第十一話 麻芽の毒、狂を発する事
我々が生きる世界の延長上で構わないのならば、電車に数時間も乗れば別世界に辿り着く。飛行機に乗れば見慣れない外見の人間にも出会える。海に潜れば見た事の無い生き物にも出くわすだろう。
私が提供したいのは、非現実との得難き出会いである。現実を超越した体験こそ、私が描くべき物なのだ。
――作家・旭冥櫻のエッセイより
突然舞い込んだ、華藏學園に覚醒剤が出回っているという真偽不明の情報。真里愛斗はクラスの女子・戸井宝乃から余計な事を吹き込まれた所為で、憑子から方針転換を命じられた。
(全く、その時の気分で指示を変えられると本当に迷惑だな……。実はこの女、他人の上に立つのに余り向いてないんじゃないか?)
愛斗は頭の中で生前の華藏月子への分も含めて憑子への文句を反芻していた。
「まあ學園の為と仰るなら僕も一肌脱ぎますがね。でも取り敢えず一限の授業とホームルームが終わってからで良いですよね?」
『学業優先は当然。それに、ホームルームで担任の先生から何か話があるかも知れないしね。』
愛斗は自席に戻り、一限の授業に備えて教科書とノートを鞄から机の上に出した。
☾☾
結局、ホームルームで言及されたのは假藏學園生への接し方に対しての注意事項を除き、普段と大差の無い事のみだった。というより、それが余りにも大き過ぎる故に他の事まではホームルームという限られた時間内に話が及ばなかった、といった印象を愛斗は受けた。
(やっぱり戸井にもう一度話を訊くしかないか……。でもなあ……絶対面倒臭い反応してくるんだよなあ……。)
愛斗は三限と四限の間に設けられた十五分休憩で戸井に話しかけようと決めた。しかし決めたは良いものの、余り気乗りはしなかった。
「へえー、どういう風の吹き回し? 朝は随分、他人の噂話に興味は無いみたいな事、空かして言ってた癖に……。」
「ぐ……。そこはまあ、事情が有りまして……。」
案の定、十五分休憩に改めて話し掛けた戸井から返って来たのは朝の態度への皮肉だった。彼女は優秀な成績に裏打ちされている様に頭が良く、少しでも筋の弱みを見付けると少年の様な貌に意地悪な笑みを湛えつつ容赦なく突っ込んでくるのだ。
「ふーん……?」
戸井は上目遣いで愛斗の顔を覗き込み、何かを考えている。
「事情、ねえ……。」
眉を顰めるその表情は執拗に愛斗の何かを疑っている様にも見える。
「戸井、まさか失礼な事を考えていないだろうな?」
「別に? 唯、貴方近頃態度が一寸おかしいし。」
確かに、客観的に見れば愛斗には幻覚や幻聴と会話している様に見えるし、昨日からの異常事態にも妙に胆の据わった振る舞いを見せている。だが、一点に於いてこの件で愛斗を疑うには根拠が不十分とも言えた。
「戸井、真里は近頃授業中によく寝ているだろう。覚醒剤を学校に持ち込んで濫用しているとは考え難いと思うが?」
親友の西邑龍太郎が自席に坐ったまま横目に助け舟を出してくれた。これには戸井も「そうか。」と素直に納得していたが、愛斗にとっては己の恥を根拠に論われて良い気分ではなかった。
「西邑……。僕は今凄く複雑なんだがこの気持ち、どうしたら良い?」
「抑も、授業中に睡魔に襲われる程の寝不足を常態化させる方が悪いと思わないか?」
西邑が繰り出した言葉の棘に愛斗はぐうの音も出ず、戸井は腹を抱えて笑っていた。
「ま、真里が関わっていないなら話しても良いけど、そんなに知りたい?」
「朝は悪かったよ。一寸だけで良いから教えてくれないか?」
「一寸、何て遠慮しなくて良いのに。それとも、未だ少しは格好付けたいって事かな?」
「もう充分格好悪いのは承知したよ。」
愛斗は尚も弄られる屈辱に、憑子の変心を恨んだ。
そんな此方側の事情等知る由も無い戸井は声を潜めて話し始める。
「真里、うちの學園ってさ、私達高等部のコースと中高一貫のコースに分かれてるじゃない?」
「そ、そうだね。」
元々はそちらに居た愛斗にとって今更言われるまでも無い事だが、戸井は愛斗のその様な来歴は知らない様子だった。
(そんなに有名な話じゃないと思うけど、戸井が知らないなら意外だな。)
人の噂話が大好きな戸井ならば、間違いなく押さえているだろうと思っていた愛斗は若干の違和感を覚えつつも、続きに耳を傾けた。
「で、中には珍しいんだけど、元華藏中の假藏生も居るみたいなんだよね。」
「ははは、そうなんだ。」
これも愛斗にとって真新しい情報ではなかった。通称、假藏送りといわれる華藏學園から假藏學園への転校という名の追放措置は學園の黒い噂として有名だし、抑もその話自体元はといえば戸井に聞かされた物だった。更に、愛斗にはその措置を受けた人間と身近に接していた時期がある。
『少し布臭い話になってきたわね……。』
「そうですね。何となく判ってきましたよ。」
「何が?」
戸井に憑子との会話を聞かれて愛斗は焦る。折角薬物使用の疑惑を晴らして貰ったのに、まるで幻覚と話をしているような仕草を再び見られては又蒸し返されかねない。
「その元華藏生が関わっている、っていう事が何となく予想出来たな、って事なんだけど、間違ってる?」
「いや、正解だよ。」
どうにか誤魔化すことが出来て、愛斗は胸を撫で下ろした。しかし、問題はその後である。
「因みに、その假藏生の名前って判ったりする?」
愛斗の関心事はそこだった。この情報だけでは未だ特定できない。通称「假藏送り」で學園を移動したのは愛斗の考える人物達だけではないからだ。
『該当する人物はそれなりに居るから、名前が判るなら訊いておきたいわね。』
憑子に至っては詳細まで判っているが故に、余計特定出来ずにいる様だ。愛斗は彼女と共に戸井の唇から溢される名前を今か今かと待っていた。
「流石にそこまでは判らないよ。」
「そう……。」
無理も無い答えだったが、期待しただけに愛斗は肩を落とさざるを得なかった。同時に予鈴が鳴り、それ以上の聞き込みは望めなくなった。
「會長、先に假藏からの抜け道を調べましょう。どの道向こうに通り抜けられないと、あいつらとは会えないでしょうし。」
『私の采配に間違いは無かった様ね。』
「完全に偶々ですけどね。」
こうして、愛斗は紆余曲折を経て当初の予定通り昼休みに假藏學園に通じる抜け道を調べる方針に舞い戻った。
☾☾
昼休み、愛斗は昼食を購買部のパンでさっさと済ませて合宿所の方へ向かった。
案の定、この時間帯となると昨日と同じく華藏學園の敷地内で假藏學園の不良生徒が我が物顔で狼藉を働いている。華藏生から金銭を恐喝する者、スプレーで壁や地面に落書きする者等、蛮行に精を出す彼等が愛斗には理解出来なかった。
『孰れ全員纏めて然るべき報いを受けさせてやりなさい。』
憑子は自分の學園を穢される怒りを愛斗に伝えたが、他力本願な癖に偉そうな指示に関して愛斗は黙殺した。
「第二合宿所も見事に汚されてますね。」
『許せないわ。どうせなら第一の方にしてくれれば良いのに、何故態々新しくて奇麗な方を手に掛けるのかしら?』
「元々古くて汚い方には近寄りたくないんじゃないですか? 埃塗れになるのは不良達も御免でしょう。」
憑子の相変わらず無神経な言葉にも皮肉で返すのが板に付いてきた。愛斗は周囲を見渡し、華藏學園の教師の目が無いか一応確認する。
『立ち入り禁止とはいっても、どうせ誰も気にしないわよ。』
「この状況ですしね。ただ、少し……。」
愛斗が周囲の目を気にするのは、今から踏み入れる場所で起きた事件に対する防衛反応という面が大きい。惨劇の現場に戻るのは躊躇われるし、下手をすれば自分が一番疑われかねない状況であった事は今も宙振らりんのままである。
『大丈夫よ。あれから何も見付かっていないでしょう?』
「そう……ですね……。」
愛斗は憑子の言葉に背中を押され、大きく息を吸い込んで、立ち入り禁止の看板を越えて山道へと再び入った。そして、自分でも拍子抜けしてしまうくらいあっさりと祠の場所まで辿り着いた。
「こんなに近かったんですね……。」
『昼に来るのと夜に来るのとでは印象が随分違うものね。私も初めてだったから思いの外短時間で着いて驚いたわ。』
愛斗の身体から白い靄が溢れ出し、華藏月子の姿を模る。薄っすらとした白い光に包まれた絶世の美少女の姿に、愛斗は何度でも思わず見惚れてしまう。
『假藏の不良如きに器用な事は出来ないでしょうから、向こうとは簡単に繋がると思うわ。そうね、例えば……。』
彼女は優雅に祠に向かって歩み出て、細くて長い指を小さな観音開きの取手に伸ばす。その何気ない所作の一つ一つが口惜しい程に美しく、愛斗は結局彼女にどうしようも無く惚れているのだと思い知らされる。
そして、観音開きが勢い良く開かれると、そこから全開のジェットエンジンから噴き出すかの如き強烈な勢いで紫色の闇が憑子と愛斗をあっという間に覆い尽くした。
一瞬にして視界を闇に覆われた愛斗は吹き付ける勢いに思わず目を閉じたが、脳に伝わる感覚が憑子のまるで動じていない姿勢を在々と教えてくれる。
『ビンゴ! 祠は異界への扉と言伝えられて来ただけあって、何処か別世界に繋がっていると思っていたわ!』
「でも、それが假藏だとは限らないんじゃ⁉」
『帰れる保証が無いなら、假藏生が二日連続で華藏學園の敷地に入って来たりはしないわ。逆に、君なら帰って来られるか分からないのに假藏の方へ行きたい?』
「今行かされてるんですけど⁉」
愛斗は憑子に真剣なツッコミを入れながらも、吹き付ける闇の勢いが弱まっていくのを肌で感じていた。
もう目蓋を開けられる。
でも、もし目に入って来るのが假藏學園ではなく、全く見ず知らずの異世界だったら。――そう思うと、愛斗は周囲の様子を窺うことが出来なかった。
「憑子會長‼ 今僕達、假藏に居るんでしょうか⁉」
『まだ判らないわ。闇が晴れていないもの。でも、間違いなく假藏に出る筈よ。私を信じなさい。』
この世で憑子程信じられない物が果たして幾つ在るだろうか。――愛斗はそんな事を一瞬考えたが、すぐに改める事になった。
「おい見ろ! 華藏の餓鬼が野呼々々やって来やがったぜ!」
「マジかよ! とんだ命知らずも居たもんだ!」
假藏學園の不良と思しき下卑た声を聞いた愛斗は寧ろ安心した。本当に繋がったのだと確信し、目蓋をゆっくりと開けていく。
「此処は……?」
愛斗は周囲の様子を窺い、どうやら校舎裏らしき事を認識した。又、此処にも華藏學園の敷地に在る物と同じ様な小さな祠が建てられている。
傍に居るのは不良男子生徒が四人、女子生徒が二人。見た所、大柄で強そうな二人の男子夫々の取り巻きが男女一人ずつ一緒に居るらしい。
「あの、此処は假藏學園で良いですか?」
昨日とは違い、まだ何か悪さをされた訳でも無いので、先ずは丁寧な口調で不良達に尋ねた。取り巻きの男子二人はそんな愛斗を鼻で笑う。
「假藏じゃない方が良かっただろうよ、華藏の坊ちゃんよ。」
「此処じゃ華藏生は雑魚い鴨以外の何物でもねえからな。」
愛斗の誠意も虚しく、早速害意を隠しもしない二人の下っ端が迫って来る。愛斗は攻撃的な態度の不良に嫌気が差す思いをしながら、周囲の逃げ道を見渡した。
だが、不良達を率いていると思しき二人の大男は様子が違う。
「待て、お前ら!」
「俺達は華藏の餓鬼に訊きたい事が有る。」
二人の大男が愛斗の目の前に立ち、腰を曲げて顔を覗き込んで来た。恐らく、昨日襲ってきた紫風呂来羽と同じかそれ以上に強いと思われる風格が二人には有った。
しかし、愛斗は退かなかった。明から様な暴力を振り翳されなければ、一々怯える必要は無い。
「丁度良いや。僕の方も訊きたい事が有ります。僕は華藏學園生徒會役員・真里愛斗だ。此処は一つ、情報交換と行きましょう。」
名前を聞いた瞬間、下っ端達の顔付きが変わった。二人の大男も微かに目を大きく開いていた。
「そうか、てめえが紫風呂を退かせたっていう真里か。」
「教室を机で仕切ったのもてめえの差し金らしいな。見た目の割に良い度胸じゃねえか。」
「バーベルのバーを頭にフルスイングするイカレた野郎だって聞いてるぜ。」
「態々假藏に乗り込んで来るなんて、此処ら辺の悪共にだって却々出来ねえよ。大した野郎だ。」
愛斗は一日にして假藏でそれなりの名声を得ていたらしく、又今尚も評価を上げている様だ。勿論、愛斗にとっては悪名以外の何物でもなく、全く嬉しい事ではない。
そんな愛斗の胸中など知る由も無い二人の大男は親しみからか敬意からか、それぞれ名乗り返してきた。
「俺は尾咲求。三年だ。」
「同じく三年、相津諭鬼夫。」
「俺達は共に假藏の頂点を狙って対立してるんだが、今は休戦中だ。」
「それどころじゃねえとんでもねえ目に遭ったからな。」
彼等は華藏學園と假藏學園が繋がった当にその時、この校舎裏は祠の前で喧嘩をしようとしていた假藏トップクラスの不良達である。そういった経緯から、二人は假藏でも珍しく今回の一件に関心を持っていた。
「尾咲さんと相津さん……。」
「てめえの事は真里ちゃんって呼ばせて貰うぜ。」
「まあ今は仲良くしようや。」
眉無し強面の尾咲が愛斗の肩を強く叩いた。彼らなりの親愛の表現なのだろう。愛斗は痛みを覚えつつも、物怖じせずに早速本題に入る。
「実は二人の生徒を探しているんです。伊藤藤之進と則山正行っていう元華藏生なんですが……。」
愛斗が出した二人の名前は彼を嘗て虐めていた主犯格達である。假藏で大した地位に就いているとは思えないので望み薄かと思っていたが、予想に反して尾咲と相津は渋い表情を浮かべた。
「知ってるよ。」
「あの外道共がどうした?」
愛斗は彼等の反応から、更なる可能性を感じて核心を尋ねた。
「実は、あの二人は今、華藏學園に覚醒剤を持ち込んだと噂されているんです。生徒會役員として捨て置けません。何か御心当たりは御座いませんか?」
「あいつ等! 華藏にも手出してやがったのか‼」
「大有りだよ! こっちでもシャブ捌いてたんで丁度締めてやろうと思ってたところだ‼」
どうやら薬物の件は早くも解決の糸口が見えて来た。
『良い感じね。そうと解れば一先ずこんな屑共に用は無いわ。とっとと彼等の首根っこを捕まえに行きましょう。』
「流石に最初の話を反故にしてこっちだけ一方的に情報貰うのは駄目でしょ……。」
相変わらず身勝手な憑子に呆れ果てる愛斗だが、その言葉が今度は二人の不良の疑問を引き出す。
「じゃあ今度は俺達の質問に答えて貰おうか。」
「と言っても、こっちは難しいかも知れねえがな。」
頭半分を刈り上げた赤い長髪の男、相津は親指で背後の祠を指差した。
「色々あるけど取り敢えず、あの祠についてだ。」
「少し長くなるぜ。」
不良達は愛斗に恐ろしい体験を話し始めた。
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