紅茶といちごデニッシュ
走って、走って、走って。
舞は近くの公園でベンチに座り込んだ。荒い息が落ち着くのを待っていると、誰かがやってきて舞のそばに立った。瑠花だった。
弾む息で言葉にならず、ただ瑠花を睨みつける。
瑠花は怒ったような、困ったような、何か言いたげな表情をしていた。
「……なに」
舞がどうにかそれだけ言うと、瑠花は黙って舞の隣に座った。
そしてパン屋の袋からいちごデニッシュを取り出す。ホットの紅茶も。
「紅茶は麦ちゃんから」
それは舞の好きなメーカーだった。
「……ごめん。牛乳かけたの。まさか制服、1着しかないって思わなかった」
舞は返事をしなかった。2着3着あれば牛乳をかけていいことにはならない。
何を言っているのかと怒りが募った。
「羨ましかったの、みんなとおんなじ中学に行く舞ちゃんが。あたしはまた友達を作り直しなのに」
瑠花は小学校2年のとき、山門地区に引っ越してきた。
親を亡くして1人になった舞が、今の家を出るのは嫌だと言ったからだ。
瑠花は今でもあの夜の事を覚えている。
舞ちゃんに優しくしてあげようと思っていたら、その舞は瑠花の両親に嫌いだから出て行けと叫んだのだ。それもみんなの前で。自分でも信じられないほど頭にきた。あんなに怒ったのは生まれて初めてだった。
そしてそんな舞のせいで、瑠花はきれいで新しい家から、古くて使いづらい家に引っ越さなければならなくなった。
最悪だ。
学校も変わった。塾も変わった。習い事の教室も変わったし、友達もいなくなった。
何もかもいきなり変わって、新しくはじめから全部やり直したのだ。
全部、全部舞のせいで。
そうして4年かけてやっと手に入れた居心地のいい場所は、今度は私立に入れたいという母親の希望で失った。またやり直し。
それでも笑って頑張ろうと思っていたが、あの朝は舞が制服を着ているのを見て我慢できなかった。
あたしが頑張って手に入れた優しい場所なのに。
そう思ったら、舞の制服に朝食の牛乳をかけていた。
すぐにしまった、と思ったが、どうせすぐに着替えるだろうとも思った。
まさか、制服が1着しかないなんて思ってもみなかった。
そしてそのまま体調を崩して休み続けるなんて。
瑠花は舞が嫌いだ。
瑠花の家族を悪く言う舞が嫌い。
でも、最近は瑠花の両親や兄も少しおかしいような気がしている。認めたくはないので考えないようにしているが、本当は少しずつ気がつき始めている。
自分の家族はどこかおかしい。そして多分、瑠花も。
けれどそんな考えには蓋をして、瑠花はとりあえず舞に謝ろうと思った。
一緒にいちごのデニッシュを食べて、謝って、仲良くなる努力をしてみようと。
瑠花と舞が仲良くなれば、家族ともうまくやっていけるようになるかもしれない、そんな事を期待しながら。
「……友達なんて、もういない」
「うそ。麦ちゃんは友達でしょ?」
言いながら瑠花は手に持ったままのいちごデニッシュと紅茶を舞に押しつけた。
「学校、行ってよ。あたしが悪かったから。麦ちゃんだけじゃなくて、桜川のみんないるんだよ? 羨ましいよ。あたしも、みんなと一緒の学校が良かった。それで制服の悪口言いたかった。言いたかったよ……」
泣きそうになっている瑠花を見て、それから舞は手の中の紅茶といちごデニッシュを見つめる。
それは、とても暖かくて甘い匂いがした。
「ねえお母さん、舞ちゃんね、学校休んでるんだって」
「らしいわね」
麦穂は夕食後、居間で宿題をしながらキッチンで洗い物をする母に話しかけた。
「舞ちゃん、家族がみんな死んじゃってから変だよね。本当におかしくなっちゃったのかな」
「どうかしらね……」
麦穂の母の佐奈江は言葉を濁した。
子どもは外で何を話すか分からない。言っていい事といけない事が分からないということもあるが、何より信じてもいい相手と信じてはいけない相手の判断が危うい。
事実、麦穂は赤ん坊の頃から一緒で1番と言っていいほど仲の良かった舞よりも、明るくて元気で人気者の瑠花のほうに惹かれている。
その瑠花は大人の前ではとてもいい子だが、子どもたちしかいない時にはあまり良い友人ではないように思えた。
だがそれでも、子どもの頃はみんなそんなもので、大人になるうちに人間が丸くなったり、あるいはそのまま成長したとしても、うまく隠すことができるようになるのだろうと思い見守っている。
佐奈江自身、ワガママであまり褒められた幼少時代ではなかったものだ。
だがそんな佐奈江も、瑠花の両親の事はあまり好きになれなかった。
山門家の家族が舞を残してみんな死んでしまって、それからやってきた彼らは古くからのこの地区の住人にとって異分子である。
大昔のように村八分にしたり他所者扱いにしたりする事はないとはいえ、彼らはあまりにも当たり前にそこに住み始め、そして強引にすぎる一歩手前の押しの強さで住人たちの中に入り込んできた。
瑠花の母親は家族で挨拶に来たさい、お店を大げさなほどに褒め、パンをいくつも買って行った次の日にまたやってきて『美味しかった、ファンになった』とまた買って行った。
しばらくすると地区外からも彼女の友人や知人が何人も訪れるようになり、そして必ず言うのだ。
『川先さんが美味しいって教えてくれた』と。
嬉しいより先に、佐奈江は気持ち悪さを感じた。伝えなければ、という意志のようなものを相手から感じたからだ。別に言わなくてもいいじゃないか、そんな事。そう思った。
これが他の人物のやった事なら、佐奈江はきっと何も違和感を覚えず、むしろありがたいと素直に感じたことだろう。実際、他でもある事だ。だがあの夫婦だけはダメだった。
本当は分かっている。
佐奈江は舞の母親と仲が良かった。
子どもの音楽教室で一緒になり、気が合ってよく一緒にお茶をしたりした。
子どもたちの仲が良かったのは、親の仲が良かったからでもある。
そんな佐奈江にとって、川先夫婦はまるで舞の両親がいなくなった後にやってきて、その空いた場所にうまく入り込んだような印象があって、どうしても良いように受け取れない。
付き合わずに済むものならそうしたいが、そんな真似は子どものようだし、何より元々住んでいた地区では顔が広く、力のある家族だ。
しかも夫の店だけでなく、気がつけば商店街の他の店や町内会の役員、学校のPTAにまでいつの間にか居場所を作って派閥のようなものまで形成してしまっていた。
それまで派閥などなく、仲の良い友人同士、数人単位でのまとまりしかなかった地区の住人は、取り込まれたり孤立したりして瑠花の両親に強く出られない状況だ。
きっと瑠花はそこまで悪い子ではない。
成長と共に友だちが変わるのは当然だ。
大人しい舞より明るい人気者の瑠花と一緒にいたがるのも普通だろう。親が口を出すものではない。
お互いにいいところも悪いところも影響し合い、自分の嫌な部分を知ったり、相手の嫌な部分を理解して許したりする事できっと人間の幅は広がっていく。
嫉妬も、見栄も、人のくだらない部分というものはおそらく、どう折り合いをつけるか学んで行くためのものなのだ。佐奈江はそう思う。
だが瑠花の両親は少しばかり度が過ぎている気がした。
本当にこれは放置してしまって構わないものなのか、と時々思う。
自分が身勝手に嫌ってしまっているだけではないのだろうか、と。
娘が『瑠花ちゃんに嫌われた』と泣くとき。
『瑠花ちゃんにあげるの』と何か用意しているとき。
『瑠花ちゃんと一緒の学校じゃなきゃ行かない』と騒いだとき。
自分が瑠花に1番好かれているのだと自慢げに話すとき、そしてその表情。
麦穂は瑠花に強く影響を受け、瑠花はその両親から強く影響を受けている。
佐奈江の子どもは麦穂1人だが、世の中の母親というものはこんな事でこんなにも不安になるものなのだろうか、と悩む。そして思うのだ。舞の母親が生きていれば、と。
舞の母は南の真珠列島の出身で、南国生まれといわれて納得するほど明るい、人懐っこい性格の人物だった。
彼女に夫のパンを褒められたとき、彼女の勧めで買いに来たと誰かに言われたとき、嫌な気分になった事は1度もなかった。一緒に暮らす輪の中の、共同体の一部として、遠い南の島の彼女は当たり前に受け入れられていた。
彼女ならどう思うだろう。彼女ならどうしただろう。最近そんな事ばかり思う。
そしてなぜかその後に思い出すのは、曽祖母がまだ生きていた頃の言葉だ。
『山門の本家はやけに人が減ったねえ』
山門地区は葛城山へ向かう通りの、1番最初の門がある地区である。
その昔は関所のようなものがあり、川と関所の門とで村の入り口を守っていたという。
住人が増えて村から町へと大きくなった今でも、山門地区を境に山門内と山門外、という言い方をする。
現在、舞の家にいる川先家は、何代も前からの住人とはいえ山門外の人間であった。
佐奈江の曽祖母は古い人間で、山門家は地域を守る重要な役割を担っていると信じていた。
本家の人間の数が減り、最終的に分家が本家に代わって次の世代に引き継いださい、『これでなんとか救われた』と山に手を合わせていたのを覚えている。
もしも曽祖母が生きていて、その分家も無くなり、残した本家も今は子ども1人のみとなった事を知ったらなんと言うだろう。
「舞ちゃんかわいそうね。元気になるように助けてあげなきゃ。明日の朝、寄ってみようかな」
麦穂が最近よくするようになった笑い方で唇の両端を上げる。
『よくない事だ。なんとかしなきゃならんよ』
子どもの頃に聞いた曽祖母の言葉がふと、耳の奥に響いた気がした。




