思い知った。
しかし、憑子が意図していたのは何も鐵に対する制裁だけではない。
『それに、四方や忘れてはいないでしょうね? この一件には假藏の不良共だけじゃない。〝闇の逝徒會〟が関わっている可能性が高いのよ?』
憑子に指摘され、愛斗はハッとした。戸井の誘拐を告げる置手紙には鐵が率いる『弥勒狭野』と連名で『逝徒會』が記されていた。仁観は假藏の生徒會長でもある鐵が自分の為の新たなチームを作ろうとしているのだと解釈していたが、愛斗はそれが『學園の闇』に関わる存在であると知っている。
「確かに、まだ何も安心出来ませんね……。鐵は兎も角、その裏に隠れている連中の考えが読めない。」
愛斗が口にした言葉に、戸井と将屋の二人の眉が同時に動いた。何やら二人とも思う所が有るらしい。
「あのさ、真里……。」
先に口を開いたのは戸井だった。如何にも気まずそうな、遠慮がちな躊躇いを含んだ表情で徐に話し始めた。
「実は私を攫ったの、假藏の人達じゃないんだよね……。」
「え?」
愛斗は内心予想通りであったが、一応驚く様な振りをして見せた。彼の考え通りなら、リアクションが薄いと戸井から見て不自然だろうと思ったからだ。
「假藏生じゃない? じゃあ、うちの生徒があんな危険な連中に戸井の事を差し出したって言うのか?」
「うん……。そうなるの……かな……?」
どうやら戸井は自分でも事実を受け止め切れていないらしい。何となく想像は付くが、一応愛斗は彼女に訊いてみる。
「良かったら、誰の仕業か教えてくれないかな?」
「えっと……。」
戸井は明らかに言い淀んでいた。余程信じられない相手だったのだろう。だが、事情を知っているのはもう一人の女子も同じだった。
「私にも心当たりはあるよ。というか、つい先刻まで一緒に居たからね。間違いなくあいつらだろう。」
将屋杏樹もまた、この部屋にいた場違いな二人の事を知っていた。
「あいつら、確かに華藏生だった。何やらうちのチームと手を組んで悪さをしようとしている風だったね。アンタも気を付けた方が良いかも知れない。うちの鐵は自分を頭が良いと思ってるだけの莫迦だから単純な狙いしか無いだろうけど、あいつらは何を企んでいるか分かったもんじゃなかったからね。」
愛斗は将屋の言葉に息を呑んだ。何気に重要な情報として、彼女は今回の一件に関わった華藏生を「あいつら」と呼び、複数居ることを示唆している。そして愛斗の考え通りなら、『闇の逝徒會』で動いているのは二人、元生徒會副會長の基浪計、元会計の砂社日和である。
「戸井、後で話がある。」
愛斗は意を決した。既に巻き込んでしまった以上、戸井にはある程度の事情を知る権利があるだろう。敵を知らなければ、また彼女の身に危険が迫った時に不用意な対処をしてしまうかも知れない。
「真里、でも……。」
「君が言いたくないならそれでもいい。ただそうじゃなくて、僕が君に話さなければならない事があるんだ。」
戸井は目を瞠り、愛斗の顔を凝視していた。いつもと違う極めて深刻な眼差しに何か思う所があるのだろうか。
その時、校舎が大きく揺れた。丁度、仁観による鐵への本格的な拷問、圧倒的な暴威が振るわれ始めた所だった。
愛斗は驚いてそっと部屋の扉を僅かに開け、隙間から外の様子を覗き込んだ。
「えっぐ……。仁観先輩、怖……。」
「その言葉……。鐵の奴は相当悲惨な目に遭っている様だね。ま、自業自得か……。」
将屋は矢張り鐵の所業を快く思っていない様で、彼女もまた呆れてチームのナンバー2を助ける気は無いようだ、
斯くして、仁観の圧倒的暴力の恐怖にドン引きした愛斗は、憑子の意向もあって愈々となるまで生徒會室の中でこっそりと機を窺っていたのだった。
***
華藏學園と假藏學園、現状で何より重要なのは、二つの學園が繋がっているのは互いの祠を通じてのみではないという事である。二つの學園は夫々の教室と教室が空間を捻じ曲げて融合しており、愛斗が築き上げたバリケードが無ければ簡単に行き来できる状態にある。
即ち、愛斗と仁観、そして戸井の現状は華藏學園を、と言うよりも単に二年の校舎を離れたと言った方が正しい。
そして、時を同じくして逆に三年の校舎から離れた二人の華藏生が居た事も忘れてはならない。
「良い囮になったね、鐵會長は。」
「フン、會長と呼ぶのも憚られる愚か者だがな。」
假藏學園の二年の校舎、その廊下を華藏學園生徒會副會長・基浪計と会計・砂社日和が涼しげな表情で歩いていた。それはとても、不良達に怯える華藏の優等生には見えない立ち姿だった。
そんな二人の背後から一人の大男が近付く。
「応、てめえら。」
「ん?」
見るからに強そうな不良に声を掛けられ、基浪と砂社は煩わしそうな表情で振り向く。
「こんな所で華藏生が何してやがる?」
「君は確か……。」
「紫風呂君だよ、基浪君。真里と仲良く海山を追い詰めた。」
砂社から自分の名前、更には先週の覚醒剤事件の顛末まで知っていると聞かされた二年生の大物不良・紫風呂来羽は警戒心を強め、眉間に皺を寄せた。
「てめえら、唯の坊ちゃん嬢ちゃんじゃねえな? 何者だ?」
紫風呂の質問に、基浪と砂社は不気味な笑みを浮かべた。
「簡単に答えるなら、『闇の逝徒會』。」
「二つの學園を支配する偉大なる御方の使者、と言えば良いかな?」
どういう事だ、と問い直す前に二人から紫の闇が溢れ出し、それはあっという間に紫風呂を包み込んだ。
「かっ⁉ まさかてめえら、あの聖護院とかいう奴の……。」
「知る必要は無い。君は唯、我々の言う通りにすれば良い。」
「一寸さ、君の軍団を使って殺して欲しい奴が居るんだよね。」
紫風呂を包む闇は四方八方に飛び散り、何かを探す様に廊下の奥へとあっという間に消えていった。残された紫風呂は虚ろな表情に目だけを爛々と耀かせる異様な顔貌を浮かべていた。それはまるで、自分の意思を何処かに置き忘れたかの如き様相だった。
「君が先日仲良くしていた真里愛斗、あいつを殺せ。」
「マリマナト……コロス……。」
「君は大物だから舎弟も多いって鐵君から聞いてるよ。そいつらを使って、バリケードを破っちゃいな。」
「ワカッタ……。」
基浪と砂社の恐ろしい命令を、紫風呂は表情一つ変えないままで頷いて受諾した。自分の良心、愛斗との絆を完全に見失ったかの様に、焦点の合わない眼で紫風呂は踵を返すと、そのまま二人の前から立ち去って行った。
「これで良し、と……。」
「真里君はお人好しだから、紫風呂君は打って付けの相手だね。」
戸井の拉致騒動の間に、『闇の逝徒會』は邪悪な企みを進めていた。
***
仁観と合流した愛斗は、戸井を連れてさっさと華藏學園、自らの教室へ戻ろうと考えていた。
既に来た事がある自分や人並み外れて喧嘩に強い仁観は兎も角、唯の女子生徒に過ぎない戸井を危険な假藏學園に留めておく事は明らかに避けるべきだろう。そこは仁観も論を俟たずに同意していた。
「戸井ちゃん、正直俺は御両親に連絡して一旦學園から離れた方が良いと思う。」
仁観の口から出た意外な程常識的な発言に、愛斗も戸井も跳び上がるほど驚いた。
「先輩⁉ 鐵との喧嘩で頭でも打ったんですか⁉」
「自覚が無くても何かあるかも知れないので病院に行っといた方が良いですよ⁉」
余りの言い草に仁観は眉間に皺を寄せ、少し不機嫌な表情を浮かべるが、普段の行いを鑑みれば身から出た錆だろう。
『真里君、この男の性質が悪い所は、全く常識を知らないから非常識なのではなくて、常識を知った上で非常識に振舞っているという事なのよ。』
憑子による人物評も、要するに故意犯であるという事であり、悪印象の擁護というよりも補強である。
だが、それはそうとして彼等が皆驚く程度には常識的な意見ではあるので、それ自体には誰も異論を挟まなかった。
「はあ、お母さんに何て言おう……。」
「そうだね……。」
難しい問題だった。寮生活をしている戸井の家族は、恐らく現在の學園の状況を知らないし、説明しようにも前提が異常過ぎて信じて貰えないだろう。
ならばただ危険な目に遭った事実だけ背景を暈した儘伝えるしか無いが、そうなると彼女の家族は間違いなく學園に責任を追及するし、した所で學園には対応不可能なので、転校の手続きを始める可能性が極めて高い。それは戸井にとって避けたい事態だった。
「私、華藏學園が大好きだったのにな……。」
戸井の本心、それは愛斗も薄々感じていた事だった。唯真面目な優等生であるというだけで、毎朝誰よりも早く登校するという行動は説明が付かないだろう。そんな彼女の胸中を思うと、愛斗はこう言わずにはいられなかった。
「まだ何も決まったわけじゃない。少なくとも、學園が元に戻れば今回みたいな事が起きる可能性は限り無く零に近付くだろう?」
その為に自分はずっと行動している、彼はそれを彼女に伝えたかった。
「でも、元に戻る展望はあるの……?」
「戸井、これは持論だけど……。」
愛斗は強い視線で戸井の眼を見て言い聞かせる。
「何かをやりたい時、やらなきゃいけない時、その何かは大抵『不可能の皮』を被っているんだ。それに怖気付かず、剥ごうと手を伸ばす者だけに未来は掴めると思うんだ。だから僕は行動する。或る人にそう教わった様な気がするから。」
嘗て愛斗は華藏月子に憧れ、生徒會役員に立候補した。それは自他ともに認める無謀な試みで、実際選出されてからは異常なストレス環境下に置かれ、何度も逃げ出したいと思った。だが今、彼を突き動かしているのは紛れも無くその役員としての自負だった。
『真里君、結構格好良いじゃない。』
憑子は感心した様に呟いた。會長として鼻高々、といった心境だろうか。
だが、戸井の心を開くには至らない。
「真里、それは貴方が生徒會役員だから言ってる?」
彼女の心には一つの靄が掛かっていた。それは愛斗の言葉を受け容れるには大きな障害であった。
「私、真里の事を信じて良いの?」
「信じて欲しいから、裏切りたくない、そう思って動いているよ。だから来た。」
煮え切らない戸井の態度に、憑子は一つの推論を下した。
『彼女の不信感も已むを得ないわね……。』
彼女はほぼ確信していた。
『真里君、恐らく彼女を攫ったのはあの二人ね、これは確定でしょうね。』
「闇の逝徒會……。」
愛斗が憑子の推察に思わず呟いた言葉に、戸井は目を瞠った。それは愛斗にとっても粗答え合わせだった。
「戸井、やっぱり率直に訊くよ。戸井を攫ったのは基浪先輩と砂社先輩じゃないか?」
「え……?」
「おいおい、どういう事だよ、愛斗君?」
戸井だけではなく仁観も驚いた様子で愛斗を問い詰める。
愛斗は考える。
先ず、憑子の言う様に、協力者は絶対に必要だ。そしてその為には、事情を隠した儘ではいられない。又、多少妄想染みて信じられない様な話でも、現状が既に常軌を逸しているのだから呑み込んで貰うしかない。
「戸井、仁観先輩、折り入ってお話があります。」
愛斗が意を決した、その時だった。彼のポケットの中でスマホが振動し、着信を伝えた。通常のカリキュラムだと、今は授業中の筈だから、普通は知人から電話など掛かって来る筈が無い。
「西邑……?」
愛斗は発信元の表示を見て驚いた。華藏學園の生徒は通常、緊急を要する時を除いてスマホの使用を許されていない。
何かあったのか。――不穏な予感を覚えずにはいられなかった。
「もしもし?」
『真里! 戸井はどうなった?』
「何とか助け出したよ。今から戻るところだ。」
『駄目だ‼ 今教室に戻って来るな‼ 假藏生が攻めて来て暴れてる‼』
突然の報せに、愛斗だけでなく戸井と仁観にも動揺が走った。假藏へ乗り込む際、愛斗のクラスと繋がった假藏のクラスで一悶着あった事に対する報復だろうか。
「西邑、一体どういう事なんだ⁉」
『解らない! 何やら假藏生の様子がおかしい! まるで正気を失っているかの様だ‼』
どうやら事態は想像以上に危険な展開を迎えた様だ。
愛斗を始末する為に、『闇の逝徒會』が極めて強引な手段で學園に混乱を齎していた。




