山門神事
ゴールデンウィークが終わる頃、門を撤去するための祭りが行われた。
当日はとても良い天気に恵まれ、休みの終盤という事もあって、旅行に出かけていた町民も戻ってきており、人出も多く屋台なども賑わっている。
燃えてしまった山門の家をまず取り壊し、そこに簡易の舞台を建てた。
舞が踊るのはその舞台の上である。
1ヶ月近く毎日練習を重ねたが、バレエのときもそうだったように、舞台に上がる前は緊張で震えがくる。
そんな舞を、扇家の双子が代わる代わる力付ける。
「舞ちゃん、これ」
紗羅に手渡されたのは、ドット柄の小さな匂い袋だ。
「ドットはね、空の星の模様なのよ。よく、虎とか龍とか、力を貸してもらうために身近に置いたり、お守りにして身につけたりするでしょう? 舞ちゃんは星と繋がっている人だから、水玉模様のものを身につけるといいと思うの」
紗羅はこうしてよく舞の事を、『天の星々と繋がっている』というのだが、正直なところ舞にはよく分からない。
紗羅以外には不明な部分が多いらしく、修や2人の母、ほかの神社関係者に聞いても首を傾げられるばかりだ。
だから舞は、分からないままに紗羅からそのお守りがわりの匂い袋を受け取った。
「ありがとう、紗羅ちゃん」
「どういたしまして。きっと大丈夫よ、太陽も月も地球も、たくさんの星が舞ちゃんの味方だから」
「うん」
分からないまでも、味方だと言われると嬉しくなるし、心強くもなる。
ましてやそれを言ってくれるのが人と鬼神の間に生まれた美しい少女となればなおさらだ。
紗羅はすっきりと晴れた爽やかな青空を見上げて、日差しに目を細める。
「昼間は結界を解除する。そして夜は……」
紗羅は舞に視線を戻し、小さくガッツポーズで笑った。
「頑張ってね、舞ちゃん!」
「うん!」
紗羅が舞から離れていくと、修がまだそばに残っていて、舞の手を取って微笑んだ。
「あそこの、神社関係者の席にいるから」
「うん」
舞も微笑んで返す。
この1ヶ月、いろんな事があった。
初めて学校に登校したさいには、知っている相手からも知らない相手からも悪意のある目で見られ、噂話の種にされた。
それに潰されずに済んだのは、尾弥神社の関係者と小学校からの親しい友人たちのおかげだ。
そして、特に双子の。
舞のクラスには顔見知り程度の人物しかいなかったため、最初は遠巻きに見られたものの、双子の知り合いだという少年少女らが舞に丁寧な態度で話しかけてくれ、なにくれとなく世話を焼いてくれたためいじめられるような事はなかった。
また双子も休み時間や昼休みは可能な限り舞のところへやってきていたため、何かしたくとも手を出せなかったという事もある。
だが実はこれに関しては、舞の知らぬところではあるが、西崎薫少年の涙なしには語れない並々ならぬ努力が影にあった。
舞の悪口を誰かが言っていると聞けば、行って話を聞いてやり、その短慮を嗜め。
舞に嫌がらせをしようとしている者がいると聞けば、行って体を張ってでも止め、その結果起こりうる凄惨な事件を語って聞かせ。
興味本位からかその繊細で柔らかな美しさに気づいたからか、舞に告白してその心を射止めんとする者あれば、行ってその愚かしさを殴って止める。
高見原中の平穏なこの1ヶ月は彼の苦労の証と言っても過言ではない。
祭が終われば、舞は紗羅と一緒に奥沢女子に編入すると決まった時、彼は天に向かって喜びの祈りを高く捧げたほどだ。
そんな彼の苦労を知ってか知らずか、このカップルは舞台に上がる階段の下、手を握り合い、見つめあっている。
その様子を見ていた件の西崎少年は、『世界は2人のために』とでも歌い出しそうだ、と今にも唾を吐いて捨てそうな様子でやさぐれていた。
「ほら、修さん! そろそろ行かないと!」
西崎が内心腹を立てつつも声をかけると、修はもう一言、二言。いや三言くらい言って、ようやく彼のそばまで戻ってくる。
そう、彼は賢明にも恋人たちのそばには近づかなかった。
「急がないと、人混みで始まるまでに辿り着けないかもしれませんよ」
「それはないな。俺が着席するまで始めるな、と言ってある」
「はいはい、そうですか。いいからもう、急ぎますよ。だからって待たせていいって事にはなりませんからね!」
本気で分かっていない様子の修の背を押しながら、西崎は急かす。
彼の苦労は今に始まった事ではないのだが、それでも違う道は無かったのかといつも思うのであった。
笙の音が響く。
舞台の真ん中に立っていた舞姫姿の舞は、ゆっくりと右足を出し、そこに重心を預けながら持っている扇でさやかな風を起こすように流れに乗せた。
バレエをやっていた時の体幹は、この4年でもうほぼなくなっている。
けれど、リズム感や動きの勘はまだ残っていた。
クラシック音楽と雅楽では違うことばかりだが、それを赤ん坊と言っていい頃から、あの忌まわしい年まで続けていた音楽のレッスンが助けてくれているような気がしていた。
本当は、そのどれもなんの役にも立っていないのかもしれない。
けれど、舞はそう思いたかった。
父や母が、今日この日のために舞に様々なものを与えて育ててくれていたのだと、両親の思いは無駄にはなっていないのだと、そう思いたかった。
ひらり、と扇が舞う。
舞衣の羽根がきらきら光る。
天から光が降ってくる。
集まった人の中に、瑠花と麦穂の顔を見つけた。
一緒に、小学校時代のクラスメイト達の顔も見える。
瑠花の隣には麦穂ともう1人、みんなから『委員長』とあだ名されて慕われる少年がいた。
瑠花は彼の事が好きで、一緒の中学に通いたかったのだという。
麦穂にそれをバラされたとき瑠花は真っ赤になって否定していたが、『ダブルデートを計画してたのに』と悪戯っぽく言われて、真っ赤な顔のまま口を何度も開けたり閉じたりしていた。
それがおかしくて、楽しくて、不思議だなあと思う。あんなに嫌いだったのに。今は多分、かなり彼女の事が好きなのだ。
別の場所に、朗司を見つけた。
今日は友人と待ち合わせをしていると言っていたから、周りにいる人たちがそうなのかもしれない。
朗司を中心に高校生の男子が数人固まっている。
意外と面倒見の良い朗司は、学校でも人気者らしい。
瑠花も奥沢女子で友人が何人かできたと言っていたので、もしかしたら2人とも、人が周囲に集まってくる天性のオーラでも持っているのかもしれない。
おばの姿はなかなか見つからなかった。
神社関係者の席に呼ばれていたが、関係者というほどではないからと断っていた。
朗司も瑠花もそれぞれ友人たちと約束をしているというので、1人で見に来ているはずだ。なぜか舞は、おばが絶対に来てくれていると確信していた。
言葉のきつい人で、性格も多分きついし、割と傍若無人なところもある人なのだが、付き合い方が分かれば気にならなくなったような気がする。
朗司が言っていたが、1つ1つの言葉を気にせず『何となくこんな事を言っているんだろうな』と、ふわっと受け止めればいいのだと。
言葉の形をいちいち気にして傷ついていてもしょうがない。
言われたときは、本当にそれでいいのかと思いもしたが、おばが怒っているわけでも舞を傷つけたいわけでもないのなら、きっとそれでいいのかもしれない。
多分、重要なのはそこなのだ。
『この人は、自分を傷つけない』。
その信頼さえ間違えなければ、言葉の形の多少の歪さも鋭さも、笑って聞き流せる。
ケンカしているように見えるやり取りさえ、たとえそのときどんなに腹が立ったとしてもじゃれ合い程度なのだろう。
もしかしたらそれでストレスを解消している部分だってあるのかもしれない。
羨ましいな。と舞は、ふふ、と微笑んだ。
ふわりと上げた腕と一緒に袖がひるがえる。
視線を落として、ゆっくりと回りながらまた上げていく。
すっかり緑になった葉桜の下。
あの火事の夜、満開の桜の下、スリッパのまま走ってくるおばを見た、あの木の下。そこにおばが数人の女性と立っていた。中には麦穂の母もいる。
品の良いスーツを着て、帽子を被って、まるで怒っているかのようなきつい視線でこちらを見ている。
いや、あれはもう睨んでいる。
思って、舞はさらに笑った。
今では分かっている。
おばは今、舞が失敗して泣くのではないかと心配しているのだ。そんなことのないように、頑張りなさい、ほらしっかり!と応援の念を送っている。
それが怖い顔になっている原因なのだと。
知り合いの中で笑っているおばはとても優しい顔をしているのに。
強い人なのだ。そしてとても誤解されやすい。
そして。
きっととても傷ついている。
だから言葉がきついし、態度もきつい。そして厳しい。
傷ついた自分を守るため。傷ついても大丈夫だと証明するため。
おばは川先のおじと離婚が成立した。
だから本当はもう、彼女は舞にとって『おば』ではない。血縁ではないからだ。
以前から話してはいたそうだが、決定打はおじの浮気が発覚したからだと聞いた。
それを聞いた朗司は、以前から知っていたかのように興味もなさげに肩をすくめただけだったそうだが、瑠花のほうは酷かったらしい。
思春期の娘にとって、親の不貞はけして許せるものではない。
瑠花は激怒して、父親に殴りかかりそうになったところを朗司に止められ、『もう2度と親とは思わない』と絶縁状を叩きつけたと聞く。
気性の激しい瑠花の事だ。おそらく、本当に許す事はないだろう。何十年か先に哀れな様子の父に頭を下げられて、それでも普通に許すとは考えにくい。
人の根底の部分はそう変わらない。瑠花はその根底の部分で今回、父親を切り捨てたと舞は感じた。
この話を舞に最初に聞かせたのは菖蒲の母の弥生だったが、そのとき不思議な事を言っていた。
『これで雅さんも2人のお子さんも、あの一族とは完全に縁が切れますね』
やけに嬉しそうにそう話していたのが印象に残っている。
おばは旧姓に戻り、朗司と瑠花もおばについてそちらの籍に入った。
そのため言っている事はその通りなのだが、なぜか違う響きに聞こえたのだ。
その違和感を舞は上手く言葉にできなかったため、特に確認はしていないが。
舞は、くるり、くるり、と裾をはためかせて回る。
1つの笙の音がのびやかに響いてくる。いくつかある中でも特別なものだ。
あの笙は、修と紗羅の父が新しい名を与えられたとき一緒に授けられたものなのだそうだ。
尾弥神社の関係者席に、ずらりと並ぶ顔。
修と紗羅、その母の美桜と、弥生。他にもこの1ヶ月で親しくなった人たち。
今の、舞の家族。
修がにこにこと笑ってこちらを見ている。次に紗羅と目が合って、彼女は嬉しそうに大きく手を振ってきた。それを後ろから要さんに嗜められている。
結界とか、封印とか、天の星とか、難しい事は舞にはよく分からない。
思うのは、舞の両親と姉のことも助けて欲しかった、という事だけ。
だから、今目の前にある大事なものが全て守られてほしいと思う。
幸せに、大切に。
舞自身も含めて、全てが守られればいい、そう願う。
誰カラ?
そう訊かれた気がした。
上の方から。
演舞の手順に合わせて空を見る。
そこには、黄金の光を放つ、2羽の大きな鳥がいた。
ゆったりと、優雅に空を舞うその動きは、舞と、楽の音と重なり合うかのようだ。
何カラ?
再び問われて、舞は答えた。
闇から。
全ての心の闇から。
世界の闇から。
承知シタ。
その言葉とともに、鳳と凰は大きく羽を広げて羽ばたかせる。
空に、半円状の天蓋の手触り。触れてもいないのに、なぜか舞はそれを感じた。
ピシリ、とヒビが入る。細かい、細かいヒビが。
楽の音に合わせて舞い続けていると、空から音もなく割れて降り注ぐものがあった。
薄い、薄い、緑の透き通るガラスのような、それ。
降り注ぐ結界のカケラは、集まった見物人たちの中に消えてゆき、そしてそれぞれの守りとなる。
その存在が守るものとして作られたが故に。
結界を解いた舞手がそう望んだが故に。
結界を解いた2羽の鳳凰がそれに応えたが故に。
楽の音がしだいに細くなり、かすかになって消えてゆく。
高見原町の山門を入り口とする結界が今日、消えて無くなった。
本日は2話投稿いたしております。
次話で完結となります。




