第二十八話 逆鱗弄撫
正しい者に従うのは、正しい事であり、最も強い者に従うのは、必然の事である。
――ブレーズ・パスカル『パンセ』より。
假藏學園、生徒會室の扉で、倒れ伏す假藏の不良達の中で二人の男が向き合っている。
と言っても、一人は華藏學園の女子用制服をスケバン風に身に纏う装いをしているので、傍目には男が女に襲い掛かろうとしている様にしか見えないだろう。
更に、顔面に幾何学模様の刺青を施した男は懐に手を入れ、何やら得物を取り出した。この上で武器まで使用するなど、男の風上にも置けないとの誹りを免れ得ないだろうが、それ程までに警戒するに足る理由が二人の間にはあった。
「俺は莫迦共とは違う。何も素手の喧嘩に拘りはしない。」
鐵自由は目の前の女装男子・仁観嵐十郎を決して侮らない。侮れる筈が無い。目の前のこと男によって、自身が表面上服従している『弥勒狭野』のトップ・爆岡義裕は今も病院から出て来られないのだ。
呆れた眼で自身を見る仁観の冷たい視線を意に介さず、得意気に語り続ける。
「だが、かと言って考えも無しに武器を選んだりもしない。飛び道具には使用回数に限りがあるし、長物は小回りが利かずこの様な狭所での戦いには適さない。又、刃物は殺傷能力こそ強力だが、反面相手に奪われれば一気に此方が不利となる。」
そういう彼が選んだ武器は、短剣の備わった拳鍔だった。鐵が嗜虐的な笑みを浮かべつつ、それを両手に嵌める。
「逆に言えば、奪われない構造さえあれば良いという事。そこで選んだのがこの溝刀だ。絶妙なのはこの刃渡りでな。仮に折れて相手の手に渡ったとしても短過ぎて脅威にならんし、こちらには依然として通常の拳鍔が残され、武装解除される事は無い。」
鐵は恐るべき武器を装着した拳で仁観に殴りかかった。備え付きの刃には頼らず、飽くまで拳鍔として使用するのが彼の戦法である。
「しかも俺の場合、素手でも充分強い奴が更に武器を使うんだ! 分かり易い殺傷力を持つ刃に恃みを置く様な雑魚とは一味も二味も違うぞ‼」
猛攻を仕掛ける鐵だが、仁観は涼しい顔で悉くを捌く。とは言え、流石に頑丈な彼でも流石に受ける訳には行かない様だ。
拳鍔が主に使われる海の向こうの裏社会では、専ら隠し持つ為に或る機能を切除するという改悪が施されており、それがこの武器に於いて一般的に想起される形を成している。だが機能性を重視する鐵はそれをしておらず、正規品の性能を遺憾無く発揮する。
拳鍔の武器としての要点とは、拳が相手に与えるダメージを金属突起で増幅させ、逆に拳が受ける反動は衝撃吸収機構で和らげる所にある。これに拠り、鐵は素手以上に拳への負担を気にせず暴威を振り回す事が出来る。隠し持つ為にはこの衝撃吸収が切除されるが、鐵はその様な愚を犯していないのだ。
「ははははは‼ 怖いか仁観! 恐ろしいか‼ 迂闊に飛び込めまい! 拳だと思って避け損なったらパックリと肉が裂けるんだからな‼」
「そうでもないぜ?」
仁観は鐵が繰り出す両の拳を捌き、決定的な隙にその剛腕を振るう。しかし、鐵は咄嗟に状態を大きく反らして仁観の鉄拳を躱した。
「忘れた様だな! この俺の強さは攻撃よりも寧ろ防御! 打撃技で俺を捉えることが出来るのは爆岡の奴だけだ‼」
実際、これまで鐵にダメージを与えてきたのは全て相手が手を出してきた所を上手く掴み掛かっての投げ技のみで、彼は一度として打擲を受けていない。仁観は足元への蹴りを試みるが、長いスカートで出足が隠れているにも拘らず、鐵に跳び上がって回避されてしまった。
そのまま、逆に鐵の方が跳び蹴りを繰り出す。だがこれは悪手、いや悪足だった。
「やっぱ莫迦だな、お前。二秒前に自分で言った事も忘れる鳥頭だ。」
仁観は鐵の足首を掴んでいた。そう、逆に投げ技ならば鐵にも通用する。加えて、厄介な武器も脚には何ら装着されていない。そのまま勢いに任せ、仁観は鐵の脚で背負い投げを敢行し、背中を床に叩きつけた。
「ぐぁッ‼」
鐵は苦痛に顔を歪めたが、即座に仁観の手を振り払い、後ろに転がって距離を取りつつ立ち上がった。そして再び、刃の付いた拳を構える。その表情には勝ち誇った笑みが湛えられていた。
「大した威力じゃなかったな、仁観。昨日喰らったチビの投げの方が余程効いたぜ。若しかして、入院している間に鈍っちまったんじゃねえか?」
「確かにそれはあるかもな。だが、普通に手加減してやっただけなんだよな。」
仁観が何故本気で鐵を床に打ち付けなかったか、鐵には簡単に察することが出来る。それは彼の狙いの一つだからだ。
「ククク、そりゃ加減するしかねえよな? 何せ未だに人質はこっちの手の中に在る。万が一俺が眠っちまったら、お前等は假藏學園中、いや街中を探し回らなきゃならない。監禁場所を俺から聞く為には、俺の事を打ちのめす訳には行かねえんだ。」
余りにも卑劣な男、鐵自由。その策略によって作り出された状況は仁観にとって極めて不利なものだった。
勝つ訳には行かない。――それは一見、鐵にとって完璧な戦術の筈だった。
「鐵、何度も言うがお前って本っ当にどうしようもねえ莫迦だな。」
「な、何だと⁉ この状況で頭がおかしくなったか?」
嘲ら笑う鐵だったが、次の瞬間、仁観は強烈な眼光で鐵を睨み付け、凄まじい迄の圧力を放つ。どれ程鐵が手練れだとは言っても、思わず気圧されずには入れれない圧倒的な畏れを打ち撒けていた。
「頭がおかしくなった……か。半分は当たっているな。だが、それはお前が思っている様な理由じゃない。俺はな……。」
仁観の鉄拳が何の捻りも無くストレートに鐵の顔面に向かって飛んで行く。
鐵にとって、最も得意とする回避で往なすだけ。――一瞬そう思われた。
だが、鐵は身動き一つ取れずに仁観の拳を真面に顔面へ浴びた。
「ぐぱぁッッ⁉」
「はっきり言って俺はてめえのした事に矛火着きまくってる。頭がおかしくなっているとしたら怒りでだ。そしてもう一つ、お前が糞莫迦なのは……。」
更にもう一発、今度は鐵の鳩尾に重いボディブローが炸裂した。鐵が堪らず上半身を丸くしたところに、脳天への肘打ちが追撃し、彼は床に膝を突いた。
「ガッ⁉」
「自分が敗けさせて貰えない状況を自分で作っちまった事だ。今から俺はお前を徹底的に痛め付ける。彼女の監禁場所を吐くまでな。お前が莫迦な作戦を採っちまった時から、これは喧嘩じゃなくて拷問に変わっていたんだぜ?」
そう、実は一撃必殺の身体能力を持つ仁観を相手にした場合、手加減される方が却って苦しむ羽目になる。鐵は策に溺れ、自らの首を絞める道を行き詰まってしまったのだ。
「何故……何故躱せない……?」
「ああ、簡単な事だ。元々てめえみてえな鈍間に食らわせる事なんて朝飯前なだけだよ。ただ、これからやらなきゃいけねえのは拷問だからよ。あんまり速度があり過ぎると衝撃も大きくなってあっさり気絶させちまうだろ? そうならない様に態とゆっくり目の攻撃から試してたんだ。丁度良い具合の速さをな。」
抑も、喧嘩の実力が仁観と鐵では開き過ぎている、という冷酷な現実が二人の間に横たわっていた。不良としての能力が高い者は大抵、こういう場合にそれを逸早く察する感性がある。そう言う意味で、武器を持つ程度の優位を恃みにある種の蛮勇を振るってしまう鐵は本質的に矢張り愚か者であった。
「舐めやがって……! この俺がされるが儘になるとでも思っているのか?」
鐵は立ち上がり様に溝刀を仁観の顎に向けて振るったが、仁観はこれに拳を合わせて衝突させた。驚くべき事に、武器の力を借りた鐵の方が威力負けして拳鍔が人差し指と中指の間で破断してしまった。
「な、何ィィッッ⁉」
「多分指も折れただろ。腫れてきて抜けなくなる前にサービスしといてやるよ。」
仁観はそう言うと小指側に備わった溝刀を蹴り折り、更に三発の蹴りを目にも留まらぬ速さで叩き込んで彼の武器の一つを粉々にしてしまった。同時に、恐らくは装着していた鐵の手の骨も粉々になっているだろう。
「クッソ……糞があああああっっ‼」
鐵は痛みと怒りからか両目を血走らせながらもう一方の腕を振り被る。だが今度は拳を繰り出す前に仁観に二の腕を掴まれてしまった。
「無駄な事だって解らねえかな? 解らねえか、莫迦だから。ま、こっちはちゃんと物騒なもん外せる様に壊してやるよ。」
仁観はほんの少し鐵の二の腕を握り締めた。同時に、軽い音が鐵の腕から鳴った。
「ギャアアアアアッッ‼ 腕が折れっっ⁉ ゴリラかてめえはアアアッッ‼」
力の抜けた鐵の手から溝刀が零れ落ちて廊下にけたたましい金属音を鳴らしながら跳ねた。空かさず、仁観は鐵の髪を掴んで顔面を壁に叩き付ける。まるで大砲の様な音が周囲の音を掻き消し、校舎自体が地震でも来たかの様に大きく揺れた。
「が……ぺ……っっ‼」
鐵は白目を剥き、血塗れの顔を愕々と痙攣させていた。
「今度は廊下でも嘗めるか? 生徒會長なんだから、自ら率先して學園の美化にでも努めろや。」
「ヒッ⁉」
再び鐵の顔面はコンクリートに打ち付けられた。しかも今度は床を何度も何度も鳴ら破目に陥っていた。その度に、校舎は砲撃でも受けたかのように何度も揺れる。
「あーあー、血で余計に汚れちまったなあ……。」
「も、もう止め……。」
「お前が始めた事だろうが。違うか?」
今度は先程とは反対側の壁に鐵の顔面が叩き付けられた。口振りこそ静かだが、その容赦のない暴力が仁観の怒りを証明していた。流石の鐵もそれに気付かない程愚かではない。
「わ、解った……‼ 俺の敗けだ! 許してくれ‼」
「そうじゃねえよ。謝る相手は俺じゃねえし、その前に言わなきゃならねえことがあるだろうが。」
余りにも凄まじい暴行で忘れそうになるが、これは飽くまで鐵に戸井宝乃の監禁場所を吐かせる為の拷問である。故に仁観はこれでもまだ手加減している方であり、逆に耐えられる鐵の耐久力も相当なのだ。
「言う……! あの女の居場所を言うから……‼」
「よーし、嘘吐くんじゃねえぞ?」
遂に鐵も観念した様だ。しかし、彼は戸井の居場所を配下の女子・将屋杏樹が動かしていないという事を知らない。このままでは居もしない場所を仁観に告げ、更なる怒りを買ってしまうだろう。
それに待ったを掛けたのは、生徒會室から出て来た三人の男女だった。
「仁観先輩!」
タイミングを見計らったように現れたのは件の人質・戸井宝乃を伴った真里愛斗と、彼女を連れて行く様に鐵から命じられていた假藏の女子・将屋杏樹だった。
「何だ、愛斗君。戸井ちゃんはそこに居たのかよ。早く出て来れば良かったのに……。」
仁観は先程までの冷徹な拷問者の表情からは打って変わって無邪気な笑みを咲かせた。間違いなく戸井の無事を喜んでいるのだが、返り血を浴びた中で笑う彼は却って三人を引かせていた。
「まあ確かに彼女の御蔭で戸井にはすぐ会えたんですが、一寸考えが有って今まで扉越しに様子を窺ってました。で、流石にこれ以上は拙いかなと思ったんで出て来たんですよ。」
愛斗に指を差された将屋は鐵の無残な姿から目を逸らす様に外方を向いた。そんな彼女を、鐵は憎々し気に問い質す。
「どういう事だ? 俺はその女を移動させろと言った筈だが?」
「私なりの保険だよ。アンタの交渉が成功するとは限らないし、戦いになったら確実に勝てると言い切れる相手でもない。だったらいざという時にさっさと止める手段は持っておかなきゃと思って、私の判断で移動を保留してた。」
「成程。鐵、お前なんかより余程賢い女だな。」
仁観は将屋をじっと見詰めていた。その態度から、彼女の言葉以上の思惑を何か察している様だった。
「お、おい仁観……。もう目的は達しただろ? 早くその手を放してくれよ。」
鐵の弱々しい、しかし身勝手な物言いに仁観は顔を顰めた。
「ああ、解ったよ……。」
随分話が早いと、鐵の表情が緩んだその瞬間、鐵の顔面は再び勢い良く廊下に叩き付けられた。今までで一番大きな揺れが校舎を暫く包み、鐵は伸びて失禁してしまっていた。
仁観は言葉通りに鐵を解放すると、立ち上がって汚らわしいと言わん許りに手を叩いた。
「扨て、じゃ帰るか。」
「はい。」
斯くして、戸井の拉致事件は一件落着となった、かに思われた。
しかし、これは華藏と假藏、両學園を襲う融合以来最大の事件、そのほんの始まりに過ぎない等とは、この時未だ誰も思いもしなかった。




