喫茶店ブルーポット 3下②
翌日、有里子の代わりに翠がシフトに入っていたが、翠は出勤してくるなり「大変、大変!」と菱井に駆け寄ってきた。
「おととい、休みを利用して学校が終わってから街に出かけてたら、この前店に来ていた立花さんの想い人である男性が綺麗な女の人とデートしてたんですよ!」
ブレンド用に珈琲豆の分量を測っていた菱井は、手を止めて何事かと翠をじっと見ていたが、ふんわりした笑顔をむけて「おはようミドリちゃん」と挨拶すると、苦笑を浮かべて作業を再開しながら言った。
「ミドリちゃん、なんだかドラマに出てくる、近所に住む噂好きなオバサンみたいだね」
「な……! わ、私のことはいいんですっ。それよりも立花さん、このことを知ったらすごく落ち込みそうじゃないですか。なんだか可愛そう」
翠が面白がっている様子はまるでなく、心底気の毒そうに思っているのを見てとった菱井は、先ほどのは失言だったなと後悔しながらも、追い打ちをかけるようで申し訳ないと感じながら、昨日のことを話した。
「立花さん、言ってしまったことを取り消せなくて後悔してるみたいでね、最近寝付けないみたいだよ」
話していくうちにも翠が自分のことであるかのようにどんどん気落ちしていくのが見てとれた。
「うーん……立花さん、ショックだったのもあってそんなこと言っちゃったのかもしれない……。二重でショックだったろうなぁ……」
そう言うと翠は「着替えてきます」と言って、暗い顔でトボトボと更衣室に歩いていった。この日、翠は半ば心ここに在らずといった体だったが、幸いにもこの日の客は、いつもの年配の常連客1人だけだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
12月24日になり、クリスマス・イブということで世間では独特の高揚感に包まれ、ブルーポットも昨日から限定メニューを出しており、昨日は営業時間中ほぼ満席の状態となり菱井、翠、有里子は忙しく働き詰めて閉店時間にはヘトヘトになっていた。
特に有里子はここ最近急に増えた男性客たちから口説かれるのをやんわりと断ることに神経を使うことになり、それでもしつこく迫ってくる客は翠が割って入る──翠がうまく応対していたおかげで菱井が出ていくまでには至らなかった──ことになり、精神的な疲労が大きかったが、2人ともイベントが狙い通りに運んだ達成感にも似た高揚感で気分はよかった。
今日も開店と同時に近所の常連たち──昨日はじめて来店した中で「これからも通う」宣言した人も加わっている──で席が埋め尽くされ、昼を過ぎると若い男性客と女性客に比率が移り、そして夕刻を過ぎ陽が沈む頃には客足がパタリと止んで、店内には翠が長老と呼ぶ年配の常連客1人だけになっていた。
これには翠も有里子も首をひねる。昨日は閉店までほぼ満席だったので、クリスマス本番の今日と明日は確実に忙しくなるだろうと内心ワクワクしながら気合を入れていたのに肩透かしを食らった気分で、集中力の切れてしまった翠などはカウンターのスツールに座ってカウンターに頬杖をついている。
翠と有里子は、皆が何をおいても行きたくなるようなイベントなどが開催されていただろうか? など、とにかく一気に人がいなくなった理由を調べているところに、奥の調理場で料理の仕込みをしていた菱井がホールのケーキが入りそうな白い箱を持って現れ、何事かと2人を見つめたあと何かを思い出したかのように「あぁ」と呟き、申し訳なさそうに2人に言った。
「ごめん、伝えるのを忘れていた。今日は私の大切なお客様がいらっしゃるから、夜から貸切にしていたんだよ」
寝耳に水な表情で凝視する2人を他所に、菱井は白い箱を年配の客に渡す。男性は苦笑しながら何か小声で菱井に話しかけ、菱井も笑顔を浮かべたままそれに合わせるように小声で男性に何かを話すと、その年配の客は大事そうに箱を抱えて帰っていった。
年配客の姿が見えなくなるなり、それを見送っていた菱井に翠が問い詰めた。
「いや、それちゃんと教えといてくださいよっ! 何か不手際があったのかと思ったじゃないですか」
「翠、そこもだけど、一気にお客さんがいなくなるのってどうなのよ。マスター、どういうことか説明して──」
有里子が菱井に問いかけようとした時、ドアベルが鳴って皆の視線が入り口に集まる。そこには急に皆の視線が集まって戸惑う立花の姿があった。顔色が悪く、悩み事はいまだに解消できていないのかもしれない。
「や、やぁ……こんばんは」
「お待ちしてました、立花さん。どうぞお好きな席へ」
ぎこちなく片手を上げて挨拶する立花にいち早く菱井が対応し、笑顔で立花を招き入れると流れるような動作でおしぼりと水を立花の前に置いて奥に消えていった。
菱井の素早い動きに翻弄されて動きを止めていた翠と有里子がここで息を吹き返し、色々と気になる事はあれど、すぐに接客モードに切り替わってそれぞれ動き始めた。
立花はいつものようにメニューを見ずにカプチーノを注文すると「クリスマス限定のケーキもお願い」と期待を込めた目で追加した。
オーダーのカプチーノを有里子が淹れてる間に、翠がバニラキプフェルと切り分けたシュバルツヴァルター・キルシュトルテを用意する。
有里子がバニラキプフェルの添えられたソーサーにカプチーノを淹れたカップを乗せ、ケーキの皿と一緒に立花の前に出した。
立花はすぐに食べずに嬉しそうにケーキを鑑賞する。白い生クリームでコーティングされたチョコレートケーキに満遍なく敷き詰められたクラッシュナッツと薄く刻んだチョコレートが落ち葉の絨毯のようで、トッピングされたサワーチェリーが森の茂みになった赤い実を思わせ、それらに振りかけられた粉砂糖により雪を被っているようで、まるでドイツの冬の黒森を思わせる。断面は三層のチョコレート生地に生クリームが挟まれたストライプになっていた。
「店で出すって聞いてから楽しみにしてたんだよね……いただきます」
言いながらケーキにフォークを差し入れて一口分切り取り口に運ぶ。最初、意外そうな顔をするがすぐに幸せそうに微笑みながらゆっくり味わい、カプチーノで流し込むと満足そうに息を吐いた。
「僕が以前食べたものよりビターだけど、この方がの珈琲と合うね。酸味もキルシュとはちょっと違うけど、これがこのタルトの重めなチョコレートの風味を飽きさせなくて、ずっと食べていられそうだよ。すごく美味しい」
「苦みを強くしたくてバランスとるために甘みも少し強くなったから、くどくならないように酸味を足したくてクランベリーも使いました。お口に合いましたか?」
赤地に緑のラインが入ったリボンが結ばれた細長い飾り箱を手に菱井が奥から現れて答える。「もちろん」と満面の笑みを返され、菱井もにこりと微笑む。
「お待たせいたしました、ご注文いただいたものです」
そう言って立花の前に箱をそっと置く。
「あぁ、ありがとう。出来るのを楽しみにしてたんだ」
立花は嬉しそうに手に取ると、大事そうに上着の内ポケットに仕舞った。
翠と有里子は中身が気になったが黙っておくことにした。今日は菱井に聞きたいことがどんどん増えていきそうなので、あとでまとめてゆっくり聞こうと二人は目配せして頷きあった。
4人がしばし歓談していると、不意に立花が腕時計で時間を確認しながら呟いた。
「先輩、おそいなぁ……もう来てもいいころだと思うんだけど」
そのとき入り口のドアが勢いよく開いてドアベルが激しく鳴り、何事かと一同が入り口を見るとドアノブを握ったまま狐につままれたような顔をした藤本が戸口で固まっていた。
中にいた四人も、いったいどうしたのだろうと黙って見守っていたが、真っ先に菱井が動いて「いらっしゃいませ、藤本様。どうぞ、お席へ」と丁寧にお辞儀をし、そこで翠と有里子も我に返って藤本を招き入れた。
「先にいただいてました。遅かったですね、どこか寄り道してたんですか?」
「出がけに沢田さんにつかまってな、仕事を手伝わされてたが適当なところで抜け出してきた……待たせたな」
立花は「いえ」と軽く首を振って苦笑した。
「抜けてこられて何よりでした。僕じゃ、沢田さんにつかまったら終わるまで返してもらえませんからね」
藤本は「お前は容量が悪いんだよ」と返しながら立花の隣に座るとメニューを開いた。
「先輩、いまクリスマス限定のケーキがあるんですよ。すごく美味しくて、おススメです」
横からメニューを覗き込みながら立花が言うと、藤本は立花の手元にある食べかけのケーキをちらりと見て「では、それとブレンドをいただこう」とメニューを閉じた。
菱井が珈琲を淹れ、翠がシュヴァルツヴァルター・キルシュトルテを添えて藤本に出す。立花と同様、しばしケーキを眺め、フォークを刺し入れて一口分切り取り口に運ぶ。立花ほど顔には出さないが、食べながら笑みを浮かべていることから満足しているのが見て取れる。
珈琲で流し込むと小さくため息を吐いて「いいな」とぼそりと呟き、立花も「でしょう?」と嬉しそうに笑顔を浮かべ、自分もケーキを口に運びながら顔をほころばせる。
それから二人はしばらく職場のことなどを放しながらお茶を愉しんでいたが、不意に立花が思い出したように言った。
「そうだ、いつもお世話になってる先輩に僕からクリスマスプレゼント」
と、内ポケットから先ほど菱井から受け取った箱を取り出して藤本の前に置いた。
「お礼されるほどのことはやってないんだがな」
言って藤本は箱を手に取り「開けるぞ?」と伺い、立花がニコニコしながら頷くと藤本は丁寧に梱包を解いていく。箱を開けるとネックレスが入っており、2㎝ほどの、下方が僅かに尖った縦長の楕円形の輪郭で何かの木が彫られた金のトップが付いていた。
「健康のお守りです。いつまでも元気でいてください」
立花が言うと藤本は照れ臭そうにはにかんだ。
「あと……」
立花が続ける。
「それ、トップがロケットになってるんですよ。例の女性と上手くいったら写真撮って入れちゃってください」
そう言って藤本に笑みを向けるが、どこか陰りを感じる。静かに聞いていた藤本はネックレスに視線を落としてじっと見ていたが、顔を上げて立花に優しく微笑みかけると菱井に向き直る。
「店主、頼んでいたものを。梱包はしなくて結構」
藤本に言われ、菱井は丁寧にお辞儀をして退室する。皆が──特に立花が──戸惑っている中、菱井が紺色のリングケースを持って戻って来た。
藤本は菱井からリングケースを受け取り、蓋を開けると中には一対のプラチナと金で出来たシンプルなコンビリングが入っていた。一方はプラチナに縁どられた金のリングで、もう一方は金に縁どられたプラチナのリングで、どちらも不思議な色合いの赤い石が留められており、金に縁どられたプラチナリングの方がやや紫がかっていた。藤本はそれをつまみ上げると無造作に立花に差し出す。
「お前にやる」
「えぇ?いや、でも、それって先輩が彼女にプレゼントするものなんじゃないんですか?
なんで僕なんかに」
「いいんだ。むしろお前にこそ持っていてもらいたい」
立花は、指輪を差し出したまま動かない藤本を見つめてしばらく逡巡したが結局こわごわ指輪を受け取り、そして指輪に嵌った石を見て顔色を変えた。
「ちょっと先輩っ!これジェムクオリティのアレキじゃないですか、しかもブラジル産の!こんなの受け取れないですよ!」
叫ぶ立花を藤本はうるさそうにねめつける。
「四の五の言わずに持っとけ。それに、お前のピアスにも似合ってる……それを着けるときに一緒に着けてくれると俺も嬉しい」
言われて翠と有里子は立花を見た。そういえば、いつもはシンプルな地金のみのスタッドピアスを着けているのに、今日は指輪と同じような色合いの石が留まっているピアスを着けている。
「お前の気持ちは知っている。だが、俺もすぐにはお前の気持ちに応えてやることはできない……が、特別な友人としてなら受け入れてやれる……と思う」
そう言って藤本はカップで顔を隠すように俯き加減で珈琲を飲み、立花は困惑と嬉しさの入り混じった顔で話を聞いていたが、やがて指輪を持っていない方の手で拳を作って口元にあて、感極まった表情で目に涙をにじませる。
二人のやり取りを見守っていた翠は上気した顔で両手で口元を隠し、困惑した顔で藤本と立花を交互に見ていた有里子はやがて得心したように頷いて微笑む。始終ほほえみを浮かべていた菱井が二人に言った。
「閉店時間後に私たちだけでささやかなクリスマス会を開く予定だったのですが、クリスマスは家族や親しい者たちが集って祝うもの。どうでしょう、よろしければお二人もご一緒にいかがですか?」
立花と藤本は顔を見合わせる。
「お邪魔でなければ、喜んで」
「特に予定もないので、迷惑でなければ参加させていただこう」
二人が答え、菱井は頷くとアルバイトの二人に「ちょっと早いけれど、このままパーティを始めようか」と呼びかけ、料理を準備するために奥に消えていった。
有里子も「じゃあ、私は飲み物を用意してくる」と言って菱井に続いて奥に消えていき、店頭に誰もいなくなるわけにもいかなかったので、二人に仕事を任せきりにしたようで、少々いたたまれない気持ちと、色々聞きたいけれど聞くわけにもいかないもどかしさと、口では言い表しづらい高揚感に苛まれ、翠は複雑な表情を浮かべながらカウンターで固まっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
少し早めに閉店し、ローストチキン──菱井は「ガチョウが手に入らなかった」と一人で嘆いていた──にローストビーフ、フライドポテトにシュトーレン、そして翠が注文したバケツほどの大きさのパックに入った有名店のフライドチキンが所狭しと並べられたテーブルを、皆で囲んで歓談した。
やがて料理がかたずけられ、バニラキプフェルが添えられた珈琲が皆の前に置かれ、テーブルの中央には少し大きめなブッシュ・ド・ノエルが鎮座した。ココアクリームで丸太を模してコーティングされたロールケーキにはヒイラギを象ったチョコレートが添えられたブルーベリーとラズベリーが乗っており、それらはまるで計ったかのように、五等分に切られたケーキの上にそれぞれ平等にのっていた。
皆の前に切り分けられたケーキが配られると、立花がそれまで疑問に思っていたことを思い切って口にしてみた。
「けど先輩、いま聞くのもどうかとは思うんですけど、なんで俺に指輪をくれたんですか?前に言ってた女性とはどうなったんです?」
静かに珈琲を口にしていた藤本はちらりと立花を見ると、カップを置いて黙ったまましばらくカップの中を見つめていたが、顔を上げてなぜか菱井を見た。問いかけるようなまなざしに菱井が頷くと、藤本は静かに語るのだった。
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今回のジュエリー・アクセサリー
アレキサンドライトのペアリング
地金:プラチナ、金18kt
石:アレキサンドライト(オーバル、ブラジル産とロシア産)※ともにGQ
アレキサンドライトのピアス
地金:プラチナ
石:アレキサンドライト(ラウンド、ブラジル産)※JQ
またのお越しをお待ちしております
投稿頻度を上げられて読みやすくなるかもと小分けにしてみたものの、後半はやたらと長くなって更に分けることになり却って読みにくくなったかもしれませんね…。お話の作り方も含め、これからも精進したいと思います。
次回はこのエピソードに関連したものになります。もうしばらくこのエピソードにお付き合いください。