香坂
舞は説明を受けて、今日から神社に移りたいと答えた。
おじとはできる限り顔を合わせたくなかったのだ。
身の回りのものをまとめに舞が自身の部屋として使っている客間へと移動すると、雅は弥生に頭を下げた。
「どうぞよろしくお願いします」
「お預かりします。奥沢女子への編入の件は、落ち着いたらまたお話するという事にさせていただきますので、その時はまた改めて」
弥生も丁寧に頭を下げる。
この女性に罪があるとは考えていない。
舞が手荷物1つのみを持って戻ってくると、弥生はもう一点、と話し出した。
「舞さんがお持ちの山門の土地は、わたくしどもの神社で買い取る事になると思います。もちろん、舞さんの気持ち次第ですが、門を撤去したあと、尾弥神社の分社を山門に立てたいと考えておりますので。舞さんご自身は、山門のあの土地をどうしたいとお考えですか?」
訊かれて、自分でも不思議なほどにあの土地に執着がない事に舞は気づいた。
家族と過ごした建物があればまた違ったのかもしれないが、もうほとんど焼けて取り壊すしかなくなっているという。
また家を建てるのもすぐには難しい。
だが住まいが無くなるのは心細かった。
「土地は残しておいてもいいのよ。落ち着いたらまた一緒に住めばいいんだし」
雅がそう言って、売らなくても良い、と舞を気遣ってくれる。
また一緒に住む事も以前ほどには嫌ではなかった。
舞がこくん、とうなずくと、弥生が提案をしてくる。
「土地の全てを売るのではなく、一部だけにしておく事も可能ですよ」
「……少し、考えさせてください」
「ええ。大丈夫です、分社を建てるのは10年か20年先でかまわないので。舞さんが結婚する頃に考えても問題ない事です」
弥生に言われて、舞は赤くなった。
この人は、自分と修の事を知っているのだろうか、そう思って。
「そのときは尾弥神社で盛大な神前式を挙げさせていただきますね!」
やけに張り切った笑顔になる弥生に、雅は少しおかしなものを感じたが、遠いとはいえ血の繋がりがある子どもだからか、と疑問を流す。
その隣で舞がさらに顔を赤くしていた事には気がつかなかった。
今日は本来なら舞と瑠花、2人の制服を注文しに行く予定だった。
だが雅はその予定を後に回し、神社へ挨拶に行く事にした。
瑠花を家に残して、舞はおばと2人、弥生の運転する車に乗る。
運転中、弥生はご機嫌な様子で舞に話しかけた。
「わたしには2人子どもがいるんです。1人は男の子で、もう家を出てしまいましたが、下の娘は舞さんと同じ学校に通っています。菖蒲といって3年生です。後ほどご紹介させていただきますね」
「はい」
弥生は本当に嬉しそうに話を続けた。
「舞さんが神社に住む事に決まって、きっと修くんと紗羅ちゃんは喜びますね」
「え」
「お2人は尾弥神社の跡取りなので、みんな2人の大切な友人だという舞さんがどんな方か、とても楽しみにしているんですよ」
神社の跡取りと聞いて、そうなのか、と舞は双子の顔を思い浮かべる。確かに神秘的なところのある2人だ。そういえば2人の事を何も知らない、と舞は不思議な気持ちになった。
今、おそらくは舞にとって1番親しい存在なのでは、と思われる双子。だが彼らの事を舞は不思議なほど何も知らない。
そんな舞を見ながら、弥生は笑みを浮かべた。
そして心の中で快哉を叫ぶ。
ようやく、と。
ああ、そうだ、ようやく。ようやく、あの一族を根絶やしにできる。
にやり、と内心で鬼の笑みを浮かべながら、弥生は尾弥神社へと車を走らせた。
弥生の曾祖母は山門家の出身だ。
だが県外の香坂家に嫁いだ事もあり、実家とはあまりやり取りがなかったらしい。
香坂の家で事故や不幸が続くなか、祖父母は神社でお祓いをしたさい「高見原の尾弥神社へ行くように」と言われた。
そこで祖父母が聞かされたのは、曾祖母の実家である山門家にかけられた、一族の血を絶やす呪いの話だ。
最初は半信半疑だった祖父母も、その後もさらに立て続けに起こるトラブルや不幸に、何か助けがあれば、と藁にもすがる思いで再度尾弥神社へ出向いたという。
当時、尾弥神社の神主は老齢の男性だった。
彼は『人にその呪いを解くことはできない』とした上で、一族の中から誰か1人でもこの神社で働く者がいれば呪いから守られると告げた。
神の庇護下に入る事で、一族にその恩恵を繋げる事ができる、と。
だが、その1人にとってはその後の人生を左右する事である。
簡単には決められないだろうから、とその日は返された。
そして家族で話し合った結果、山へ入る事になったのが弥生だ。
彼女はその頃、世界の全てを憎んで生きていた。
神社の話など関わりにもなりたくなかったし、母から必ず聞くべきだと何度も強く言われなければ参加などするはずもないほど憔悴してもいた。
曾祖父母には多くの子どもがいたが、現在、家を継ぐ長男の子どもは弥生1人。
弥生は早くに婿養子を取り、幾度も流産を繰り返し、苦労のすえなんとか長男に恵まれたが、赤ん坊は原因不明の難病で死亡、その後、夫は息子の後を追うように職場の事故で死亡した。
なぜ自分ばかりが、と世の中を恨む気持ちも強く、ここしばらくは全てを拒絶して家に引きこもっていた。
だが祖父母の話を聞いて、ならば自分が行くべきだと考えたのだ。
働いてもいない、夫も子もいない、そんな自分なら山奥の神社で働く事になっても問題ない。
何より、本当にそんな呪いが存在するのなら、自分の親族が生きて幸せになる事が1番の復讐になると、そう思った。
曾祖母から流れる山門家の血を絶やす、ただそれだけのために自分の夫も子どもも犠牲になったのだとしたら。
どんな事をしてもその呪いを断って復讐してやる。
弥生はここへきてようやく、怒りを向ける相手を見つけたのだ。
正直、祖父母だけでなく、弥生自身も半信半疑だった。
今のこの時代に呪いなど、口にするほうが頭がおかしい。考えるまでもなく、相手になどする必要がない。
本来なら詐欺の類いを疑ってかかるべきで、神職の言う事だから、と鵜呑みにするのは愚かしいの一言だ。
だが、言われてみれば何かがおかしいのだ。
難病、精神病、生まれついての病弱、事故、自殺。他殺こそないものの、詐欺師や悪意のある人間につけ込まれて金銭を失う事の多さ。男運、女運の悪さ。仕事運の悪さ。真面目な者が真面目に生きても悪運がつきまとい、働いても働いても生活が良くならず、ようやく上向いたと思ってもまた下がる。
子どもたちはうまく育たず、あるいはそもそも生まれない。特に男児が生まれない。どころか妊娠する者さえ稀だった。
なんとかしようと頑張っても、結局うまくいかない。
香坂家はもうずっとこんな感じだ。
努力が実を結ばない。ささやかな幸運は続くことなく再び悪運に悩まされる。
いつもお金がなくて、でもそれをなんとかギリギリで乗り切って、貧乏が身についてしまって体から離れない。
弥生の子どもと夫の死は、これは絶対に何かがおかしい、いくらなんでも不幸がこんなに続くはずがない、と香坂家と親族に危機感を抱かせた。
みんな心のどこかで分かっていたのかもしれない。
この異常さはどこかに発端があると。
普通ではない何かが関わっていると。
弥生は尾弥神社に居を移した。
そしてその日のうちに呪いの説明を受け、尾弥神社の祭神である鳳笙と引き合わされる。
この世に存在するはずのない「鬼」。
人間とはあらゆる意味で存在が根底から違う「神」。
それを目の前にして、弥生の考え方やものの見方が根本から変わった。
その神が、弥生に問うた。
『尾弥に仕える事を誓うか』と。
弥生は『誓う』と答えた。
代わりに一族に庇護を、と。
今は呪いを解く事はしない、だがその時が来たら、呪詛を送った者らは必ずその報いを受ける。
鳳笙はそう告げた。弥生にはそれだけで十分だった。
いつか必ず、その連中は罰を受ける。
ならば、今は香坂とその一族が守られるだけで満足だ、そう思った。
その後、資格を取り正式に神職となったさい、鳳笙は弥生を労い、そして訊ねた。
『何か望みはないか』
神職となるため多くの事を学んでいた弥生は、ただ1つだけ、と鳳笙に願い出た。
『1つだけ、願いがございます』
『なんだ、言ってみろ』
『呪いをかけた人間は、家が絶えるよう、子どもが生まれないよう、家族の愛情が育たず互いを嫌い合うようにした、と聞きました』
『そうだな』
『運が上向いたときにはさらに不幸を呼び寄せ、絶望して生きる気力を削ぐ。当初はそうして家を絶やすだけだったものが、今では家を出た者たちにも影響していると』
『ああ、そうだ』
『それは、山門から入った血を引く人間を、1人残らず殺す、殺し切るまではその呪いを終わらせるつもりはない、という事ですよね?』
『そうだ』
『ではわたしも解呪のため、この呪いに関わる者が1人残らずこの世から消え去る事を望みます』
『なるほど』
鬼神はおもしろそうににやりと笑った。
『この呪いが2度と復活することのないよう、呪いを行う者が、それを助ける者が1人残らずいなくなる事をお願い申し上げます』
くっくっく、と鬼神は笑う。
『お前は、自分が言っている意味がわかっているのだろうな? もちろんその覚悟もあるという事か?』
『はい』
呪詛者は1人ではない。一族とその関係者だ。
そして、その大人数で山門家の血を引く人間を根絶やしにしようとしている。
だから、人間にはこの呪いは解く事ができない。
それは数の暴力だからだ。
そしてただ呪詛を破壊するだけではこの問題は終わらない。
相手がその呪詛の報いをいかに受け、いかに絶望しようとこの問題は片付かない。
呪詛師となる可能性がある者、そしてその者を助ける者、それら全てを根絶やしにして初めて、この呪いは解決となるのだ。
これは、被害者が訴え出て、その罪の清算を望んで、そうしてようやく進む、当事者の罪への応報。
罰だけでは足りない。全然足りない。
死んでいった者、不幸と絶望の中に死んでいった者たちの苦しみと怒り。
呪いを知れば知るほど、罰では全然足りない、と思うようになった。
そして呪いも完全に消えはしないのだと。
弥生自身の覚悟が試されている。
お前は自分が口にした事の意味を理解しているか、と。
理解している。
完全に理解している。
相手は弥生たち山門の血を引く人間を1人残らず殺したいのだ。山門家に限らず、香坂家に限らず、山門から嫁いでいった多くの女たちとその子孫全て、血の最後の一滴に至るまでを。
そしてそれは世代を継いで受け継がれて行く。
今の統率者が死ねば、次の統率者が。
山門の血が存在する限り、この呪いは永遠に続く。
あるいは、呪詛者の子孫が存在する限り。
だから弥生は選んだ。
────どちらかがこの世から消え去らなければならないのなら、相手に消えてもらう。
不倶戴天。
鬼の神は弥生の言葉を聞いて、輝かんばかりに美しいその面に満面の笑みを浮かべたのだった。




