第二話 私立華藏學園
Gaudeamus igitur, juvenes dum sumus, post jucundam juventutem, post molestan senectutem, nos habebit humus. (愉快に過ごそう、我等の青春を。朗らかなる若き日の後に煩わしき老いを経て、我等皆孰れ土に還るのだから。)
(中略)
Vivat academia, vivant professors, vivat membrum quodlibet, vivant membra quaelibet, Semper sint in flore! (アカデミア万歳、教授達万歳、全学友万歳、全学生達万歳、常に咲き誇り給え!)
――学生歌『ガウデアムス (Gaudeamus)』より。
碁盤目状の街を川沿いに北上し、山岳地帯に入るバスは十代の若人達や彼等を指導する教員達を乗せて走っていく。彼等がそれぞれの青春と朱夏を過ごす学び舎まで、乗車時間は駅から約四十分。その施設は市街地から離れた木立の奥、立地条件とは似つかわしくない真新しい白亜の校舎と広々とした運動場や体育館、ホール状の会館、食堂や図書館が入る厚生棟、更には寮まで兼ね備えた威風堂々とした姿で聳え立っていた。
私立華藏學園中学校・高等学校。
創立者は華藏鬼三郎という戦前の豪商であり、校門を通ったバスから降りて停留所から各学年の校舎へ向かうタイルの道の途中で彼の全身像が生徒や教諭を出迎える。
春爛漫の季節、新しい学校生活への希望に満ちた朝の登校風景の中、独り浮かない顔をして塗暮々々と歩いている小柄な男子生徒が一人居た。
学校指定の鞄を一際大事そうに抱えてふらつきながら歩く、中性的な顔立ちをした痩せた少年の名は真里愛斗。背丈を始めとした容貌は中学生と見紛う程だが、この春高等部二年生に進級している。
そして特筆すべきは、新二年生で唯一の生徒會役員であるという事だ。
つまり彼は、學園中から羨望の眼差しを受ける立場にある。理由は學園創立者一族の令嬢、その文武両道にして才色兼備の器量で男女問わず憧憬の的である新三年生、高等部生徒會長・華藏月子という存在に後輩達の中で唯一近付けるからだ。
しかしそれは遠巻きに見ている者が想像で憧れ、羨んでいるに過ぎない。明らかに寝不足と言った愛斗の顔色の悪さが彼の置かれた境遇、その一端を表している。
そんな愛斗に対し、追い打ちを掛ける様に背後から黄色い声援が挙がった。事態を察した彼は小動物の様に跳ね、虎穴の様子を窺う様に恐る恐る背後へ振り向いた。一般生徒が通学に利用するバスの停留所は駐車場も兼ねており、愛斗は自らが鬼より恐れる悪魔の様な人物が登校したのだと直ぐに察した。
彼の予想通り、歓声の中心で注目の的となっている高等部三年生の生徒會長・華藏月子の姿がそこには在った。學園創立者一族の令嬢たる彼女は、大人びた妖艶さの中に若干の少女性を残す整った顔立ち、長く真直ぐで錦糸の様に靡く艶めいた黒髪、長身且つ肉付きの良さと線の細さを併せ持つ抜群のスタイル等、これでもかという程「才媛」「美少女」「お嬢様」の属性を豪華盛にして百合の花の如き立ち振る舞いで歩いている。
「おはようございます、華藏先輩! 鞄お持ちしますよ!」
「おはよう、清田君。嬉しいけれど二年生とは校舎が違うから途中でお別れでしょう? お気遣いだけ有難く頂戴しておくわ。」
「おはようございます!」
「おはよう。貴女は三年生でしょう、春山さん? 態々敬語なんて使わず、友人として気軽に接してくれれば良いわ。」
その見目麗しさも然る事ながら、品行方正で人当たりも良い表向きの人格から彼女は男女を問わず學園中から圧倒的な人気を誇る。更には創業者一族の令嬢且つ両親の遺産を受け継いだ立場上、華藏學園のトップは學園長を差し置いて生徒會長の彼女であると言える歪な状況になっており、その決定には教師陣ですら逆らえない。そして誰もそこに不満を述べる事が無い、正に完璧な支配体制を敷いていた。
だが愛斗は知っている。學園の殆どの人間に対して秘匿されている彼女の悪魔の様な裏の顔を図らずも思い知らされている。月子の美貌と目が合った瞬間も、彼だけはその紅い眼に秘めた無言の脅迫を受け取ってしまう。
「おはようございます、會長。」
「おはよう、真里君。今日の定例会で見せて貰う企画書、楽しみにしておくわね。」
この日、放課後に開かれる生徒會の定例会では學園行事の執行や學園生活の改善について役員がそれぞれ企画書を會長・月子の目下に提出する予定となっている。愛斗が疲れている理由、気分が浮かない理由の全てはそこにあった。
(大丈夫だ、今回は……。徹夜して内容を練り上げたんだから、流石に通る筈……。)
愛斗は自分に言い聞かせ、去り行く月子の背中に一礼して二年生の校舎へ向かった。成果は定例会で月子の厳しい眼を掻い潜れるかどうかに掛かっているが、集まるのは放課後。つまり先ずは授業を乗り切る方が大切だ。
授業が始まると、愛斗はすぐに徹夜を後悔することになるが。
☾☾
教室、朦朧とした意識の下で一限目とホームルームをやり過ごしたものの、余りにも疲れ果てていた愛斗は教科書やノートを机に出すことも出来ずに爆睡してしまい、教師からこっ酷く怒られた。更には授業態度を問題視され、職員室まで呼び出しを喰らった。
戻ってきた愛斗に対し一人の男子生徒、西邑龍太郎が声を掛ける。長身で痩せた顔、眼鏡の影響で小さく見える鋭い目付きから愛斗を睨んでいる様にも見えるが、元からの顔付きであって敵意が有る訳ではない、と愛斗は理解している。
「大丈夫か?」
「そう見えるか、西邑?」
ぐったりと机に突っ伏し、尚も元気の無い愛斗の様子が全てを物語っていた。。
「生徒會活動に許り感けて勉学を疎かにするな、というのは尤もだと思うぞ。私とて、学生の本分を犠牲にしてまで作品を執筆している訳ではないからな。生徒會は部活動とは違うのかも知れないが。」
西邑は高校二年で華藏學園の文学部長であり、更に文学賞に小説を投稿し、佳作を取っている新進気鋭の若手作家である。この様に、華藏學園には様々な分野で突出した才能を持つ生徒が何名か居る。
「僕だって正論だと思うよ。でもそうも言ってられないんだよ……。本当、こればっかりは体験してみないと分からないと思うね。」
「それは……生徒會の活動の大変さ、か? それともあの會長の、か?」
西邑の言う通り、生徒會役員としての仕事を見る彼女の眼は大変に厳しい。曰く、生徒たちの第一人者として學園生活の充実、貴重な青春が掛かっているのだから当然、という事らしい。
勿論、その言葉通りならば愛斗も覚悟の上、特段に文句は無い。元々彼は月子の生徒として完璧な在り方に憧れ、少しでも近付きたくて、役に立ちたくて生徒會に入ったのだから。
「ノーコメントで……。」
「成程な……。」
愛斗の答えを聞き、西邑はそれ以上の詮索を止めた。愛斗は既に親友の彼に華藏月子という人物について彼が見た「実態」を話している。そして同時に、それは決して他言してはならないとも忠告していた。
「一応訊いておくが、生徒會役員は辞任出来た筈だが……?」
「制度上はね。でも、あの女の下を離れるなんて出来るわけないよ……。」
「……つまり本音では?」
「辞められるものなら辞めたい。軽い気持ちで立候補したのが間違いだった。」
西邑は親友の境遇に対し心からの憐れみの眼を向けていた。彼に出来るのはそれくらいのものだ。今この學園に愛斗を助けられる人物は誰も居ない。華藏學園に於いて華藏家の財産を恣にする華藏月子の口から出た言葉に逆らえる人物など誰も居はしないのだ。
西邑は掌で愛斗へ向ける視線を隠す様に眼鏡のずれを直した。
「まあ、あと半年どうにか耐えろ、としか言えんな。流石に九月の任期が切れれば華藏先輩も生徒會を去るだろう。それに、来年にはもう學園にすら居ない。」
「それまで見限られなきゃいいけどね……。」
「……今の華藏先輩には生徒や教師の進退や汎ゆる処罰を決める権限すらある、らしいな。一生徒にそこまでの権力が集中しているとは俄かには信じられん話だが……。」
「みんなその権力を正しく使っていると思っている、その信用があるから野放しにされているんだよね……。」
愛斗の話を聴く西邑はノートを開き、何やら書き込んでいる。
「何やってんの?」
「いや、華藏先輩は今書こうと思っている新作の人物造形に転用できる、興味深い為人だと思っていてな。」
「親友の不幸を作品のネタにするのかよ……。」
「創作者にはそういう者が結構居るものだぞ? 家が火事になって家族が焼死しても、揺らめく焔の実物が見られたと歓喜する画家とかな。」
「それは創作者の中でも人格に問題があるといわれる類の人種じゃないか?」
「君は私の性格を知った上で交友しているのだろう? 會長といい、性格に難が有る者にほとほと縁を持っている様だな。」
「自分で言うな。後、會長の事を余り悪く言うな、っていつも言ってるだろ?」
その時愛斗の言葉に何か思う処が有ったのか、西邑のペンが素早く動いた。彼は愛斗の言葉が単に華藏月子の悪口を大っぴらに言うリスクを忠告している訳ではない、という事を能く知っていた。
「成程、尚も彼女への心は変わらず、という事か……。熟々、興味深い。」
愛斗はムッとして突っ伏した顔を腕に隠した。
彼が月子に対して嘗て抱いた憧れ、そして尚も温め続けている慕情は他の生徒達とは質を異にする物である。
「当たり前だろう。抑も僕がこうしてお前と普通に話が出来るのも全部會長のお陰なんだから。」
「確かにな。当時の君を知らない私にどうこう言える事ではない。思い出のデリケートな部分に土足で踏み込むような真似だったかな。」
「ま、お前がそういう奴だって知ってるから別に良いけどな。今更だし。」
実は今、愛斗が在籍しているのは高等部から入学した者達のクラスだが、愛斗は中等部から在校している。これは通常在り得ない措置で、彼の組分けに関して特別な力が介入した事を意味する。
「あの女は二年前に僕を救ってくれたんだ。嫌いになんてなれる訳ないよ……。」
愛斗は中等部時代、同級生達から謂れの無い壮絶な虐めを受けていた。そんな愛斗を孤立させず親身に相談に乗り、主犯を突き止め、彼等を排除した上で傍観を決め込んだ中等部時代のクラスからも切り離した恩人こそが華藏月子だった。愛斗はこの件を切欠に月子に対して強い憧憬を抱き、少しでも近付き恩返しがしたいと一念発起して生徒會の役員に高等部一年生の身で立候補したのだ。
しかし、愛斗の現状から見て取れるように彼は今かなり無理をしてやっと生徒會のレベルに食らい付いている。その働きは決して彼女を満足させるものではない。そんな中で、彼は図らずも彼女の本性を知ってしまっていた。
(だけど今回は大丈夫だ。この企画書は一年生の頃から生徒達に入念に聴き込んだ上に今までの失敗から指摘された点を改善すべく検討に検討を重ねた。しかも内容がちゃんと伝わるように昨日徹夜で最後の推敲を重ねたんだから。これで少しは僕も生徒會の一員として會長に、月子先輩に認めて貰える筈……。)
愛斗はそんな事を思い乍ら残りの授業をどうにかやり過ごし、放課後の定例会に臨む。
☾☾
放課後、生徒會役員室で開かれる定例会、二区画に分けられた長机にはそれぞれ高等部と中等部の生徒會役員が席を並べ、最上位の上座に坐る會長の裁定を待つ。高等部の役員から提出された企画書は全て會長・華藏月子の目を通る。
華藏學園の生徒會は高等部と中等部の部会それぞれに分けられ、それぞれ會長を含め四名ずつの役員が居る。中等部の企画書は中等部生徒會長の目を通される為比較的通り易いが、高等部は學園の支配者たる彼女の厳しい審査が高い壁となって立ち塞がる。
高等部三名の企画書に目を通し終えた月子の露骨な溜息の音が部屋に響いた。
「副會長と会計は流石にギリギリ及第点といったところね。問題は書記よ、真里君。」
「は、はい?」
愛斗は自身を睨み付ける月子の眼に震えた。元々目付きの鋭い親友、西邑龍太郎よりも華藏月子の視線は余程恐ろしく思える。彼女はどうやら愛斗の企画書に不満らしい。
「僕の企画書、何処か拙かったでしょうか……。」
「まるでお話にならないわね。君、この半年間何をしてきたの?」
月子の白く細長い指は愛斗の企画書を勢い良く二つに破ると、その手でこれ見よがしに丸めて床に放り投げた。
「か、會長!」
「真里君、これは君が出した塵よ。君自身で拾って塵箱に捨てておきなさい。」
理不尽な彼女の仕打ちに、愛斗は強烈な居た堪れなさを覚えた。秘咀々々と交わされる囁き声が彼の心に追い打ちを掛けていた。
「それと、海山先生に聞いたのだけれど君、今日の授業に相当酷い態度で臨んだ様ね。まさかこんな塵を作るのに夜更かしした訳でもあるまいに、生徒會役員としての自覚に欠けるのではないかしら?」
愛斗には何も言い返せず、唯恥辱と恐怖に耐える他無かった。しかしそんな彼の態度すら、彼女は気に入らなかったようだ。
「何か答えたらどうなの。四方や忘れたわけではないでしょう。私には君の処遇を決める権限があるって事。生徒會役員の罷免は勿論、退学、更にはあの場所へ君を追いやる事だって出来るのよ。」
「あの場所……⁉ ま、まさか本当にそんなことが……⁉」
「おっと、これは公式の話ではなかったわね。つい口を滑らせてしまったわ。でも、噂は君も知っているんでしょう?」
華藏學園の生徒の間では退学以上に恐ろしい一つの処罰の噂が在った。華藏家が創立した学校は此処華藏學園の他にもう一つあり、名を假藏學園という。
その假藏學園は、名門として良家の子息が通う文武両道の進学校である華藏學園に対し、恐ろしく荒れた不良高校として名高かった。そして華藏學園には特に問題のある生徒に対し、この假藏學園に編入させる裏の処罰、平たく言えば楽園から修羅の国への追放があると噂されていた。
愛斗は今、愕然としていた。中高一貫クラスから高校入学のクラスへ彼を編入させる権力が月子の手中に有るという事は既に知っていた為、彼女の言葉はこの假藏學園送りが現実に存在し、その裁定さえ彼女の胸先三寸で決まるという事を証明していた。
怯える愛斗に対し、更に彼女は平然と続ける。
「でも、それも一興ではないかしら? 若し君が假藏學園に転校になったとしても、そこには昔のお友達だって通っているんですもの。」
愛斗は目の前が真っ暗になる思いだった。
「ま、とりあえず余り真里君を虐めるのは可哀想だからこれくらいにしておきましょうか。次の議題は連休中の合宿だけど……。あ、真里君は特にやる事も無いでしょうけど、一応出席しなさいね。」
生徒會は年に一度、五月頭に連休を利用して合宿を行い、企画書の内容を詰める事になっている。当然、企画書が通らなかった愛斗には無縁の話だ。
☾
しかし、この合宿で一つ大きな事件が起こる。愛斗には断片的な記憶しか無いが、惨劇の光景だけは目に焼き付いていた。
連休中、真里愛斗を除く生徒會の役員が全員、立ち入り禁止区域の祠の傍で死体となって彼の前に変わり果てた姿を晒す事になる。
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