家族
「梯子をもう1つお願いします! 反対側の窓に舞ちゃんがいるんです! 部屋から出られないの!」
1番最初に梯子を使うよう言われた瑠花は、降りると同時にそばにいた男性の腕を掴んでそう頼み込んだ。
だがそれは却下される。
「梯子は1つだけだ! 上の2人を下ろしたらすぐに行くから!」
「ダメ、ダメよ、舞ちゃんの部屋は階段のすぐそばなの!」
「大丈夫だ、すぐだから! 消防の梯子車もすぐ来るから!」
瑠花を近くにいた近所の女性たちがなだめる。
建物から離そうとするのを、瑠花は手を払って舞の部屋のほうへ走った。
やっと仲直りしたと思ったのに。
これから仲良くなろうと決めたばかりなのに。
人波でうまく動けない。
泣きながら、どうして、どうして、とそんな言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回る。
そんな彼女を引き止めたのは知らない男の人だった。
「どこへ行くんだ」
「舞ちゃんが、友達がむこうの部屋にいるの!」
「その子ならさっき助け出されたぞ」
「本当?」
「ああ。あっちで手当てをうけてる」
そう言って男は庭の大きな桜の木を指す。
しかし続く男の言葉に、瑠花は頭にきて思わず声を上げた。
「あんたは家族のとこにいたほうがいいんじゃないかな」
「舞ちゃんもあたしの家族よ!」
「そうか。でもまだ救助の途中の家族がいるんじゃないか?」
「それは、でも、舞ちゃんが無事だって確認してからのほうがいいに決まってるもの!」
「なるほどね。ほら、いいよ、通りなよ」
男が体を引いて、瑠花を放した。
まるでそれまで道を塞がれていたような気分で、瑠花は男を軽く睨む。
相手は気にした様子もなくにやにや笑う。こんなときだが一言言ってやりたい、いや言わなければ、という気持ちになった瑠花の耳に、自身を呼ぶ声が聞こえた。
「瑠花!」
「ママ! お兄ちゃん!」
「瑠花! 舞のところに行くぞ!」
「待って、お兄ちゃん! 舞ちゃんはもう中にはいないの、あっちで手当てしてもらってるって!」
「そうなのか?」
「あたしもまだ会ってないんだけど、この人が……」
そう言って振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
「あれ?」
どこかへ行ってしまったのだろうか、と思っていると、母が急かしてきた。
「瑠花、舞はどこにいるって言ってたの?」
「あ、あそこの桜の木のとこ」
その桜の木は建物から離れた場所にあるため、火からも離れていられる。消火で混雑する辺りからも距離があり、落ち着くにはうってつけだった。
走り出した母の後を追いながら、瑠花は兄に問いかける。
「随分早かったのね、お兄ちゃん」
2人の人間が燃える建物から降りてくるのはもう少しかかると思っていた。が、実際には瑠花が降りてそう時間がたっていない。
「ああ、俺は飛び降りたから」
「大丈夫?」
「2階だしな。それに母さんが最後に降りるってきかないから、お前が降りてる途中で飛び降りた」
「怒られた?」
「ひっぱたかれた」
やっぱり、と瑠花は兄の頬を見る。赤くなっていた。我が母ながら、全く容赦というものがない。
瑠花の母は気が短くてワガママで、しかも手が早い。
子どもの頃はよく叩かれていたが、舞と一緒に暮らすようになってからは手を出すことがなくなった。代わりのようにイライラして小言が増えたが、それは聞き流せばいいことだ。
父親は怖いが、比べると母のことは怖いと思ったことは1度もない。
ただ、めんどくさいなあ、とうんざりするだけだ。そのせいか、この兄妹は逃げ足が早かった。空気を読んでいち早く姿を消す術は誰にも負けない。
そして瑠花は母親の機嫌を良くする術にも長けていた。
朗司は、そんな瑠花の要領の良さを気持ち悪いと考えているようである。
瑠花にしてみれば、長男のくせにいい加減な朗司のほうが気持ち悪かった。
はたから見ればある意味、仲の良い兄妹である。
桜の木の下には、舞と知らない大人の女性が2人いた。
雅は走って行って舞に近づくと、両腕をがしりと掴んで声を荒げた。
「舞! あんた無事なの!? ケガはないの!?」
「は、はい」
そしてぐるりと顔を朗司と瑠花の方へ向け、
「そっちも2人ともケガはないわね!?」
「ないよ」
「大丈夫、ずっと一緒にいたじゃない、ママ」
「そういう事じゃないのよ! 口答えしない!」
「はーーい」
「舞!」
「はい」
「あんたもなんでカギなんてかけるの! 何かあったらどうするの!」
「ご、ごめんな、さい……」
「ママそれは言いがかり」
「うるさい!」
「はーーい」
めんどくさい、と言いたげに瑠花が適当に返事をする。
「朗司! 大体あんたが昔、余計な真似して怖がらせたから!」
「ああうんごめんそうだね、でもいつも言うけど1番悪いのは瑠花だよ」
「うわでた、全部人のせい、さすがお兄ちゃん、サイアク」
瑠花が心の底からのしかめつらをしてみせた。
「可愛くない妹しかいなかったのに可愛い妹ができたらさ、撫でるし抱っこもするだろ」
「しないわよ!」
「あんた達は本当にもう……、いい加減にしなさい!!」
親子が言い合うのを見ていた瑠花は、自分が思っていたのと違う、と感じた。
うまくまとまらない。でも何かが違っている気がした。
そういえば自分は、この親子が会話するところをしっかり聞いた事があっただろうか。
いつもすぐにそばを離れて、まともに一緒にいることさえなかった。
家族が言い合うその様子を見ながら、黙っていた2人の女性のうち1人が口を開く。
「失礼しますね、これからどうされます?」
「え、これからですか?」
「ええ。今夜は大変だったでしょうから、子どもさん達だけでもどこかで休ませては?」
「そ、そうですね、……畠中のほうに家がありますから、とりあえずこの後はそこへ連れて行こうと思います。わたしは残ってしなければいけない事もあるでしょうが、子ども達はここにいる必要はないと思うので」
「なるほど、ではわたし達はこれで失礼しますね」
女性はそう言うと、舞のほうを見た。
「舞さん」
「はい」
「明日は雪になります。暖かくなって雪が溶けたら、尾弥神社に来てもらうことは可能ですか?」
「はい」
まだいろんな事がよく分からないまま、舞はうなずく。
先ほどの2人が、帰り際に『今度、神社に来てほしい』と言っていたが、混乱していた舞は約束をしなかった。
「必ず行きますと、伝えてください」
「わかりました」
女性は嬉しそうに微笑むと去って行った。
「どうかしたの?」
おばに訊かれて、舞は首を振る。
「助けてくれたのが神社の人で、暖かくなったらいらっしゃい、と」
「そう、ならお礼をしないとね。朗司、瑠花、あんた達そのときは一緒についていきなさい」
「はーーい」
「俺はいいけど、舞は嫌なんじゃないか?」
あっさりと朗司が口にする。舞は反射的にぎくりと硬直した。
「お兄ちゃん気持ち悪いもんね。仕方ないよ。あ、そうだママ、学校はしばらくお休みよね?」
「そうするしかないわね」
ため息とともに出た答えだったが、瑠花は嬉しそうに手を叩く。
「やった! あとそれと、明日は洋服買いに行っていい? もとのおうちにある服ってもう小さいし」
「仕方ないわ。あとでお金を渡すから行ってきてちょうだい。ああ、これからはきっと畠中のうちに住むことになるから、他の必要なものも買っておいてちょうだい。ティッシュとか洗剤とか、あと食べ物も」
「はーーい」
「俺は明日は休まないで塾行くよ?」
「え、困る。荷物重いし、洋服買って洗剤とかお米とかも買ってとか、絶対ムリ」
「朗司、1日くらい休めないの?」
「明日はちょっと……、明後日なら」
本音のところ、妹の買い物に付き合いたくないだけだったため、朗司は渋々うなずく。
荷物持ちにされるだけでも不愉快なのに、洋服に小物にと何軒付き合わされるか分からない妹の買い物など、迷惑極まりない。
「じゃあ明後日休んで、みんなで買い物お願いね。ご飯は何か買って行くから。そういえば、朗司、あなた服はどうするのよ」
「友達から借りる」
「ならいいわ。瑠花と舞の制服はみんな焼けちゃったかもしれないわね。舞、どうしても中学は高見原がいいの?」
質問の意図が分からずにずいると、瑠花が母親を責めた。
「ママ、ひょっとして舞ちゃんの学校、わたしと一緒のとこにするのまだ諦めてないの? もしかして制服が1着だったのそのせい?」
「試験には合格してたんだから、編入するなら早いほうがいいじゃないの。長く通わないなら1着で十分でしょ」
「もう! ママ、わたしもほんとは高見原が良かったのよ? 友達もいるし。舞ちゃんなんて特にそうだよ! 友達が1人もいないのって結構きついんだから! 舞ちゃんには絶対ムリ!」
「あんたがいるじゃないの」
「いるけど! もう!」
珍しく口答えの多い瑠花に、朗司は目を丸くした。だが母はそんな子どもたちの様子に気がつく事もなくイライラと返す。
「好き嫌いじゃなくて仲良く付き合うっていうのも大事なのよ。もう中学生なんだから2人とも。それにいい学校に行っておくっていうのは、この先の人生ですごく重要になるの。大人の言うことは聞いておきなさい!」
なんだか変だと感じながら朗司が間に入った。
きっと瑠花も疲れて気が立ってるんだろう、そう思いながら。
「まあまあ、とりあえず、畠中の家に行こうよ。母さん、2人は俺が連れてくから、ここにいなよ。やることあるだろ?」
「そうね。家の消火と、近所の人へのお礼とお詫びと、お父さんに連絡も取らなきゃ。じゃあ朗司、後は頼んだわよ」
そう言うとさっさと建物のほうへ小走りに向かった母を見送り、朗司は瑠花と舞を振り返る。
「ほら、行くぞ。まずは近所の誰かからコートを借りて、それからタクシーを呼ばなきゃな」
淡々と話す朗司に、疲れ果てていた瑠花と舞は大人しく従ったのだった。




