夜の火事
その火は一気に広がった。
蛇が這うように恐ろしい速さで家中の壁や柱に取りついていく。外では、夜空を飾る星に負けまいとでもするかのように、火の粉が炎とともに舞い散った。
ジリリリリリリリ、と火災報知機のけたたましい音が危険を知らせる。
舞以外が部屋の外へと飛び出した。
舞はといえば、ベッドから出たものの、鍵を開けて部屋の外へ出るのをためらい、火災報知機の音を聞きながら立ちつくしていた。
「舞! 起きろ! 早く出てこい、逃げるぞ!」
「舞ちゃん、舞ちゃん早く!」
ドアを叩く音と怒鳴り声に舞は動揺する。
「舞!」
「舞ちゃん!」
必死な朗司の声。泣きそうな瑠花の声。
その声の響きに、舞はドアへと小さく一歩踏み出した。
「なにやってるの! 早く逃げるのよ、2人とも!」
ドアの外でおばの声がした。
「まだ舞ちゃんが中にいるの!」
「舞、聞こえるか、起きろ!」
ドアに体当たりするような音がする。そしておそらくドアの隙間からだろう、煙が入ってきて咳き込む声が聞こえ出した。
「2人とも! 逃げられなくなるわよ!」
おばも2階にいるようだ。
「舞! 聞こえるの!? もう階段は無理よ! 窓から出なさい! いいわね! わたし達もベランダから出るわ! 朗司、やめなさい! 外から梯子をかけるのよ!」
切羽詰まったようなおばの声がする。
ドアにぶつかる音がやみ、外の気配がなくなった。
舞は慌てて家族のアルバムを引っ張り出すと窓へ向かう。開けると、あちこちから煙が上がっているのが見えた。
夜の暗がりの中、いつもよりも外の様子が明るく見えるのは空の月のせいだけではない。1階が燃え、おそらくは火に包まれているからだ。
遠くから消防車の音がする。
男の人の怒鳴り声がした。
窓に足をかけようとして、舞は吹き込んだ風の強さと外の冷気に身がすくむ。
「舞ちゃん!」
瑠花の声がしてそちらを見ると、パジャマ姿で他の部屋の窓から身を乗り出している。
「今、近所の人が梯子を用意してくれてるから!」
おばと朗司はおそらくベランダのある部屋へ向かっているのだろう。舞がうなずくと、瑠花は嬉しそうに笑う。
「大丈夫、きっと大丈夫だから!」
そして中へと戻った。
廊下からは舞の部屋にも煙がどんどん入ってくる。
こんな時に他人の心配ができるからこそ、わがままで意地悪なところがあっても、彼女の周りには友人が大勢いる。
舞は、そちらは大丈夫か、と声をかけられなかった自分が情けなかった。
火の匂いに混じって、人の命を奪う悪意の匂いがする。
修は立ち止まり、顔を上げて風の匂いを嗅いだ。
「火事か」
言ったのは篤樹だ。
鬼たちは無言だが、物の怪たちは小さな音を立てて修を見ている。
どうする、とその視線が訊いていた。
どうする。助けに行くか、放って置くか、見物に行くか。
それともどさくさに紛れて誰かの命を取りに行くか。
紗羅は止まった百鬼夜行を無視してふわりと浮き上がると、宙から町を見回した。
暗い中にオレンジ色に染まった一角がある。
それは人の目を奪う炎の美しさ。そして人の命も奪っていく。
その美しさと無慈悲さが同居するはずの畏敬の火、それに悪意が加わり、汚らしく澱んだ炎。
紗羅はその炎の中の影をにらんで、扇で口元を隠した。
火の気配がどんどんと強くなっていく。
消防車のサイレンの音に人々が起き出して、家々に灯りがつき出した。
切り上げて帰るべきか、と修と紗羅が互いの顔を見合わせた瞬間、それが届いた。
あの日の、香りが。
修が火事の方向に向けて走り出す。そして屋根よりも高く飛んだ。
紗羅も追いつき、修に並ぶ。
あの火の中、あそこに目当ての人物がいる。
百鬼夜行の妖たちも遅れて動き出した。
赤々と燃える炎へ向けて、誘われるように。
山門家本家。
昭和の初めに建てられた古い木造家屋。
土地の年寄りたちが「山門さん」と言えばここの事である。
その建物が燃えていた。
消防車が集まってくるのに先立ち、近所の人たちや地元の消防団も消化を始めているが、ここのところ続いていた晴天で空気は乾燥し、夜半から強まった風で火の勢いは強い。
あっという間に建物全体を包む炎に、誰かが「消防車はまだか」と呟いた。
その声には焦りの色が濃い。
「おおい! 2階のベランダに人がいるぞ!」
何人かがそれを聞いて駆けてゆく。
「梯子だ! 梯子を持ってけ!」
ガラガラ、と建物が崩れる音がし始めた。
舞はドアの外から聞こえる建物が燃える音、崩れる音に焦りはじめる。
入り込む煙で部屋の中が見えなくなり、咳き込み、涙がこぼれてきた。少しでもきれいな空気を吸おうと窓から顔を出すが、あまり効果はない。
いよいよ火が部屋の中まで入ってきた。迫ってくる炎の熱を避け、舞は窓から飛び降りる覚悟を決めた。
たいして高くもない2階の窓だ。ケガはするまい。
アルバムを抱きしめ、そして窓枠につかまり立ち上がる。
それほどの高さではないといえど、2階の高さからなど飛び降りたことはない。舞は躊躇して目を閉じた。
と、ふわり、と体が浮き上がる感覚があった。
目を開くと、誰かの腕の中にいた。
舞よりも2つ3つくらい年上に見える、見たことのない少年。整った顔立ちが炎に照らされて人間離れして見える。その彼が、とても優しげな笑顔で嬉しそうに言った。
「見つけた」
舞がその美しさに呆然としていると、さらにもう1人、舞に顔を近づけてにっこりと笑みを浮かべた少女がいる。こちらは舞と同い年くらいだろうか。だがやはり恐ろしいほど美しかった。
「うん、やっと見つけた。はじめまして。わたしは紗羅。そっちは修。あなたは?」
「え、ええと、舞……」
「舞」
嬉しそうに、満足そうに修が舞を腕に呟く。
「舞ちゃん、舞ちゃん。うん、すごく可愛い。よろしくね、舞ちゃん」
まるで何かを確認でもするかのように名前を繰り返し、にこにこと紗羅が小首を傾げる。
「よろしく……」
あまりに場違いで奇妙な会話に、舞はこの出会いと自己紹介が宙に浮いた状態で行われた事に気がつかなかった。
そしてもちろん、2人の衣服の流行遅れどころではない異常さにも。




