鬼神・鳳笙
深夜。
神社へと続く長い階段の下、整地された大きな広場がある。山の中の小さな神社になぜこんな大きな広場が必要なのかと思われるほどの広さだ。
その広場に松明が灯されている。階段の灯籠にも灯りがついていた。
その明かりがつくる影の中にうごめく、大小様々なモノ。
人ではないそれらが埋め尽くす広場の闇が、突然割れた。
階段から降りてくる何かを感じとり、敬意とともに、畏れとともに。
ゆっくりと、ゆっくりと、階段の1番上、神社の祭殿からそれは近づいてくる。
一足、下ろされた。
降りてくる。
神社を包む闇の中から、偉大な何かが。
山の中の小さなはずの神社が、姿を変えていた。
素晴らしく大きな、多くの社殿を擁する神々しい神の社に。
細く険しい、寂れた神社の古い階段は、広く新しい、しっかりした階段に変わっている。
闇を照らす灯籠の数も増え立派なものになっているが、それでも階段の両端を照らすだけで中心へは届かない。
その暗い中をものともせず、ゆっくりと、確かな足取りで降りてくるものがある。
広場のモノ達はうやうやしく頭を垂れた。
闇の中でその存在の強さを増し、光り輝く神。
鬼神・鳳笙。
国体が大きく変わった今も密かに国を守る帝より直々に名を賜わった、百鬼を束ねる鬼の王である。
その後ろには、鳳笙の2人の子どもが続く。男女の双子、修と紗羅だ。
「修羅王丸様だ」
「紗羅様もいる」
「何年振りだ」
「もう片手じゃきかん」
「6、7年くらいだろうか」
階段の下で物の怪たちがざわざわと騒ぐ。
ここ何年も夜行に顔を出していなかった双子の登場である。
2人の後に続く鬼たちの顔もどこか嬉しげだった。
鳳笙をはじめとする鬼たち全員が広場に降りてしばらく。
その姿を息を潜めるようにじっと見守る物の怪たちの前で、鳳笙は口を開いた。
「今日は良い月だ。みな、揃っているか」
様々な返事がそこかしこで上がる。それは声のようで、物音のようで、叫び声のようでもあった。
鳳笙はかすかに笑みを浮かべ、満足気に配下のモノ達を見やる。その長い銀の髪が月の輝きに映えて、まるで自ら光を放つかのように美しい。
「今宵は久方ぶりに子どもたちが夜行に参加したいと言ってきた。躾が行き届かず、邪魔になることもあるかもしれない。特に修羅王丸は元服を済ませているので、余計な真似をするようなら構わず厳しく躾けてやってくれ」
これに奇妙な笑い声が上がる。おそらく笑い声なのだろう、騒々しい音で広場が埋まる。
修は父の後ろで顔をしかめるのに失敗して笑い出した。伝わってくる物の怪たちの、鬼たちの感情が彼を歓迎している。彼らは彼の一部で、彼は彼らの一部だった。
「ではそれぞれ己の担当地区ごとに分かれよ。修羅王丸と紗羅は山門地区を回りたいそうだ。よろしく頼む」
「行って参ります」
修が頭を下げる。
「行って参ります、父上」
紗羅も頭を下げた。
「ああ。2人とも周りの言う事をちゃんと聞くように」
「はい」
「はい、父上。心配しないで」
紗羅の言葉に、鳳笙はしばし無言で娘を見つめる。
娘のほうも無言でまっすぐ笑顔のまま父親を見つめ返した。
先に目を逸らしたのは鳳笙のほうだ。
「頼んだぞ、篤樹、要」
「はい」
「承りました」
鳳笙の足元に跪いたのは、2人の今夜のお目付け役、鬼の一族の代表としてこちらで暮らしている兵頭家の、嫡男とその弟である。そして要のほうは修と紗羅の日常的なお守り役でもあった。
要は今夜は中学生の姿ではなく、本来の鬼の姿に戻っている。見た目は10代後半の凛々しい青年だ。
山門地区の集団の元へと向かう途中、早速そのお守り役の要が修に物申す。
「修、お前、その格好はなんだ」
「これ?」
修の服装はTシャツにジーンズ、その上に父親から貰った着物を羽織っただけという格好だ。
それを見たとき、母の美桜と紗羅は『予想以上だった』と一瞬言葉を失った。
「ダメだったか?」
「ダメに決まってるだろう! 久しぶりの顔見せなんだから、もっとこういろいろ、ちゃんとした服が用意されてただろうが!」
「着るのが面倒なやつばっかだった」
うなずいた修に要の怒りがヒートアップする。
「そういう感想を求めてるわけじゃなくて、なんでその格好なんだって訊いてるんだよ!」
「まあいいじゃないか。鳳笙様も特に何も言わなかったし。着る物で仕事するわけじゃないしな」
要を宥めたのは兄の篤樹だ。
「兄貴、戦闘になる可能性もあるんだから、そこはダメだと注意してもらわないと」
「まあまあ」
篤樹は笑ったが、要は頭が痛いとでも言うように額に手を当てている。
ちなみに父の鳳笙は確かに何も言わず、面白そうににやりと笑っただけだった。
「要先輩の服はちゃんとしててカッコいいね。それうちでは見たことない」
興味深げに前後から見回して紗羅が言った。
緌に闕腋袍、平緒に表袴、背には平胡籙の矢、腰の刀と弓は飾りではなく実用に耐えるものである。
「ああ。これは平安時代の武官の服だな。守る側が着る服だから、お前たちの家にはなくてもおかしくないな。当時は階級で色が決まってたらしいぞ」
「ふうん」
要は深い赤で、篤樹は同じ衣装でも色は黒だ。篤樹のほうが階級が上、という事であろう。
「紗羅は巫女服似合ってるな。あと、学校以外では先輩ってつけなくてもいいんだぞ?」
「うん、でも普段から言い慣れてるほうがいいかなって」
「そうか。まあ、好きにしろよ」
「うん」
山門地区担当の集団は、そばまで行くとわらわらと4人の周囲を囲むように集まってきて、何やらがちゃがちゃと物音を立てたりギャピギャピ鳴いたりと騒がしい。
けれど修も紗羅もそれを厭う事なく受け入れ、どころか楽しげな笑みさえ浮かべている。
それを見て要は、この2人が紛れもなく鬼の血を引いており、自らと同じ、人ではない生き物なのだと実感した。
双子の父・鳳笙は長い時を鬼の王として生きてきた。
その長い時の中で出会ったのが人の子の美桜である。
美桜を自身の花嫁と定め、この土地の神職として招いたのち、2人の間には子が生まれた。
それが修と紗羅だ。
鬼である鳳笙との結婚は通常とは異なる。
鳳笙は『扇』という家名を賜り、美桜が扇家の籍に入ってしばらくは、一緒に暮らすためともに人の世を離れていた時期がある。
生まれてすぐからこことは違う世界で育った双子は、この世界の人間に対して同じ生き物としての共感が薄い。
だが人間以外の生き物に対してはそうではなかった。
「あいつら、学校であんなふうに笑わないんだよなあ」
ぼそりと呟いた弟の言葉に、篤樹はその頭をぽん、ぽん、と軽く叩く。
「そういう時期も必要なんだろうさ」
誰もが最初から周囲と心地良く過ごせるわけではない。気の置けない、気持ちの良い関係というのはきっと作っていくものだ。
初めから器用に人とやっていけなくとも、もしかしたらずっと上手くやっていけなかったとしても、そうなのだと、そういう事もあるのだと知る事はきっと無駄ではないはずなのだ。
兄の篤樹の言葉で、要はしばらくは見守ろうと心に決めるのだった。