訪問者
次の日は朝からずっと小雨が降っていた。
しとしとと静かに降る雨に、舞は以前誰か言っていた『桜流し』という言葉を思い出した。
先日の雪でわずかに残っていた桜もこれで今年は終わりとなるのだろうか。
洗濯機を回して居間へ戻ると、庭へ出る窓のガラスから外を見て、そんな事を思う。
キッチンからコーヒーの香りとともにやってきたおばの雅がソファに座り、小さくため息をついた。
「今日は予定がいろいろあるっていうのに、嫌な雨ね」
おばの言葉は相変わらずキツいようだが、不思議と以前ほどには刺々しく聞こえない。
おばが疲れているからだけではなく、舞の気持ちも変わってきているような気がした。
そこへ瑠花がトレイにティーポットとカップ、クッキーを乗せて入ってくる。
「舞ちゃーーん、紅茶淹れてきたよーー。クッキー食べるでしょ?」
「うん、ありがとう」
舞が瑠花の隣に座って紅茶とクッキーのお皿を並べるのを手伝っていると、その様子を見ながらおばがしみじみと呟いた。
「あんたたちも、ずいぶん仲良くなったわねえ」
「なにママ、どうしたの」
「良かったわって話よ。じゃあ舞、奥沢への編入、進めていいわよね?」
「はい、大丈夫です」
答えて舞は、あの双子のことを思い出した。
2人と一緒の学校へ通えないのは悲しいが、昼間はそうでなくても夜は会えるわけだし……、とそこまで考えて真っ赤になる。
「舞? 顔が赤いわよ。熱があるの?」
「疲れたのかな。ここのとこいろいろあったもんね。寝とく?」
「ううん、何でもないの、大丈夫」
慌てて両手と首を降る舞。
まさか昨夜のキスの事を思い出したとは言えない。
「瑠花、念のため体温計を……」
雅が言いかけたとき、玄関のチャイムの音がした。
訪問があるには早い時間だが今朝1番に電話があり、舞の今後の件で話がある、と訪問の約束をしている相手がいる。
午後は予定があるため、午前中なら、と伝えたが、思ったよりも早かったので3人は顔を見合わせた。
別の客では、とそれぞれが思ったようだった。
「誰かしらね」
そして立ち上がるとインターホンへと向かう。
舞と瑠花は紅茶を飲みながら雅の後ろ姿を見守った。
しばらくするとおばが舞を呼んだ。
「高見原の神社の方よ」
淡々と話すおばの声には、やはり以前のような棘がない。それを嬉しく感じる自分に気づきながら、舞はおばのそばへと行って答える。
「お迎えに行きます」
「そうね。わたしも行くから一緒に来てちょうだい。瑠花! お客様用のお茶とお菓子を出して」
「お客様用のはまだ買ってないわよ、ママ。普通のでいい?」
「仕方ないわね。こんなときだもの、許してもらいましょう。明日晴れたらそれも買っておいてちょうだい」
「はーーい」
瑠花は最後に、とばかりにクッキーを1枚、口に放り込んで立ち上がった。
神社とはやはり尾弥神社の事だった。
以前、火事のさいに会った女性ではなく普通のスーツを着た女性で、雅より年が上のようだ。
差し出された名刺には『尾弥神社 香坂弥生』と書かれていた。
彼女はソファに座ると火事の見舞を述べ、そして早速用件に移った。
「実は今度、わたくしども尾弥神社では山門の老朽化に伴う撤去と、その神事を行う予定でおります。つきましては、長く高見原とそこに住む人々を守ってきた関所役の山門一族、その子孫である舞さんに神事にご参加いただきたく、お願いに参りました。大変な中とは存じますが、わたくしどもに一時舞さんをお預け願えませんでしょうか」
これを聞いた雅は表情をわずかに硬くした。
「それはどういう事でしょうか?」
「何かお気に障りましたでしょうか」
弥生は雅の様子など全く気にもかけず微笑む。
「神事の話は分かりました。山門家の人間が参加する必要も理解できます。ですが、なぜこの子をそちらに預けなければいけないのですか?」
「神事には覚えていただかないといけない事や、舞なども必要になりますので、その練習のため、という事になります。学校に通うのにも神社からのほうが近いですし、舞さんのためにもなるかと思いまして」
「うちの舞はまだ12才です。1人で親族もいない場所にやらせるわけにはいきません」
「そうですか。ですが学校はどうなさるのです?」
「このうちから近い奥沢女学館へ編入させます。神事への参加については、練習の必要のない、簡単なものだけにしてください」
「なるほど。わかりました、では、奥様と2人だけでお話しさせていただけますか?」
「なぜです?」
「あまり子ども達の前でする話でもないと思いますので」
雅は黙ったあと、舞と瑠花を居間から出ていくように言った。
「それで」
紅茶に口をつけると、雅は普段の外面の良さをかなぐり捨てて相手の女をじろりと睨んだ。
「子ども達に聞かせたくない、というのはどういう話でしょう?」
弥生は雅の視線を受けて穏やかに微笑む。
「先日の火事、警察の捜査が入っているそうですね」
雅はこれに答えなかった。
火事の後、あまりに火の回りが早いという事で、消防と警察の調査が入った。乾燥警報が続いていたとはいえ少しおかしいとの話だった。
この日、山門にある家には雅のほかは3人の子ども達だけだった。
雅の夫の川先は、朝から他県へ泊まりがけで仕事に行くと言って出ていって帰ってきていない。
火事があったと伝えても数回電話で話したきりで、戻りは明日になるという話だった。
ここ数ヶ月は離婚に向けて話し合いが進んでいたこともあり気にはならなかったが、大変な中、頼りにしていいはずの夫が不在というのはかなりこたえた。
朗司と瑠花はあまり愛情を感じられない父親との事でもあり、薄々何かを感じ取ってはいるようだが、それに触れようとはしなかった。
そんな中だ、警察の捜査が始まり、山門にいた4人全員が疑われている事を知ったのは。
特に舞はその日の夕方、商店街のパン屋で大声を上げたことで精神疾患と自殺を疑われている。
心が壊れて、衝動的に火をつけ、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのではないかと。
信じたいし、守ってもやりたいが、こればかりはどうにもならない。
せめて早く隣の市へ通わせてやれば、嫌な思いをしなくてもすむかもしれない、と考えていた。
おそらくその事だろうと2人を部屋から出したが、一体何を言うつもりかと腹が立った。
「ご安心ください。わたしはあなたの味方ですよ」
は?
雅はもともと人相の良いほうではない。美人の部類に入るが、キツい顔立ちの美人、とよく言われる。
そのため常日頃から、愛想良く笑顔で、他人にはこちらから話しかけるようにしていた。
だが今日は、お世辞にも好意的な表情や対応をしているとは言い難い。
それがさらに1段階、不機嫌さと拒絶感をました。
「ご主人とは離婚する方向で話し合いが進んでいるそうですね」
「だからなんだと言うんですか」
「なぜ離婚などという事に?」
「それは今ここで話すべき事ですか?」
「明日には県外からお帰りになると聞きました。そのとき、舞さんはこの家にいても問題ありませんか?」
弥生の表情は一貫して変わらない。底の読めない静かな笑みをずっと浮かべている。
気持ちが悪い、と雅は内心で舌打ちをした。
舞はここ2、3日、これまでにないほど落ち着いている。そこへ夫が帰ってきたら、また元のように怯えて挙動不審になるのではないかと雅は案じていた。
夫は付き合いやすい人間ではない。
結婚する前は、金持ちで、権力もあり、多くの会社を経営する人当たりの良い穏やかな人物だと思っていた。
こういう人と結婚すれば幸せになれるのだろうと。
実際は違った。
支配的で外面ばかりが良く、妻や子ども達を無闇に威圧して愚かなままにしておきたがる。雅が結婚したのはそんな最低な人物だった。
それでも、伴侶として選んだ相手であり、金銭的な不足による苦労をさせられる事はないのだと思い、雅は夫のモラルハラスメント紛いの人間性を黙って飲み込んだ。
どこの家庭でもあることだと。
浮気や借金に悩まされず、子ども達の教育にお金をかけることのできるいい父親だと。
だが、舞に関してだけは我慢できなかった。
自分で引き取ると言っておきながら、一緒に暮らす事を良しとしない。しかも顔を合わせれば自尊心を傷つけて心を痛めつけるような言動をする。
おかしいと思う事はこれまでも多々あったが、見ないふりをし続けてきた。
しかしそれももう限界だと、離婚を進めている最中だったのだ。
「何を仰っているのか分からないのですが」
「ご主人が舞さんに辛く当たっている事は奥様もご存知でしょう?」
雅はこれには答えない。弥生はかまわず続けた。
「舞さんを当社でしばらくお預かりします。ご夫婦の話し合いが終わるまでは、舞さんはこちらにいないほうがいいと思います」
「……そちらがあの子を預かる理由がありません」
いきなり現れた赤の他人に、4年も家族として過ごした子どもを物のように手渡せるわけがない。
頑なな雅に、紅茶を飲みながら弥生はにっこりと返した。
「ありますよ」
それにどういう事か、と雅が黙って見返すと、弥生は続ける。
「わたしの曾祖母は舞さんの曾祖母と姉妹でした。舞さんのお父様とは三いとこにあたります。川先さんのほうで舞さんを引き取りたいと強く仰るので、血筋としては遠いわたくしどもは引きましたが、その川先さんが舞さんに辛く当たっているというなら話は別です」
弥生の笑みがひんやりと冷たいものに変わった。
「あの男と別れるのなら手伝うとお約束いたします」
しばし沈黙したのち、雅はようやく返事をした。
「舞に話してみて、意見を聞きたいと思います」




