第十話 朝令暮改
最大の幸福とは、不幸の元を知る事である。
――フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー
華藏學園と假藏學園、二校の空間を捻じ曲げての融合という異常事態が起きた日、真里愛斗は全身に怪我をした。理由は、体育倉庫の窓硝子に全身で跳び込んだ為だ。
保険医からは勝手に抜け出した挙句怪我をして戻って来た事で雷を落とされたが、愛斗は不良に追いかけ回された挙句無我夢中で先の行為に及んだと説明した。その後の顛末については何も言わなかったので、一方的に責任を不良達に押し付ける事になったが、抑も彼等が原因で起きた事なので、そんな所まで律義に筋を通す必要性は感じず罪悪感も特に抱かなかった。
驚かれたのは、危険な行為に反して怪我が非常に少なかった事だ。何針も縫う傷を多数負い、命に関わってもおかしくない行為だと厳しく責められたが、愛斗は数箇所に軽い切り傷を負ってガーゼを当てられるだけで済んでしまっていた。
そして、異常事態が起こった日で華藏學園全体がそれ所ではなかった事もあり、愛斗はそのまま帰宅の許可を得た。
珍しく早い時間帯の復路バスに乗り、愛斗は窓の外を流れる景色を眺めていた。
『何を気取った様に黄昏れているのよ?』
窓に華藏月子の顔が映り、頬杖を突いて此方を見ている。まるで窓越しに、少年と少女が互いの眼と眼を見詰め合っているかの様だ。
「そりゃこれからの事を考えると物思いに耽りたくもなりますよ。」
『そうかしら? 私には、不良共を撃退した事で調子に乗って格好付けている様に見えるけれど。』
「他人に大怪我必至の暴挙に出させておいてよく平気でいられますね貴女は。その呆れも半分ですよ。」
愛斗の皮肉に、憑子は窓に映った綺麗な顔を顰める。
『昨日から思っていたけれど、随分とまあ生意気になった物ね。一体誰の御蔭で今までの平和な學園生活を送れていたと思っているのかしら?』
「それが危ういからにはもう今までの扱いと併せて帳消しでしょう。」
憑子は愛斗の反論に眉尻を痙攣させる。そして、吐き棄てる様に溜息を響かせた。
『私、これでも真里君の事は結構可愛いと思っていたのに……。』
「そう……ですか……。」
少しだけ後ろ暗さを覚えた。今まで彼女に苦しめられたのは事実だが、自らの無能に因るところが多々有った事もまた確かである。それに、確かに彼女には虐めから救われた恩があり、密かに思いも寄せていた。その彼女から、可愛いと思われていたと聞かされて悪い気はしなかった。
そう、愛斗は嘗て虐めを受けていた。その事を知る憑子は、愛斗が勇気ある行動を起こした事も殺気に満ちた凶行に及んだ事も心底意外に受け止めているに違いない。
「でも僕はね、舐められるのは二度と御免なんですよ。貴女はそういうところを余り察してはくれませんでしたけど。」
『その割には生徒會の定例会だと殊勝にしている様に見えたわよ?』
「それは……。」
愛斗は少し間を置いた。弱みを握られるのではないか、と一瞬躊躇ったが、相手がそれを見せた以上は自分も歩み寄っても良い様な気がした。
(それに、元々叶わない想い。今となっては尚の事……。)
愛斗は小さく息を吸い、窓に向けて呟いた。
「貴女だけは特別だったんですよ。」
『……でしょうね。』
「貴女ときたらこれだから……。」
愛斗は憑子にさも当然承知という返答をされ少しの苛立ちを覚えた。だが同時に、どういう訳かこのやり取り、この時間が堪らなく愛おしい物に思えてならなかった。
バスは駅の停留所に向けて南下していく。
☾☾☾
帰宅した愛斗はまず怪我を親に驚かれたが、余り心配を掛けたくないので階段で転んだ等とあり触れた言い訳で誤魔化し、夕食を済ませては勉強を口実にさっさと自分の部屋に戻った。
「酷い一日だった……。『學園の闇』がこういう方向で来るとは夢にも思わなかった……。」
『同感ね。でも、一先ずの方針は固まりそうじゃない?』
「どういう事ですか?」
白い靄の人型となって顕れた華藏月子の姿をした憑子に愛斗は言葉の真意を問う。彼女はそれに対して小さく笑みを浮かべると、愛斗の浅薄を嘲笑う様に両目と口角を三日月型に曲げた。
『何から手を付けて良いか分からない時は、まず目の前の課題を片付けるのよ。』
「目の前の課題?」
『取り敢えず、卑近な疑問点があるでしょう。』
愛斗は首を傾げる。そんな彼に、憑子は彼の好きでもあり苦手でもある少女の姿で迫る。
『教室には全て机でバリケードを張った。にも拘らず、假藏生達は我が華藏學園の敷地内に大勢侵入していた。この意味が解る?』
「何処か他に、通り道がある、と?」
『そう見て間違い無いでしょうね。』
憑子は生前の華藏月子の制服姿で長い黒髪とスカートを靡かせながら愛斗の部屋を歩き回っている。
「その通り道を見付けるっていうのが、目の前の課題ですか? でもどうやって? 假藏の不良達が素直に教えてくれますか?」
『それに関しては何も心配無いでしょう? だって、君には既に假藏生とのコネがあるじゃない。』
假藏生とのコネ、そう言われて愛斗は少し考え込んだ。その様子を、憑子は意地悪な笑みを浮かべて見詰めている。その態度から、彼は察した。
「まさかとは思いますが、僕にとって良いコネじゃないですよね?」
『まあ、そうね。でも、彼等に舐められたままで良いの?』
憑子の返答に、愛斗は確信を得た。同時に、やはり彼女の性格は最悪だとも。
「僕を虐めた彼等が假藏に居るという話、本当なんですね?」
『そうよ。でも、彼等も彼等で酷い目に遭っているでしょう。元華藏生は大概假藏學園では不良の使い走りにされるそうよ。』
「西邑にも言いましたけど、別に彼等の現状には興味無いんですがね……。」
とはいえ、確かに憑子の云う通り何からも手を付けないでは話にならない。ならば、まず彼女の言葉に従い、華藏側と假藏側を繋ぐ通路を探すのは一つの道だろう。その手掛かりが因縁深い嘗ての級友達しか居ないと言われるのも、解らないではない。
「じゃあ、明日はその方向性で腹を括って行きますか。」
『今夜こそはよく眠っておきなさいね。』
「はいはい。」
こうして、華藏學園に闇からの超常現象が襲い掛かった初日は終わりを迎え、愛斗は床に就いて久々にぐっすりと眠った。
☾☾☾
翌日、朝起きた愛斗は予想以上の快復力で治りかけている傷に絆創膏を貼り、定刻通りバスで登校した。
「真里、大丈夫か⁉ 窓硝子に突っ込んで大怪我したと聞いたぞ?」
教室に入って一番、親友の西邑龍太郎が心配して近寄って来た。額と頬に貼ってある絆創膏を真面々々と見る視線には苦笑いを浮かべる他無かったが、それより愛斗が気にしていたのは教室のバリケードだ。
「取り敢えず、崩された様子は無いな。」
「どうやら他に抜け道が在る様だからな。態々そんな手間を掛ける迄も無いという事なのだろう。」
西邑も又、華藏側の敷地内に假藏生が鬱邪々々と侵入して来ていた事を昨日目撃していたらしい。それだけ派手に屯していたのだから、恐らく全華藏生が把握しているだろう。
「その事なんだけどさ、西邑……。」
愛斗は自分の席に向かい乍ら最初に浮かび上がった目的を学友に話した。
「假藏生が何処から入って来るか、か……。」
席に着いた西邑は愛斗の頭越しにバリケードの向こう側、丁度假藏生が登校し騒がしく燥ぎ始めた様子を横目で窺い、口元に手を添えた。
「心当たりが一つ有る。」
「え、何だ?」
「昨日、文学部の部室から見ていたのだがな、どうも假藏生は合宿所の方へ帰って行っていたらしい。」
合宿所、その単語が愛斗の中で火花を散らした。あの場所には、立ち入り禁止の山道が、例の祠へ続く禁域への入口が在る。
『良い友達を持ったわね、真里君。』
憑子の言う通り、西邑が齎した情報は早くも直近の疑問に対する大きな手掛かりとなるだろう。愛斗は昼休みや放課後を利用してあの禁域に再び足を踏み入れる決心をした。
しかし、それを吹き飛ばす事件の情報が駆け込んで来た。
「ねえ、真里、西邑。貴方達知ってる?」
話し掛けてきたのはクラスメートの女子の一人、戸井宝乃だった。彼女はクラスで唯一愛斗よりも小柄な背が低い女子だ。その他に特徴を挙げるとショートヘアでボーイッシュな印象を与える外見、学年トップクラスに優秀な成績、それから、人の噂が三度の飯よりも好きという大の學園ゴシップ通であるという事だ。
「何か面白い話でも仕入れたのかね、戸井さん?」
「流石、ネタに目敏いね西邑の兄さんは。」
戸井はそう言うと揶揄う様に長身の西邑の脇を肘で小突いた。
「この状況より面白いネタかね、それは?」
「そこまでは一寸言い切れないけど、でもこの状況でなければ間違い無く學園が引っ繰り返る大事件だよ。」
勿体付ける戸井は丸い目を輝かせている。愛斗は正直、彼女のこういうところには辟易していた。生徒達の學園生活を揺るがすかも知れない事件の、一体に何が面白いのか解らない。それに、そういう野次馬根性が嘗ての自分に災いとなって降り掛かって来た事もある。
「有名人のスキャンダルには興味無いよ、僕は。」
誰かを貶める悪い噂は懲り懲りだった。それが嘗ての愛斗に対する虐めを助長した面もあるからだ。
戸井は少し考え込んで、それでも話そうと決めたらしい。
「まあ、強いて言うならもう居ない人間の話題だから良いか。」
「何が良いんだよ?」
「いや、聴いておくれよ。結論から言うとだね、今この學園、覚醒剤が出回っているらしい。」
「は⁉」
愛斗は驚きから声が出た。確かに、名門と誉れ高い品行方正な華藏學園の生徒が違法薬物に手を出しているとなると、普段なら大事件である。
「情報源は何処だ?」
「それは言えないね。真里が嫌がるだろ?」
西邑の疑問は愛斗の発言を盾に回答を拒否された。つまり、戸井は関わっている人間を知っているという事だ。
『由々しき事態ね……。』
愛斗の脳内で、憑子が怒りの籠った低い声で呟いた。
『真里君、學園の闇はこの際後回しで良いわ。まずは覚醒剤の出所を突き止めなさい。』
「ええ⁉」
愛斗への要求は憑子の気分次第で転々変わる。この様な事は華藏月子の生前から何も珍しい事では無かった。愛斗は戸井と西邑に便所へ行くと告げて彼等から離れた。
「會長、取り敢えず假藏生が華藏側に抜けて来るルートを調べるという話は?」
『私の學園を汚らわしい薬で漬けようという輩を炙り出し、然るべき報いを受けさせる方が先よ。当然じゃない。』
「……貴女は結局どうしたいんですか?」
『學園をより良い方向へ導くというというのが三日前までの私の願いであり、今の心残りよ。學園の闇を祓うのも、覚醒剤の出所を調べるのも、全てはその一つの方針に集約されるわ。』
「貴女の中で繋がっていても、僕はどうすれば良いのか混乱してしまいますよ。」
『それは簡単よ。君は私の言う通りにすれば良いの。』
身も蓋も無い憑子の自分勝手な言葉に、愛斗は唯々呆れる他無かった。
「解りましたよ。じゃあどうします? まず戸井から話を聴きますか?」
『そうね。現状手掛かりは彼女だけだから。』
愛斗は渋々、憑子による方針転換を受け容れた。
しかし、一見無関係な「學園の闇」と「覚醒剤」が意外な所で繋がる事になるとは、この時愛斗は予想だにしていなかった。
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