8 追いかけてくる過去
今回は現在に戻ります。
柊宮の庭園の中を、私は走って逃げていた。祖国を離れてから二十数年──レスターと思わぬ再会をした私は、彼と向き合うことなく逃げ出したのだ。
「あぁ……まさか彼に会ってしまうなんて……」
次から次へと流れる景色のように、過去の辛い思い出が脳裏によぎる。それは私にとっては懐かしさよりも、恐怖を伴うものだった。
どんなに忘れようとしても、心に残った深い傷は癒されぬまま。そしてその傷は、レスターと再会することで再び開いて血を流す。
「まだ忘れられないのね……」
目を閉じれば、レスターが私を呼んでいる気がする。過去と現在とが入り混じったような姿と声で。愛しさと苦しさが同じ場所にあって、彼を見つめるだけで心が悲鳴を上げる。
エルの為にと奮起して戻った祖国なのに、私は未だ過去に囚われたままだ。その事実に情けなくて愕然としてしまう。
複雑な想いを抱えながらなんとか会場へ戻ると、まだ茶会は盛況な様子であった。
「そうか……彼も呼ばれていたのね……当然だわ」
国王主催の茶会なのだ。国の重要人物が呼ばれないはずがない。そこまで考えが及んで、自分でも後悔した。これまで考えないようにしていた事柄が、次々と自分の中から湧き出てくる。
レスターはもう侯爵家を継いだのだろうか?
あの後、他の女と結婚したのだろうか?
今更そんな事を知ってどうすると言うのだろう。そう思うのに、溢れ出す問いは留まることを知らず、それは悲しみと痛みを伴って胸に広がっていく。
私は途端に虚しくなって、考えを散らすように頭を振った。彼と私の運命は、あの日に途切れてしまったのだ。あれこれ考えても意味の無いこと。彼は私とは違う人生を歩んでいるのだから──
「ダメね……いつまでもこんなんじゃ、エルの心配性が治らないのも頷けるわ」
かつての心と身体の痛みを思い出し、少しだけ気分が悪くなって、近くの椅子に寄り掛かる。過去と現実が曖昧になったような心地がして、酷く疲れてしまった。
けれど忘れたいと願った過去は、それをすることを許さなかった。
「デイジー!」
「っ……」
レスターが人混みを掻き分けて、追いかけてきたのだ。
割と大きな声で彼は私の名を呼んだから、周囲の人々の視線が集まってしまう。何事かと訝しむようなたくさんの目に、私は縮み上がった。
(もしあの時の──彼と私のことを知っている人がいたら──)
隠されたはずの虚構の罪。
突如として無くなった婚約。
そして異国の商人に嫁いだ子爵令嬢。
それだけで人々がどんな憶測をするか、嫌でも想像がつく。
あの頃は心を失ってしまったから良かったようなものの、今またそういった侮蔑の籠った視線を受けて、果たしてまともでいられるだろうか?
そんな私の怯えに、彼は気が付いているのかいないのか。レスターは眉間に大きく皺をよせ、ずんずんこちらへ歩いてくる。
「どうして逃げたんだ?久しぶりの再会だというのに……そんなにも君は私に会いたくなかったのか?」
咎めるような声音に、今も変わらず美しい色を湛えているだろう彼の瞳を見ることは、私には出来なかった。
「……いや、こんな事が言いたいのではないんだ……。ただ君ともう一度話がしたくて……」
ただ黙っているだけの私に、彼はそう言った。けれど私は、彼の話を聞きたくない気持ちの方が勝っていた。
俯きながら小さく首を横に振る。
それだけが、私にできる唯一の意思表示だったから。
私の態度に、彼が小さく息を飲むのがわかる。私に拒絶されると思っていなかったのかもしれない。
けれどそれを確かめる間もなく、二人の間に割りいる人物がいた。
「ディー!大丈夫か!?」
人混みを掻き分け、険しい表情でやって来たのはエルだった。
彼の姿を見て、私は心に安らぎが広がっていくのを感じる。
「エル……」
「ディー……酷い顔色だ」
エルは椅子の背に手をつき、今にもへたり込みそうな私を抱きかかえると、心配そうに顔を覗き込む。その優しい色の瞳に、我慢していた涙が一つ、零れ落ちた。
「ディー……泣かないで。大丈夫、大丈夫だから……」
優しいキスが、涙を流す私の頬に落ちる。その温かさに、凍り付いていた心が解けるのを感じた。
彼の言葉に小さく頷くと、抱きしめる腕の力が少しだけ強くなる。
顔を上げて見てみれば、エルが自分こそ泣きそうな表情をしていた。きっと自分を責めているのだろう。彼はいつもそうだ。
私が過去の事で辛い思いをしていれば、まるでその罪は自分にあると言わんばかりの悲痛な顔をする──決してエルのせいではないというのに。
私はいつものように、エルの前で笑顔を見せる。彼が笑顔になるように。
「大丈夫よ。……ごめんなさい。ちょっと疲れてしまって……」
これ以上心配を掛けないように、自らの力で地面にしっかりと立つと、そっと彼の腕から抜け出した。
そして意を決して、レスターの方を向く。
「大変申し訳ないのですが、気分が優れませんので、どうか退席することをお許しください。エスクロス様」
「っ──!」
淑やかにカーテシーをすれば、私の心はかつて偽りの家族を演じていた頃の鎧を纏っていた。決して本心は見せず、傷つけられることの無い鎧を──
「エル、ごめんなさい。折角の茶会だけど、気分が悪いので退席させていただくと、陛下に伝えてくださるかしら?」
「……あぁ、勿論。後で伝えておくよ。──さぁ、腕に寄り掛かって。リックが既に部屋を用意してくれているはずだから」
「デイジー……」
後ろで小さく呟かれたレスターの言葉に聞こえないふりをしながら、私達は茶会の席を離れたのだった──
お読みいただきありがとうございました。
次回からはレスター視点で物語が展開していきます。再会した時のレスター、更には過去のあの事件に対するレスターの想いが徐々に明らかになっていきます。