第十六話 暴かれた本性
清皇帝は一八三九年三月広東にて引き渡された阿片の価値、及び清朝高官によって投獄され死刑の通告を受けた英国女王陛下の全権商務総監及びその配下の者達に対する賠償金として六百万ドルを支払う事に同意する。
――南京条約・第四条
あの日、生徒會の役員達が行方不明になったと聞かされた国語教師・海山富士雄は、心底うんざりしていた。同僚の数学教師・聖護院嘉久に連絡が付かないと、休日出勤のお鉢が回ってきた矢先にまた面倒事を被る破目になったからだ。
「全く、やってらんねえな……。」
問題事を報告してきた生徒會役員・真里愛斗が去った後、彼は溜息を吐いて天井を見上げた。
教師になどなるべきではなかった。
これほど割に合わない仕事も然う然う無いだろう。――海山はそう心の中で呟いて、机の下に置かれた鞄を手に取った。
海山の鞄には小さな南京錠が備え付けられており、彼が携帯している鍵無くしては開けることが出来ない。普通の発想ならばその様な対策を講じなくとも、同僚の鞄を勝手に見るという不届き者が居るとは考えられないが、万全を期さなければならない理由が彼にはあった。
「こいつが無きゃ俺はとっくに教師なんか辞めてる……。こっちがどんなに真面目に仕事をしても餓鬼共の匙加減一つで全て台無しになっちまう……。そんな厄介者の為に、こっちは余暇や休日を返上してまで尽くさなきゃならない……。毎年何十人もの餓鬼共の人生を背負わされるんだ。全く、本当にやってらんねえよ……。」
海山は袖を捲ると、針の後が多数残った肘裏を晒した。鞄からはペットボトルの水と白い粉の入った小袋、そして注射器を取り出した。
「ああ、でもここで打っちまうのは拙いか……？ 本来は小遣い稼ぎが目的だもんな……。」
彼は少し思い留まろうとしたが、結局一袋自分で使用してしまった。既に理性で抑えられない程彼は薬物に依存してしまっていたのだ。
「しかし、生徒會役員が行方不明、か……。」
暫く高揚感に身を任せた後、海山は重い腰を上げた。上げざるを得なかった。
「どうせ學園長に言っても内々で処理しろと言われるだけだろう。俺が探すしかないのか……。面倒臭い……。」
愚痴りつつも、彼には生徒會の役員達を探さざるを得ない事情が有った。
ふと、彼は数年前に學園で起きたある事件の事を思い出した。
「合宿所と言えば、あの近くには例の山道があったな……。そう言えば聖護院の奴が立ち入り禁止の山道で行方不明になっていた華藏月子を見付けたと言っていた……。もしかしたら、そこに何かあるのか……？」
生徒會役員の合宿は合宿所で行われており、それは丁度立ち入り禁止の山道の入口付近に在る。この符合が、海山を例の山道へ、その奥に立っている祠へと向かわせたのだ。
☾☾
祠に辿り着いた海山が見たのは驚くべき光景だった。
「あ、アンタは……⁉ 一体こんな所で何をしているんだ？」
彼が思わずそこに居た男に声を掛けたのも無理は無い。その男こそ、彼が今この様な状況に巻き込まれている原因そのものだったからだ。
「聖護院先生‼」
そこに居たのは眼鏡を掛けた細面の同僚、聖護院嘉久だった。
彼は海山の方へ徐に振り向き、眼鏡の奥の細い目で不気味に二つの弧を描く。
「これはこれは、海山先生ではありませんか。こんな立ち入り禁止の領域へ態々入って来るなんて、どういう風の吹き回しですか？」
「何を言っているんだ……‼ 立ち入り禁止の場所に侵入しているのはアンタだって同じだろう！ それに、アンタと連絡が付かないからって俺が代わりに出勤したんだぞ‼」
聖護院は海山の批難にも動じる様子を見せず、口角を上げて表情に益々不気味さを増した。逆に海山の方がたじろいでしまった程だ。
「連絡が付かない……。それはそれは失礼致しました。ところで、連絡出来ないのは私だけですか？」
「ど、どういう事だ……？」
海山の動揺を意に介さず、聖護院は祠の観音開きに手を掛ける。
「先日一人の生徒が私の許へ相談に来ましてね。或る先生から、良からぬ商売の仲介人をさせられている、と。このまま悪事に手を染め続ける罪悪感にこれ以上耐えられない、もう死ぬしか無いんじゃないか、とね。可哀想に、随分やつれてしまっていて追い詰められていた様子でしたよ。」
聖護院の言葉に海山は焦った。彼に相談を持ち掛けた生徒が想像通りなら、海山は弱みを握られてしまった可能性が高い。
どうせ連絡が付かない、とされているんだ。ここで殺して埋めてしまうか？――そんな良からぬ考えが海山の脳裏に過った。
しかし、聖護院の不気味な佇まいに気圧され、海山は動けずにいた。
「海山先生、貴方は彼を探しに来たのではありませんか？ 中等部生徒會長、忌位千尋君を……。」
「うぅっ‼」
海山の額から滝の様に汗が噴き出した。
完全にばれている。自らの犯罪行為を、聖護院に握られてしまっている。
海山は目の前が真っ黒になる思いがした。
しかし、聖護院は変わらず笑っている。批難する様子も、食い物にしようという悪意も見せないまま、ただ笑っている。それが逆に途轍もなく不気味であった。
「大丈夫ですよ、海山先生。安心してください。私は別に、貴方の副業を邪魔しようだなんて思っていません。それは私にとっても拙い事でしょうからね。」
「なっ……⁉ アンタ、一体どこまで知っているんだ⁉」
実は海山の薬物売買には更なる裏があった。それは正に、華藏學園の闇と呼んで差支えの無い物だ。
「ふふふ。今、生徒會役員は一人の生徒を除いて全員が行方不明になっている。これは貴方にとって非常に拙い展開だ。高等部教師の身で、中等部の生徒に薬物を広めたのはいいものの、その仲介役が今消息を絶っている。そして、もう一人の重要な人物も……。だが、これは逆に貴方にとってチャンスでもあるんですよ？」
「ち、チャンス？」
「その証拠に、面白い物をお見せしましょう。」
聖護院は先程から掴んでいた観音開きを勢いよく開放した。その奥は何かが置かれていた形跡こそ在るものの蛻の殻となっている。
しかし、そう思った瞬間に何も無かった祠の内部空間から凄まじい勢いで紫の闇を纏った叢雲が勢い良く噴き出して来た。
「う、うわアアアッッ‼」
「さあ、私と共に闇の力へと身を委ねましょう。そして更なる安全と搾取構造を築き上げるのです。この闇の向こう、七十キロ離れた分校、假藏學園でね‼」
斯くして、教師でありながら覚醒剤を売買していた不届き者・海山富士雄は誰よりも早く華藏學園と假藏學園を行き来する事になった。
☾☾☾
今、自身の城である国語準備室で真里愛斗と対峙している海山は愛斗の態度から嫌な気配を覚えていた。何やら思わせ振りな事を示唆するだけで一向にはっきりしない物言いも苛立ちを募らせる。
（この餓鬼、一体何処まで掴んでいるんだ？ 何も判っていないから、鎌を掛けているだけなのか？）
海山は眉間に皺を寄せ、愛斗の目をじっと覗き込む。それはまるで空気が乾いた夜空の様にどこまでも深く星々が鏤められた様な、そんな澄んだ眼だった。確かな意志を宿した、強い光を宿した眼だった。
（気に入らん……！）
海山は知っている。自身の眼が、今の愛斗とは対照的に溝川の様に淀んでいる事をよく知っている。
否、それすらも最早定かではないかも知れない。
近頃の彼は、覚醒剤の禁断症状で真面に鏡に映った自分を見られない事が増えてきた。
（それもこれも、元はと言うとこういう面倒な劣等生が煩わしくてあいつの言葉に乗ったのが始まりだったんじゃないか……！）
自分が覚醒剤を売り捌く副業を始めたのも、自身で濫用し始めたのも、全ては愛斗の様な生徒の相手をする事に嫌気が差したからだ。――そう責任転嫁した海山は次第に怒りに満ちた目で愛斗を凝視し始めた。
しかし、愛斗は物怖じする様子も無く続けて持論を展開する。
「先生、貴方はあの日、假藏學園へ行きましたね？」
「知らんな。」
「そして、向こうに居たあの二人に会った。」
「休日だろうが！ どういう理屈で会えるっていうんだよ‼」
苛立ちから勢い余って口を吐いて出てしまった言葉に、海山は直ぐ拙いと思い直して手で口を覆った。
「向こうにだって華藏と同じように宿直の先生が居てもおかしくないですよね？ それとも、あの日向こうに居る筈の無い人達の事だと思ったんですか？ どうして？」
「それは……！」
海山は確かにあの日、假藏學園へ行った。そして伊藤藤之進、則山正行の二人と会って話をしていた。
それが可能だったのは、彼等二人に特別の事情が有ったからだ。
「し、しかしお前の言う二人に会える筈が無い、という事であればお前の主張は崩れるだろう？」
「会えた理由は調査済みですよ、先生。」
海山の額から冷や汗が滴り落ちた。しかし、まだ彼は愛斗の言葉を発足だと考えている。何故ならば、その理由は假藏學園の生徒ですら殆ど知られていない、有名無実化したものだからだ。
（そうさ、假藏は底辺の不良校、誰も學園生活に関心なんか持っちゃいない。だから華藏と違い、あいつらがそうだと殆ど知られていない筈なんだ！）
そう高を括っていた海山だったが、彼は一つ見落としていた。
もし彼の考える通り、実体の無い物であれば抑も伊藤と則山はあの日登校していない。つまり、彼が二人と出会った時点で例外的に彼等が所属している組織について知っている人物が居て、その人物たちに向けた活動があったのだ。
愛斗は静かに話を続ける。
「確かに、最初に知り合った二人の假藏生からは言われました。あっちじゃ誰がその活動をしているのか、知らない方が普通だって。でも、知っている人も僅かながら居たんですよね。あの二人が向こうの生徒會の役員だったと……。」
実は愛斗はこの場に臨む前に知り合った二人の友人に、様々な裏付けを頼んでいた。海山にとって誤算だったのは、その二人が覚醒剤の流布に対して怒りを抱いていた事だ。
愛斗の協力者、尾咲求と相津諭鬼夫は舎弟から裏付けを取っていた。その中には伊藤と則山の他にも元華藏生が居た。彼等は他の不良と違い真面目且つ平穏な學園生活を望んでおり、生徒會の事情にも少しだけ通じていた。
「先生、お願いがあるんです。」
「あ⁉」
海山は焦りと苛立ちから声を荒げてしまったが、対する愛斗は酷く哀しそうな眼をしていた。
「先生、どうか僕の口から言わせないでください。僕は此処まで、ずっと断言は避けてきました。それは他でもない、貴方自身の口で全てを認めて欲しいからなんです。」
生徒として、生徒會役員として、教師が罪を犯し、剰え生徒を食い物にしてきた可能性が濃厚だと知ってしまった愛斗の心情は通常、察するに余りある物だろう。
しかし、海山にとってそれは癪に障る等という程度のものではなかった。
「ふざけんじゃねえぞ真里ィッッ‼ 先刻から大人しく話を聴いてりゃ確たる証拠も無く人を犯罪者呼ばわりしやがって‼ ただでさえ俺はお前の様な不真面目な餓鬼は大嫌いなんだよ‼ これ以上突っ掛かって来るなら、こっちにも考えが有るぞ‼」
海山は勢いよく愛斗に迫ると、彼の胸倉を掴んで捻り上げた。体格の小さな愛斗は首が絞まり、苦しそうな表情を浮かべる。
しかし、彼は尚も怯む様子を見せない。
「先生、駄目ですよこんなことしちゃ……。それに、僕は一度も先生が犯罪に手を染めたなんて言ってないんです。もっと言うと、何を疑っているのかすら言っていない……。これじゃ……語るに落ちているじゃないですか。」
その時、海山の中で何かが切れた。
元々、彼は既に上手く理性が働かなくなっている。
（もういい、面倒だ。こいつの事もやってしまおう。どうせ元々、俺の授業中に堂々と爆睡する様ないけ好かない餓鬼なんだ。構うもんか、こいつも殺して……。）
身勝手な殺意から、海山は襟首で愛斗の頸動脈を意図的に締め上げる。
だが、海山は愛斗について二つ知らない事があった。
愛斗は海山の腕を掴むと、乱暴に力を込めて手首を握り締めた。
骨の軋む音が鳴り、海山は苦痛から愛斗を掴み上げていられなくなった。
「ぎ、ギャアアアッッ‼」
愛斗には今、非力な男女とはいえ人間二人分の膂力がある。それは単純に計算すると、百キロを超える巨漢のそれに相当する。一回の中年男性に過ぎない海山の腕など、力付くで簡単に引き剥がすことが出来るのだ。
「げほッ、げほっ‼」
とは言え愛斗はその場に倒れ込んで咳き込んでいる。
如何に力が強かろうと、首を絞められたり強く殴られたりすれば命の危険がある事に変わりは無い。
海山は痛みを堪え、机に置いてあった灰皿を握り締めた。そして愛斗を撲殺しようと腕を振り上げる。
「先生、駄目ですよ……。」
「もう良いよ面倒臭い‼ 俺は元々お前の事が嫌いだった‼ ここでぶっ殺せばお前が何を追求しようとしていたとか関係無いだろうが‼」
海山は教師にあるまじき殺意を生徒の愛斗へ向けている。
しかし、彼にはもう一つ愛斗について知らない事が有った。
それは、愛斗にはこういう時に彼を守ってくれる人材が新たに加わっていた事だ。
海山は気付いていなかった。
愛斗を殺害することに夢中で、一人の巨漢が準備室に侵入してきたことに全く気が付いていなかった。
「てめえ糞教員が‼ 大概にしとけよ、ああ⁉」
大男、鼻に矯正を当てた假藏學園の不良生徒は海山を激しく殴り倒した。
「ギャヒッ⁉」
「俺の愛斗君に何さらすんじゃこのボケがぁッ‼」
假藏學園二年生・紫風呂来羽。
愛斗に性的嗜好を歪められた男が憎き仇を見る血走った眼で海山を見降ろしていた。
「有難う、紫風呂君。助かったよ。」
「頼ってくれて嬉しいぜ、愛斗君。後は俺に何が出来る？」
紫風呂の問いに、愛斗は黙って部屋の隅を指差した。
そこには、南京錠で厳重に鎖された海山の鞄が放置されていた。
「なっ⁉ 莫迦止めろ‼ 何の権利があって俺の……⁉ プライバシー権の侵害だぞ‼」
「ああ、そんな汚れ役を愛斗君にさせられねえからな。俺が引き受けるよ。」
紫風呂はそう言うと、海山の鞄を拾い上げた。
「止めろ‼ 止めてくれえっ‼」
海山の懇願も虚しく、紫風呂は鞄を無理矢理引き裂いた。
正規の開け方でない乱暴なやり方の前では南京錠も意味は無く、鞄の中からバラバラの紙幣、水入りのペットボトル、注射器、そして白い粉の入った袋が床に散らばり落ちた。
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