失くしたもの
舞と一緒に尾弥神社へとやってきた雅は、神主であるという女性に挨拶をし、2人で長い時間話し合ったあと、舞に「また明日来るわ」と約束して帰って行った。
明日、学校に戻る前に一緒に挨拶に行くというのだ。
無理をせずとも、そういった事は弥生をはじめ神社の人間が引き受けると言われていたが、雅は頑として聞き入れなかった。
「離れて暮らすからといって、この子がうちの子であった事に変わりはありません」
そう言い切って。
おばを見送ったあと舞は、神社から少し離れた場所にある古くて広い住宅の一間を与えられ、畳の匂いと建物の古さにどこかホッとしたものを感じていた。
畠中にある川先の家はとても綺麗で、瑠花と仲良くなり始めた今では、特に居心地が悪いと感じる事もなかった。けれど、生まれてからずっと過ごしたあの山門の古い家を、ここは思い出す。
心なしか、初めての場所にも関わらず懐かしささえ感じる気がして、気づけば舞は畳の部屋の真ん中に座り込み、ぼんやりと天井を眺めていた。
けれどその天井も何もかも、やはり以前の住まいとは間違いなく違っていて。
ぽろり、と涙がこぼれた。
もう、帰れない。
なくなってしまった。
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、みんなで住んでたあの家。
楽しかった事がいっぱいあった。嬉しい事がいっぱいあったのに、全部全部なくなってしまった。
1つ思い出せば、堰をきったように様々な思い出が蘇る。
こぼれ出した涙は溢れて止まらず、ついには舞は声を上げて泣き出した。
「舞ちゃん」
閉じた襖の向こうから声がかかる。紗羅だ。舞は泣きやまなければと焦ったが、涙は止まらない。
「どうしたの? 舞ちゃん、いないの? 開けるよ?」
待って、と言いたいが声が上手く出せそうになくてためらった。
紗羅がすい、と襖を開けた。そして泣いている舞を見て血相を変える。
「舞ちゃん!? 何があったの!? 誰かに何かされた!?」
「ち、ちが……」
舞は慌てて涙を拭くが、紗羅が駆け寄ってきてその手を押さえる。
「無理にこすらないで。今ティッシュ持ってくるから、待ってて」
立ち上がって部屋を出て行った紗羅と入れ替わるように隣に座ったのは修だ。
舞の頬に触れて涙を拭うと、そっと頭を引き寄せて抱き締める。
「大丈夫、大丈夫だ。ここにいる。何も心配しなくていい」
穏やかな声でそう言われ、舞はまたぼろぼろと涙をこぼす。
しゃくりあげ、先ほどより大きな声を上げて泣きながら、舞は修の胸にしがみついた。
「思い、出して。燃えた、山門の家のこと。まだ見てないの。どう、なったのか。もう、もう帰れないって思ったら、死んだみんなのこと思い出して」
「そうか。辛かったな」
途切れ途切れに話す舞の言葉に修は、そうか、そうか、と相槌を打つ。
その間、彼の腕は舞を守るように抱き、優しく背中を撫で続けていた。
「もう、会えない、みんな、みんな、あそこにいたのに、みんないなくなっちゃった……!」
紗羅は1度戻ったが、舞の頭を撫でるとティッシュの箱を置いて部屋を出て行った。音を立てないよう、そっと襖を閉めて。
しばらく2人きりの部屋でそうしていたが、次第に落ち着いてきた舞が小さく言葉を発した。
「いなく、ならないでね」
修が腕の中の舞を見ると、舞は泣き腫らした目で修を見上げる。
「いなくならないで、お願い」
死なないで。わたしより先に死なないで。どこかに行ったりしないで。
もう誰かを見送りたくはなかった。
嘘でもいい、いなくならないと、ずっと一緒にいると、そう言って欲しかった。
自分より先に死んだりしないと。
「舞」
「怖いの。お願い、一緒にいて、いなくならないで」
腕の中で震える舞を、修は強く抱き締める。そして。
「いなくなったりしない。俺は、俺たちは、人間じゃないから」
舞は言葉も忘れて、まじまじと修を見た。
修が、舞の瞼に口付ける。
顔を寄せられて、舞は反射的に目を閉じた。唇が離れる感触に瞳を開けると、そこには鬼がいた。美しい鬼。
プラチナの輝きを放つ、2本の美しい長い角。今まで黒だった瞳は銀の清らかな光で彼女を捕らえようとしている。
彼の、彼らの美しさはまさしく人外のものであったか、と納得がいった。
舞は、安心したようにようやく涙をとめて微笑んだ。
「良かった」
「いい、のか?」
「うん、良かった。鬼なら、わたしより先に死んだりしないよね? 大丈夫だよね?」
「ああ。大丈夫だ。ずっと、ずっと一緒にいる」
「良かった」
心の底から安心したような笑顔に、修は頬を寄せ、唇を寄せる。
言わなければ、と思っていたのだ。
自分が鬼であること、人ではないこと。
これまでの事から、普通の人間ではないと分かってはいるだろうが、まさかこの現代に鬼などという非現実的な話をしてすぐに受け入れられるとは思っていない。
だから、弱り、傷ついた彼女の心がただ救いを求めているだけだったとしても、修は拒否されなかった事が嬉しかった。
これから先の長い生涯、必ず守り、幸せにすると。
舞の不幸につけ込むような告白であった事を帳消しにして余りある幸福をプレゼントすると、そう心に誓った。
腕の中には、かぐわしい魂の彼女。
どろりと、欲望が腹の下で渦を巻く。
オレンジを思わせる、爽やかなような甘いようなその香りに、本能が叫びを上げそうになる。
喰いたい。
この細い腕をつかみ、小さな体を組み伏せて、思う様蹂躙したい。泣かせたい。
その欲望を抑え込み、修は舞の肩に顔を埋めた。体の周囲全てを包み込む彼女の香りを吸い込んで、胸がさらに高鳴る。
くらくらとするような酩酊感。
頭がおかしくなりそうだ、と思ったそのとき、廊下から紗羅の声がした。
「大丈夫? 入ってもいい?」
いいわけがないだろう、放って置いてくれ。
そう言いたいのを修がぐっと我慢すると、かわりに舞が返事をする。
「ごめんなさい、もう大丈夫」
すっと襖を開けて紗羅が顔をのぞかせた。
「落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
「良かった。おなか空かない? 母さんが一緒にお茶とお菓子をどうぞって」
「ありがとう、すぐ行くね」
紗羅が行ってしまっても、修は舞を抱きしめたまま動かなかった。
「あの、ね、もう大丈夫だから……」
俺が大丈夫じゃない。
泣きたい気分で修はさらに強く舞を抱き締める。
「え、ええと」
「もうちょっと」
「もうちょっと?」
「もうちょっとだけ」
言われて、舞は修の背中に腕を回した。
もうしばらく、この時間が続けばいい。そう思いながら。




