第二十五話 華藏騒然
『伝統と革新の二つを一つに。』
『先人の偉業を誇り、猶且つ出藍の誉たるべし。』
『来た道を忘れる勿れ、行く道を恐れる勿れ。』
――私立華藏學園・學園訓
翌日、火曜日。真里愛斗のクラスの優等生女子・戸井宝乃の朝はこの日も早かった。
寮生の彼女は、校門が開くとほぼ同時に登校する。そして、一通り授業を受けた後は書道部の活動に誰よりも熱心に取り組み、部員達の中で最後に部屋へと戻る。つまり、彼女は一日の内可能な限り長い時間を學園内で過ごすのだ。
戸井宝乃は華藏學園での生活が好きだった。学友達の噂話を色々と集めるのは、その母校愛が高じて學園の現状について幅広く情報を集めようとしているが所以である。
そう、戸井は華藏學園を愛していた。愛していたのだ。
彼女は職員室で教室の鍵を受け取り、一番乗りで前の扉を開けた。目に飛び込んでくるのは、机を積み上げて作られた二つの學園の教室を隔てるバリケードである。本来、そこには窓があり、爽やかな朝陽が差し込んで来る筈だった。
戸井は溜息を吐き、なるべくバリケードの向こうにある汚された学び舎に目を向けないようにしながら教室の後へ行き、もう一つの扉の鍵を開けた。そして自身の席へ向かったのだが、その時黒板の上に掲げられた學園訓が嫌でも目に入る。
『伝統と革新の二つを一つに。』
『先人の偉業を誇り、猶且つ出藍の誉たるべし。』
『来た道を忘れる勿れ、行く道を恐れる勿れ。』
特に最後の標語が戸井の胸に突き刺さった。
来た道、素晴らしかった一年の學園生活を忘れる筈が無い。豊かな自然と充実した施設に囲まれた美しい学び舎、学業は勿論の事、様々な才能に優れた未来の社会を担う級友達と切磋琢磨する日々は掛け替えの無いものだった。
対して、行く道は暗澹たるものである。愛したものは悉く假藏學園の不良達に踏み躙られた。
胸に咲き誇る支えとなっていた學園訓が、今では痞えとなって彼女を苦しめている。好きな評語だったが、先週を境に暗闇に迷い込んだ彼女の心を導くには力不足だった。
「もう止めようかな……。この時間に登校するの……。」
思わず呟かずにはいられなかった。先週起きた、二つの學園の融合という超常現象は人知れず彼女の青春を穢し、心を蝕んでいたのだ。
とは言え、真面目な優等生の彼女はこの日も予習を欠かさない。教科書を一つ一つ机の上に出し、一日の授業内容に予め目を通していく。
「真里……西邑……。早く来ないかな……。」
二度目の溜息と呟き。以前は苦でなかった孤独な教室が、この所寂しく思える。いつの間にか、友人の存在が彼女の支えになっていたのだろうか。
しかし、そんな彼女の元にやって来たのは、予期せぬ二人の部外者だった。
「おはよう。戸井さん、だったかな?」
「聞いていた通り、朝早くから関心ねえ。」
いつの間にか教室に入り、戸井の机の向こう側に立っていたのは、そこに居る筈の無い三年の華藏生二人だった。
「も、基浪副會長……。砂社先輩……。どうして二年の教室に?」
三年生、生徒會副會長・基浪計、会計・砂社日和。二人とも、本来戸井にとって尊敬すべき先輩である。しかし、今彼女が困惑し瞠目しているのは、二人に対して得体の知れない不気味さを覚えていたからだ。
そんな彼女の心境を意に介す様子も無く、二人は続ける。
「我々は真里と同じ生徒會役員だ。彼のクラスは把握している。」
「勿論、その交友関係もね。」
妖しげな笑みを浮かべ、要領の得ない返事を返す二人に戸井は恐怖を覚えた。
「だから何なんですか? 真里君の事と私に何の関係があって、貴方達二人は私をどうしようと言うんですか?」
「勘違いして欲しくないのだが、俺達は友人の遣いとしてやって来た。だから君をどうこうするのは俺達じゃないし、君に興味も無い。」
「黙って見てろ、とか言ってた癖に、舌の根も乾かない内に私達を使い走りにはするなんて自分の言動に矛盾は感じないのかなあの男は……。」
明らかに不穏な香りのする二人の言葉に、戸井の本能は逃走を選択した。しかし、元々運動が得意ではない彼女は慣れない突発的な避難行動を上手く取れず、椅子から転げ落ちてしまった。
「無駄だ。今の俺達からは何人たりとも逃げられん。それは闇夜の訪れから逃れようとするが如き徒労だ。」
「さあ、一緒に假藏學園との親交を深めに行きましょう? 昨日華藏側に袖にされた鐵君が今度こそはと張り切っているから。」
机の間に倒れた戸井は基浪と砂社に挟まれ、逃げ道を完全に塞がれてしまった。
そして耳聡い彼女は砂社が出した『鐵』、即ち鐵自由という名前がどういった人物のものなのか既に把握している。假藏學園の不良と縁が無く、且つ愛する母校への侵略者という印象が極めて強い彼女にとってそれは絶望的な恐怖だった。
「だ、誰か‼ 助けて‼」
「誰か、って……。君は教室に一番乗りしたんだろう?」
「正直者が莫迦を見る。後輩生徒の真面目さが仇となってしまうのは生徒會役員として少し心苦しいかも知れないなあ。」
「フン、心にも無い事を……。」
「建前って大事なんだよ?」
戸井の小さな体に『闇の逝徒會』の魔の手が伸びる。
その後、特に怪しい人物が出入りしたという目撃情報は何処からも出なかったが、三人は忽然と姿を消し、鍵が開いているにも拘らず愛斗の教室は蛻の殻となった。
ただ一つ、戸井の机に不穏極まりない痕跡を残して。
☾☾☾
今日も今日とて、華藏學園のスクールバスは碁盤目状の街並みを北上する。普段通り、真里愛斗が登校の為に乗車していた。
だが、彼の隣にはまたしても例の珍客が坐っていた。
「いやー昨日の繰り返しになるがバスの通学は楽チンだな、愛斗君。お陰で頭に浮かんだメロディをメモっとく事すら出来ちまう。単車に乗ってちゃ絶対に出来ないもんな。もっと早くこうしてれば良かったぜ。」
朝から何一つ遠慮する様子も見せず話し掛けてくるのはやはりこの男、仁観嵐十郎である。相変わらず長い金髪にウェーブを掛け、ゴテゴテに化粧し、長いスカートに改造した女子用の制服に身を包むスケバンスタイルをバッチリと決めている。
「仁観先輩、朝一のバスで登校するんじゃなかったんですか?」
「まあ平たく言えば遅刻だな。気にすることねえよ、どうせあいつらにあれだけ脅されて猶検問張る様な度胸はねえから。」
偶々最初のバスに登校時間を設定していたから愛斗と同じバスに同乗出来たものの、これがもし通常の通学時間を目標にしていたとしたら大遅刻になっていたことを意味する。
窓に映る華藏月子の横顔が溜息を吐いた。
『この男が時間に異常な程ルーズなのはもう治りそうにないわね。真里君、仁観嵐十郎はこういう男だと割り切っておきなさい。』
時間を守らない人間は他人の事情を意に介さないエゴイストである、という様な言説を生前の華藏月子から聞いたことがある。当時愛斗は、「そう言う自分こそが誰よりも自己中心的な人間じゃないか。」と内心思ったものだが、今この仁観嵐十郎を目にして妙な納得感を覚えていた。要するに、上には上がいたのだ。
女子用の改造制服を直すつもりも無く、度を越して派手な化粧や華美な装飾をし、おまけに時間も守らない仁観は、当に非常識の擬人化の様な男だ。
だがふと愛斗は一つ彼の行動について気になる疑問が芽生えた。
「仁観先輩。」
「ん? 何だ、愛斗君?」
「そう言えば先輩は假藏で元華藏生が虐められていると聞いて向こうで暴れたり、昨日検問を張ろうとした假藏生に突っ掛かったり……まあ後者は僕が先にやり過ぎちゃいましたけど……、そういう華藏生に対する仲間意識みたいなのがある様に見えるんですけど。」
「見えるっつーか、あるよ。俺は華藏學園自体は好きだからな。」
仁観はそう答えると、胸ポケットから生徒手帳を取り出し、何処か嬉しそうに頁を捲った。
「ほら愛斗君、これ、分かるか?」
「學園訓……ですよね?」
華藏學園の生徒手帳には表紙の次に教室に掲げられているものと同じ標語、學園訓が載せられている。仁観はまるで亡くなった母親の遺言を愛おしむ娘の様にその一文一文を指でなぞる。
「この三つの柱、謂わんとしている事は全部同じだが、俺が生業にしようとしている音楽にも通じる所がある。」
「伝統と革新……ですか。失礼ですけど、先輩は古臭い事とかとことん壊そうとしているイメージがありますが……?」
「とんでもねえ! 先人の偉業に敬意を払わずして、新しい物なんか産み出せねえよ! それこそ音楽なんか、膨大な歴史の中で探求され、積み重ねられた美しい三要素の集合知の上に新しい試みが為されて来た歴史があるんだ!」
「三要素?」
「おいおい……。」
仁観は呆れた様に顔を顰めた。愛斗の頭の後ろ、窓の外からは憑子の溜息も聞こえる。
「音楽の三要素って言えば、旋律、律動、和声だろう?」
『真里君は音楽の授業、寝ていたのかしら?』
前後から同時に不勉強を詰られ、愛斗は肩を竦めて縮こまった。仁観は特に気にする様子も見せず、話を続ける。
「例えば人間の耳に心地よく聞こえる旋律を紡ぐ技法として対位法、音階がある。だがこれらは時代によって様相は変遷している。倍音を元にした純旋律からオクターブを十二等分する平均律へ、その中から全音と半音で並べられた七音階も、教会旋法から長短調に変容した。更には転調の在り方も楽曲の形式に拠るものから部分転調まで様々な発展を見せてきている。旋律一つとってもそこには先人たちの並々ならぬ研鑽や挑戦の歴史があるんだ。」
思いも掛けない仁観の音楽に関する造詣に愛斗は驚きを禁じ得なかった。顔を隠しての活動とはいえ、若くして世界中で動画の再生を得、幅広い支持を集めているだけあって、音楽に関する知識の探求には余念が無いらしい。
「音楽をやる上で、そう言った歴史の恩恵に与る事は必須の心掛けと言える。しかし、一方で最新の技術による発展も目覚ましい物がある。例えば音楽作品は作って世に出すまでに実に様々な工程が必要になる。作曲、編曲、録音、そしてミキシング及びマスタリングといった調整……。特にあとの二つは従来、音楽的素養を超えた別種の専門的知識が必要となり、一人で全てを手掛けるのは不可能に近かった。だが今は、それをある程度AI技術で補うことが出来る様になっている。音楽発表の可能性は、最新の技術によって飛躍的に高まっているんだ。」
取り纏めるに、仁観にとって「伝統と革新」の二つを一つに併せ学ぶという華藏學園の理念は共感に値する理由が確かにあるという事なのだろう。彼は彼なりに學園の在り方を愛しているのだ。
愛斗は規格外の先輩の意外な一面に認識を改めさせられつつ、學園へ向かうバスの一時を過ごした。
☾☾
教室へ辿り着いた愛斗は、自席とその前の戸井宝乃の席にクラスメートが群がっている光景を目の当たりにした。何があったのかと訝しんでいると、親友の西邑龍太郎が近寄って声を掛けて来た。
「来たか、真里君。おはよう。」
「おはよう、西邑。一体どうしたんだ? こんな朝から……。」
「見れば解る。」
西邑に手を引かれ、自席まで誘導された愛斗が見せられたのは置手紙だった。
『戸井宝乃は俺達が預かった。逝徒會・弥勒狭野。』
それは誘拐の犯行声明だった。戸井が攫われたのだ。
「逝徒會……!」
『どうやら仕掛けて来たという訳ね……。この弥勒狭野というのはよく解らないけれど……。』
クラスメートが拉致された、とあっては、教室の異様な雰囲気も納得である。愛斗は歯を食い縛り、手紙の文面を凝視する。
「戸井……! 無事なのか……?」
「解らないな。彼女を攫った理由も見えて来ない。」
西邑も又、唯でさえ鋭い目を一層険しくしていた。
と、その時彼等の頭上から声が聞こえた。
「理由ならはっきりしてるぜ!」
よく知っている声なので、愛斗と西邑は恐る恐る天井を見上げた。そこには脚の爪先でLED電燈の付け根を掴んでぶら下がる仁観嵐十郎の姿が在った。逆さづりの状態で髪と上着、そしてスカートが捲り下がっている。股間は手で抑えているが、派手なガーターベルトとTバック、そして生足を覗かせる網タイツが露わになっていた。
「仁観先輩、目のやり場に困ります……。」
「なんだよ、男同士なんだから照れることはねえだろ?」
「女子も居るんですよ……。」
「ああ、そりゃ失敬。よっ、と……!」
仁観は体を曲げ、脚の爪先を手の指に持ち替えて頭を上に姿勢を直すと、そのまま床に足から着地した。一々奇妙な登場の仕方をするエキセントリックさには愛斗だけでなく彼をよく知る西邑も辟易とした感情を露わにしていた。
「西邑?」
「悪い、私が呼んだ。流石に助けが必要だと思ってな。」
「まあその判断は正しいと思うけど……。」
実際、西邑に非は無いだろう。また、一々仁観の奇行に目く尻を立てている場合でもない。
仁観は愛斗から手紙を取り上げ、差出人の文面を指差した。
「この『弥勒狭野』ってのは假藏の不良グループでな。爆岡の奴をトップに据えている碌でもない奴等だ。つまり、今仕切ってるのは昨日愛斗君がぶっ倒した鐵自由って事。ま、つまりこれは奴等の仕返しだな。」
仁観の言葉に教室中が青褪めた。
昨日、下校時の顛末から教師に暴力を振るい、生徒から金銭を巻き上げ持たぬ者は傷付けるという『弥勒狭野』と鐵自由の危険性は周知されていたからだ。そんな連中の手に一人のか弱い女子生徒が落ちている。最悪の想像をせずには居られない。
そしてだからこそ、愛斗の決意は早かった。
「なら、戸井は假藏學園内に捕まっている可能性が高いって事ですよね?」
「真里君、まさか君は……!」
西邑は瞠目し、手を差し出して愛斗を掴もうとした様だったが、取り止めていた。愛斗の性格上、当然のそう出るだろう事は予想出来た筈だ。そして、だからこそ誰よりも頼れる先輩に助けを求めたのだ。
「よっしゃ、愛斗君! 一丁囚われの御姫様を一緒に助けに行くか‼」
仁観は指の関節を鳴らし、やる気満々である。
「着いて来てくれるんですか?」
「当たり前だろ? 俺だって無関係じゃねえし、どっち道許しちゃおけねえからな!」
斯くして、愛斗と仁観は二人で假藏學園に乗り込む事になった。




