4 二人の出会い
前回に引き続き過去編となります。
「どうかしたのですか?」
逃れるようにやって来たバルコニーで一人肩を震わせていると、突然後ろから声を掛けられた。美しい弦楽器のように艶やかに響く、若い男性の声だ。
驚きに固まると、その声は更に優しく気遣うように私に問いかけてくる。
「泣いているの……?」
ほとんど男性と関わったことの無かった私は、その問いかけにどうしていいか分からず、ただ俯くばかりだった。
そんな私の態度に余計に心配になったのか、彼は目の前に回り込んできた。そして私の惨状に気が付く。
「あぁ……ドレスが……可哀そうに」
「っ──」
いかにも痛ましいという風に、その青年は呟いた。
しかし憐みの言葉を掛けられたことによって、私の涙腺はついに限界を迎えてしまった。貴族令嬢としては全く情けないことに、見ず知らずの男性の前で大泣きしてしまったのだ。
「うっ……ふぅぐ……ぅ」
「す、すまない……悪気はなかったんだが……そうだな、人に見られたくなかったよな……」
子供のように泣きじゃくる私に、慌て出す青年。彼に迷惑を掛けているとわかっていたけれど、私の涙はなかなか止まってはくれなかった。
すると突然彼は、俯く私の目の前に何かを差し出した。
「私が使っていたもので悪いけど……その……白い花で飾ってみてはどうかな……?」
「……え?」
滲む視界にぼんやりと白い影が映る。優しい香りが微かに鼻腔をくすぐった。
驚きに顔を上げると、少しだけ頬を赤らめた精悍な顔立ちの青年が、白い花を差し出して、こちらをじっと見つめていた。
私よりも少し年上で、背が高い。すらりとした体躯は、夜会の衣装を見事に着こなし、誰よりも高貴で頼もしい雰囲気を醸し出している。何より艶やかな黒い前髪から覗く瞳が、とても印象的で美しかった。
私は差し出された花よりも、その青年の澄んだ薄灰色の瞳に心を奪われていた。
──綺麗……まるで渡り鳥が羽ばたく冬の空のような色の瞳だわ──
「きっとそのドレスにも……いや、君自身にも似合うと思うんだ」
なかなか花を受け取らない私に、バツが悪くなったのか、彼は視線を逸らしてしまった。
一体どこから花を……と思ったら、彼の胸元を飾るコサージュが無い。きっとそれを外してくれたのだろう。ドレスのことを指摘されて泣いてしまった私に、花を飾るという優しい言葉でシミを隠すように勧めているのだ。
その優しい心遣いに、私の涙は既に止まっていた。
「ありがとうございます……とても嬉しいです」
心の中にあった氷が解けていくように、私は自然と笑みを浮かべていた。
「っ──、いや、いいんだ」
私が急に笑顔になったことに驚いたのか、彼は一瞬言葉を詰まらせると、コサージュを私の手にそっと載せる。
「誰か女性の使用人を呼ぼう。ここではあれだから……」
「いえ──これ以上お手を煩わせるわけには……」
更に手を貸そうとしてくれる青年に、私は遠慮の言葉を口にした。これ以上は本当に申し訳無かったし、いつまでも見ず知らずの男性と二人でいては何かと都合が悪い。
けれど彼はそんな私の態度をどう思ったのか、一向に引く気配が無かった。
「ここまで関わったのなら、最後まで責任を持つのが紳士だと私は思っている。どうか気にしないで」
「でも──」
渋る私を宥めすかして、彼はバルコニーから私を連れだした。しかし──
「デイジー!どこへ行っていたんだ!」
「っ──」
会場からいなくなった私を探していたのだろう。父のセフィーロが怒ったような口調で、私の名を呼んだ。
その声に縮み上がる私。青年もそれに気が付いたのだろう。私を守るように、背中に腕を回した。
「貴方様は──フラネル子爵ですか。ということは、こちらのお嬢様はフラネル子爵家のご令嬢で?」
「そうだが……君は?」
自分のことを知っているような口ぶりの青年の言葉に、父の眉根が訝し気に寄せられる。
「申し遅れました。私はレスター・エスクロスと申します。先ほど私の不注意で、お嬢様のドレスを汚してしまったので」
「エスクロス……まさか貴方は宰相閣下の……!」
青年の家名を聞いた父は、驚きに言葉を失った。そして父のそんな態度をまるで最初からわかっていたかのように、青年は鮮やかな笑みを口もとに浮かべる。
「えぇ、確かに父は現宰相で、エスクロス侯爵ですが」
「あぁ、なんと……。それで、うちの娘が何か貴方に粗相でもしましたか?」
「いえ、先ほど申しましたように、私の不注意で彼女のドレスを汚してしまったので、どこか休憩室にでもお連れしようと思っていた所なのですよ」
青年が口にする言葉を私が訂正する間もなく、ポンポンと話が進められていく。きっと父の怒りを感じた彼が、自分のせいだと言って、私を守ってくれたのだろう。
私は感謝の気持ちと共に、頬に熱が集まるのを感じた。
「折角のデビュタントのドレスを汚してしまって、本当に申し訳ございません。彼女のことはどうか叱らないであげてください。いずれこのお詫びは改めて──」
「あ、あぁ、そうですな。はは」
「では──」
青年が地位のある家の令息だと知って、父はそれ以上は何も言わなかった。父は自尊心の高い人間だけど、それ以上に権力というものに執着している人だったから。私が思いもよらず宰相様のご子息と知り合いになったことに、内心喜んでいるのだろう。
そんな浅ましい父の思惑に気が付いてしまい、私は青年に手を取られ歩きながらも、情けなくて顔を俯けた。
するとすぐさま気が付いて声を掛けてくる。
「勝手に話を作ってしまったこと、気に入らなかっただろうか?」
「いえっ、滅相もありません。……父に怒られないようにしてくださったんですよね?」
「あぁ……君が怖がっているように見えたから」
「助かりました……本当でしたら物凄く怒られる所でしたのに……なんとお礼を申し上げてよいやら……」
恐縮して体を縮める私に、彼は優しく笑って首を振った。
「そんなに気にしないでくれ。宰相である親の権力を出すことでしか助ける方法が思いつかなかったなんて、私にとっては情けない話なだけだから」
「でも……」
「いいんだよ、私がしたくてしたことだ」
そうこうしているうちに、私たちは休憩室の一つにやって来た。扉が開かれて、入室を勧められるけれど、私は躊躇する。
いくら先ほどのようなやり取りがあったとしても、若い男女が二人きりでいることを誰かが見咎めないとも限らない。ましてや相手は宰相のご子息だ。子爵令嬢ごときが一緒にいて良い人ではない。
「あの……ありがとうございました。後はもう、一人で大丈夫ですので……」
暗に一人で部屋に入ると告げると、彼は困ったように笑って少しだけ視線をずらす。
「参ったな……本当に君は他の女性とは違うようだ」
「え……?」
「いや、こちらの話だ。────ちょっとそこの君!」
青年は何事かを呟くと、近くにいた使用人の女性を呼び止める。
「こちらの御令嬢がドレスを汚してしまったから、すぐに染み抜きの用意をお願いできるかな。それと身体も冷えてしまっているようだから、温かいお茶も」
「かしこまりました」
使用人の女性は、青年の指示にすぐに従って用意の為にその場を離れる。彼の細やかな気遣いに私はあっけに取られて、碌なお礼をしてないことに気が付く。
「あの……」
「レスターだ」
「え?」
「今更だけど、私はレスター・エスクロスと言うんだ。まだ君に向けては名乗っていなかったから」
そう言って真っ直ぐに見つめる彼の冬空色の瞳が、微かに潤んで揺らめいた。
私はそれに魅入られたように見つめ返すと、自身も自己紹介をする。
「デイジー・フラネルです……お会いできて光栄ですわ、エスクロス侯爵子息様」
ドレスの裾をつまんで、令嬢らしくカーテシーをすると、先に彼の方から抗議の声があがる。
「レスターだ、デイジー」
「え……」
「可愛らしい名前だね」
悪戯が成功した子供のように、彼、レスターはニヤリと笑った。彼の顔を真っ直ぐに見つめていた私は、きっと真っ赤になっていたことだろう。
レスターと心の中で呼ぶだけで、心臓が飛び出すんじゃないかというくらい胸が弾む。自分の感情が追い付いていかなくて、あわあわとしていると、彼は私の手を取って自身の口元に持っていく。
「もっと君と話しがしたい──どうかこの後の時間を私にください、レディ」
ちゅ、と小さく手の甲に落とされたキス。悪戯っぽい小悪魔な笑みはどこかへ消え、真剣な眼差しがそこにはあった。
私はその魅力に気が遠くなりながらも、何とか頷きを返したのだった──




