第十九話 一つと二つ
自らを善き者と信じ、善き者たらんと努める人を善人と呼ぶ。
自らを悪しき者と信じ、悪しき者たるべからずと努める人を悪人とは呼ばない。
意思によって努めることこそ、人間の尊さである。
――或る古代人の回顧録より。
帰宅して夕食を採った真里愛斗は自分の部屋で白い靄が模った華藏月子の姿と対峙していた。
『私が常々言っている〝學園の闇〟それは偏に、學園が悪魔の様な存在に巣食われていて、今回の様な事件を超常的な力を利用して恒常的に起こしてきたという事よ。』
約束通り、憑子は愛斗にあの夜の目的を話し始めた。
『それは極めて邪悪な存在。面白半分に誰かの人生を狂わせる害悪。海山先生は恐らくその一端に触れ、道を踏み外した。若き才能として我が學園で育まなければならなかった将来有望な生徒達を巻き込んでね。良き學園生活を担保する為に、到底野放しにはしておけないでしょう?』
「それはまあ……確かに……。」
愛斗は覚醒剤事件の犯人、国語教師・海山富士雄が最期、異常な程自分に薬物を与えた者を恐れていた事を思い起こした。長年に亘りああいった事を繰り返してきた邪悪が學園に巣食っているとすれば、経営者たる華藏月子がそれを排除しようとするのも頷ける。それは預かっている生徒の安全に関わるし、又やり方によっては例えば卒業間近の生徒に近付いて悪の道に誘い、外の社会へ害を撒き散らす事にもなりかねない。
『私はいつかその悪魔を斃さなければならないと、異界と繋がっているという祠について予てより色々と調べていた。そして、學園の教師の中に私と同じ事をずっと調べていた人物がいることを知った。』
「若しかしてそれが……。」
『ええ、数学教師・聖護院嘉久。彼は祖父の稔久の代から三代続けて我が華藏學園の教職に就き、祠の力を監視していたらしいわ。その事を知った私は彼に接触、利害の一致から共に悪魔を滅ぼそうとしたのよ。それがあの夜、どういう訳かまた失敗してこの様なんだけれどね。』
「また?」
憑子は自嘲気味に笑って見せた。
「一度目があったんですか?」
『そうね。私とした事が二度も同じミスを繰り返し、取り返しの付かない事態を招いてしまった。詳しい事情は覚えていないけれど、余程杜撰な計画だったのね。そこは君にも犠牲になった役員たちにも申し訳無かったと思っているわ。』
「僕を巻き込んだ理由は何です?」
『一度目に失敗したのは、私と聖護院先生の二人だけで事を成そうとしたから。その時に失敗して、一度私とその悪魔を分離する行程が必要になった。その為に、もう一人分身体が必要だったのよ。』
「つまりその為に、僕の体だけ利用しようとしたというわけですか……。」
『嫌な言い方だけれども事実だから仕方ないわね。埋め合わせはしようと思っていたけれど、批難されても已む無しだと思っているわ。』
帰りのバスからそうだが、憑子の態度は珍しく随分と殊勝である。この件に関しては本当に愛斗に対して負い目を感じているのだろう。
「あの時、會長の体から出てきた白い靄がそれですか?」
『……一つになっていた二つのものを分離した、その結果があの夜君の見たものよ。異界と繋がっているというあの祠には、二つを一つにくっつけたり逆に分離したりする力があるの。そして聖護院先生は祖父の代かそれ以前からその力を操る知識を受け継いでいた。』
「二つの學園が繋がったのもその一端、ですか?」
『そういう事ね。恐らく、あの悪魔が一度姿を晦ますために假藏學園との関係性を利用して繋いだのよ。』
「それが判っていたから、僕に假藏と通じる道や祠について調べさせようとしていた、という訳ですか……。」
『その通り。』
愛斗には憑子の口調に少し違和感を覚えていた。と言うのも、持って回った言葉を弄する場合とはっきり断言する場合と二通りの答え方があるからだ。そこに、何処となく憑子の意図が隠されているような気がした。
「今の話を聞くと、聖護院先生は僕達の味方の様な気がしますけど……。」
『実際、味方よ。彼本人はね。』
「つまり、今日見た先生は別人が先生に成り済ましている存在だと?」
『まあ当たらずも遠からずといった所ね。彼の中に入っている者こそ、私が悪魔と呼ぶ存在。つまりは敵の親玉よ。』
愛斗は小さく俯いて考え込んだ。
実のところ、愛斗は今日まで「學園の闇」をぼんやりとした捉え処の無い物だと感じていた。確かに華藏學園はあの夜以降様々な怪奇現象に見舞われているが、その背景には唯只管に不穏な何かが仄かに馨る様な、具体性の無い不気味さしか感じられなかった。
今、その正体が憑子によって断片的に言語化されていく。
それも相変わらず釈然としない所は多いが、唯一つだけ明確に変わった事がある。
「その『敵の親玉』が僕達の前にはっきりと姿を顕して接触してきた……。本格的な対立も時間の問題という事ですか……。」
『でしょうね。差し詰め、私達〝光の逝徒會〟と彼等〝闇の逝徒會〟の戦いになるわ。』
「光の勢力と闇の勢力の戦い、ですか……。何というか、その……。」
『分かっているわよ! 陰謀論めいて陳腐なことくらい! でも実際、眼に見えて厄介事が起きているんだから呼び方は些細な問題でしょう!』
白く霞がかった華藏月子が珍しく表情を赤らめた。これは彼女の生前にも見られなかった、大変貴重な絵だ。
ふと、愛斗は自分の中に言い様の無い衝動が沸き上がって来るのを感じた。考えてもみれば、ここ数日ずっと様々な事情から御無沙汰だった。健全な男子高校生にとって、想い人と二十四時間常時同伴している等という状況は一つの辛い我慢を強いられる。
(どうしよう……。會長とずっと一緒に居るとなると、抜く暇が全く無いぞ……。)
愛斗は居ても立ってもいられず、動きやすい服装に着替えて部屋から出て家の外へと飛び出した。走って体力を使い、煩悩を発散し、気を紛らわせようとしたのだ。
こうして、この日の二人の対話は終了した。休日、愛斗は別の約束を果たすべく、出かけなければならない。
☾☾☾
翌日、愛斗は電車に乗って遠出していた。ある男と出掛ける約束をしていたからだ。見慣れない土地の駅で降り、改札を出てそわそわしながら周囲を見渡す。小柄で中性的な容姿から、宛らいつ狩られてもおかしくない小動物の様だった。
「ま、愛斗君……! 本当に来てくれたんだな……?」
一人の巨漢がそんな愛斗におっかなびっくりと話し掛けてきた。假藏學園の不良の一人、紫風呂来羽である。前日、愛斗は彼に協力を願う条件として、二人で出かける約束をしていたのだ。
「そりゃ約束したからね。遊びにくらい行くでしょ。ただ、高校生として健全な場所に限るけど。」
「わ、解ってる! 愛斗君には絶対に迷惑は掛けない!」
数日前に不良を束ね、愛斗に襲い掛かって来たとは思えない変貌振りである。
『恋が人を変えたのね。このまま更生してくれれば目出度し目出度しじゃない?』
茶化す憑子に対し、愛斗は引き攣った苦笑いを浮かべるしかなかった。そんな愛斗に、紫風呂は何やらもじもじしながら懐に手を入れ、愛斗に差し出してきた。
「何これ……?」
「愛斗君、一生のお願いだ。今日は一日、これを持って俺を連れてくれないか?」
手渡されたそれをよく見ると、チェーンが紫風呂の首元に伸びている。それが首輪に繋がるリードだと気付いた時、愛斗の背中に凄まじい怖気が奔り抜けた。
「な、何やってるんだよ‼」
「何って、俺の心はもう愛斗君の物だからな。想いが通じないのは解っているが、せめて今日だけは俺の御主人様になって欲しいんだ。」
「平然と言うな! 嫌に決まってるだろ‼ 何が『絶対に迷惑は掛けない。』だ! 舌の根も乾かない内に変態プレイを要求するな‼」
愛斗が投げ付けたリードが紫風呂の顔に当たった。しかし、彼は恍惚とした表情で天を仰いでいる。
「ま、愛斗君に罵倒して貰えたぁ~! 堪らん‼」
「悦ぶな‼ もう嫌だ既に帰りたい‼」
愛斗は頭を抱えて嘆いた。軽はずみに約束などしてしまった事を心底から後悔していた。
『いいじゃない、ペットにしてあげれば。従順に懐いてくる男って可愛いものよ? 多少我が儘を言っても喜んで聴いてくれるしね。』
「冗談じゃありませんよ。それと、貴女が普段どういう目で僕を見ていたか能く解りました。」
無責任な事を言う憑子に愛斗は思わずツッコんだ。しかし、憑子は尚も、予想外の方向で紫風呂に手を焼く愛斗の事を茶化してくる。
『何なら抱いてあげれば? 彼も屹度悦ぶし、君も溜まっているものを処理出来てWin‐Winでしょ?』
「なっ……⁉」
突然の指摘に愛斗は思わず赤面した。彼女は自分の性事情を、少なくともここ数日悶々としている事を把握している。
「ど、どうしてそれを……?」
『どうしてって、思春期の男の子が一週間何もせずにいて平気な筈ないもの。』
尚、実際には禁欲によって昂るピークは三・四日程度と言われ、それを過ぎると性欲は減退していく為、憑子の言葉は男の性事情を正確に表したものではないとされる。ただ、愛斗の場合はその期間ずっと華藏月子という憧れの女性と寝食を共にしているので、一人で耐えているのとは異なる部分もあるかも知れない。
『因みに、少しくらいなら君の身体を操れる事は証明済みだし、君が望むなら手伝ってあげる事も吝かでは無いけれど?』
「丁重に……お断りします……。」
『ふぅん……?』
姿こそ顕していないが、憑子の表情が見えれば屹度意地悪く微笑んでいる事だろう。
『まあ、余り生意気な態度を取る様だったら君の意思を無視するのもアリかも知れないわね。やり方によっては君を手懐けることだって出来るでしょうし。』
「それは本当に勘弁してください。」
待ち合わせの段階から二重三重の恥辱を味わった愛斗は、泣きたい気持ちを堪える様に目頭を押さえた。
☾☾
その後、愛斗と紫風呂は無難にボーリングを楽しんだ。一頻り投げ終えた後、二人は待ち合わせた駅へと街を歩いていた。
「いやあ、今日は楽しかったぜ。一生物の思い出にするよ、有難うな愛斗君。」
「まあ普通に遊べたから良しとしておくよ。」
愛斗はこう言っているが、投げる毎に何度も背中、と言うより尻の当たりに紫風呂の生温い視線を感じており、肉体以上に精神的に疲れ果てていた。
「そう言えばよ、愛斗君……。」
「何だよ?」
紫風呂は思い出した様に切り出した。
「これから、假藏の事はどうするつもりなんだ?」
「どうするって……。」
愛斗個人は假藏生三人と一応は上手くやっているが、華藏生が假藏生に迷惑をかけられている現状は何も変わっていない。しかしかと言って、これ以上の対策を取ることは出来ない。
「一刻も早く元に戻せるよう色々調べる、それしかないよ。」
「そっか……。愛斗君に会えなくなるのは寂しいな……。」
愛斗としても、紫風呂は兎も角として尾咲求や相津諭鬼夫との付き合いに名残惜しさを感じないではない。だが、二つの學園は本来一つに繋がるべきではないのだ。
「出来れば紫風呂君の方からもあまり華藏に迷惑を掛けないように言ってくれると助かるんだけどな……。」
「愛斗君の期待には応えたいが、そりゃ難しいな。うちって全然纏まりねえから。」
そうだよな、と愛斗は紫風呂の言葉に納得するしかなかった。
ここで、憑子は新たな情報を愛斗に伝える。
『一つ、効果的かも知れない情報があるわよ。』
「え?」
『その男にこう伝えなさい。〝近くあの男の停学が解けるから、余り調子に乗らない方が良い。〟とね。』
愛斗は憑子の言う事が余り解らず、首を傾げた。様子のおかしい彼に紫風呂が問い掛ける。
「どうした、愛斗君?」
「いや、一つ情報があって……。聞いた話によると、もうすぐある男の停学が解けるって事らしいんだけど、それって假藏に何か影響あると思う?」
愛斗の言葉を聞き、紫風呂は瞠目して青褪めた。
「何だと……⁉ そりゃ拙いぞおい! 下手に暴れたら、うちの生徒がまたあいつに病院送りにされちまう……‼」
「な、何それ……? 僕、その人のこと知らないんだけど、どういうことなの?」
「華藏に愛斗君の他に、もう一人やべえ奴が居るのさ‼」
さらりと危険人物として纏められて心外な愛斗だったが、今はそのもう一人の事の方が気になる。
「やばい人?」
「本当に知らねえのか? 不良の世界じゃ有名なんだが……。」
「いや、知る訳ないじゃない。」
「マジかよ……。」
紫風呂は愛斗が本当に知らないと見て、世界観のギャップに驚いている様だった。それは奇しくも、愛斗が假藏の文化に感じた者と鏡合わせのショックだった。
「華藏には、うちで最強と言われていた男と互角に渡り合ったとんでもない不良が居るのさ。」
「ええ⁉ 嘘でしょ⁉」
「嘘なんか吐いてどうするんだ! 寧ろ、假藏としては恥だし知られてないんなら隠しておきたいくらいだ! 愛斗君が訊くから答えるんだぜ?」
どうやら大真面目な紫風呂に、愛斗は頭を抱えた。假藏にとって脅威である華藏の不良も、彼にとっては新たな悩みの種でしかない。
「一応、名前を聞いてもいい?」
「マジで知られてないんだと、すげえショックを受けてるぜ俺は。華藏の仁観嵐十郎って言えば、滅茶苦茶有名人なんだが……。」
愛斗の土曜日、紫風呂との「デート」は、新たな波乱の予感を齎して終わりを告げた。
お読み頂き誠にありがとうございます。
宜しければいいね、ブックマーク、評価、感想等お待ちしております。
また、誤字脱字等も見つかりましたらお気軽に報告いただけると大変助かります。




