2 再会の柊宮
澄んだ青空の下、花々が咲き誇る庭園に足を踏み入れると、すぐに一人の老年の男性が人混みを掻き分けてこちらへとやって来た。
「やぁ!エル!エルロンド・フリークス!ようやく来たか!待ちくたびれたぞ!」
そう言って快活に笑う男性は、白髪が混じっているがもとは豪奢な金髪だったのだろう。緩やかにウェーブする髪は後ろになでつけられており、いかにも上品な紳士だ。その立派な体躯を包むのは、一見派手ではないが高級な衣装であることがわかる。そして生地には、このフィネスト王国の紋章が金糸で刺繍されていた。
エルはすぐに相手が誰であるか気が付くと、表情を引き締めて最上の礼を尽くして返す。私もすぐにそれに倣って頭を垂れた。
「国王陛下、この度はご招待いただきましたこと誠にありがたく──」
「やめてくれ。エルにそう言われると、むずがゆくて仕方ない。互いに拳で会話した仲ではないか」
カカカと声を上げて笑うのは、フィネスト王国の国王陛下である。
エルと私は、フィネスト王国へとやってきて早々国王が所持する離宮の一つ、柊宮へと招待されていた。
「以前から遊びに来るよう言っていたのに、中々来ないもんだから、半分棺桶に足を突っ込むような歳になってしまったぞ」
冗談めかして笑う陛下。その言動は、旧友との再会を心待ちにしていた大きな子供のよう。
そんな陛下に対しエルは、バツが悪そうにしながらも笑いながら自身の右手を差し出す。
「悪かったよ。随分と色んな国を旅していたから……」
「悪かったと思っているなら、当分私の言うことを聞いてもらおうか。とりあえずは私の友人として、この柊宮で過ごしてもらおう。否やは言わせん。宿は引き払うように部下に指示しておくからな!」
国王はしてやったりと悪戯っぽい笑顔を見せると、エルの手をがっしりと握りブンブンと激しく振った。そしてそのままの状態で、私の方へと顔を向けた。
「それでこちらが噂の天使、ディーかい?」
「そうだよ。だがいくら国王だからといって、僕のディーを気安く呼ばないで欲しいな」
「おやおや、こりゃ相当だな」
「相当だよ。当然だ」
一国の王に対して気安い態度のエル。しかしフィネストの国王は、それを何でもないことのように受け入れている。
フィネスト王国は建国800年を誇る歴史ある大国でありながら、現在の国の在り方は以前とは随分と変わった。
目の前で快活に笑う当代の国王は、かなり前衛的な考えの人物で、その治世は賢王として必ずや後世に残るだろうと言われている。身分や国の垣根を越えて、良いと思われることをどんどん取り入れていく人で、実際その成果はここ二十年の間に表れていた。
「彼女がデイジー、僕の宝物だよ。ディー、こちらはこの国の国王であらせられるリュクソン陛下だ」
「デイジー・フリークスと申します。お目に掛かれて光栄ですわ、陛下」
二人の気安いやり取りに、あっけに取られていた私だが、陛下は気さくな笑顔をこちらにも向けてくれた。
「あぁ、そんな固くならなくていいよ。エルの大切な人は、私にとっても大切な人だから。私のことは気軽にリックと呼んでくれ」
そう言うとリュクソン陛下は、私の手を取りキスを落とす。
国王であるはずなのに、リックは気さくな笑顔と言葉で私の緊張をほぐしてくれているようだ。こういう場が久しぶりな私には、その気遣いはとても嬉しいものだった。
「あまりフェロモンを出さないでくれるかな、リック。ディーが君に惚れたらどうするんだ」
「なんと心の狭い男だ!ディー、こんな男は放っておいて、あちらで一緒に美味しいお菓子でも食べようか」
「おい!」
「ふふっ」
思わずエルの意外な一面を見ることができて、笑みが零れる。ここ最近の沈んでいた気持ちに、一筋の光が差したような心地がした。
「あぁ、いいね。君はそういう笑顔が似合うよ」
「え……?」
陛下のその言葉に驚いて顔を上げると、少しだけ憂いを帯びた眼差しがじっと注がれていた。
「……君のことは──そう、昔から知ってはいた。……だがエルから話を聞くまで、その真実を知ることは無かったんだ。……あの頃何もしてやれなくて、申し訳なかった──」
「──っ」
胸の奥がズキリと痛む。
けれど、それは私を思いやってかけてくれた優しい言葉だった。陛下が謝る必要などどこにも無いのに、それでもこうして心を傾けて声を掛けてくださったのだから。
「そんな……もったいないお言葉ですわ陛下。私はただエルのことが認めてもらえればと、そう思って参っただけですのに……」
「ディー……」
私の言葉に、優しい榛色の瞳を揺らすエル。
亜麻色の艶やかな髪は、既に白いものが混じってから久しく、常に笑顔を湛えていたその目じりには消えない皺がいくつも刻まれていた。
長い年月を共に過ごしたからこそわかる。エルの深い愛は、未だ彼の中で息づいているということを──
私はその事実に泣きそうになるのをグッと堪えて、二人に笑顔を見せる。
「こうしてお話させていただくと、難しいと思っていたことも、何でもないように思えますわね。エルの言っていた通りの素晴らしい王様ですわ」
私の言葉に、今度は陛下の方が驚いてしばし固まる番だった。微かに目を見開くと、エルと同じほどの年を重ねた目じりの皺が、次第に優しく深まっていく。
「あぁ、勿論。任せておいてくれ。エル、ディー、君たち二人の願いはきっとこの私が叶えてあげよう」
「リック、ありがとう」
「いいさこれくらい、君が私にしてくれたことに比べたら何でもない。さぁ!それよりも、せっかくの茶会だ!存分に楽しんでくれ。王宮自慢の料理と菓子が並んでいるぞ」
この日、柊宮では国王陛下主催の下、わりと大きな茶会が開かれていた。
爽やかな緑と鮮やかな花々が彩る庭園に、真っ白なクロスのかかったテーブルが並び、その上には美味しそうな料理や目にも楽しい菓子が、大勢の客たちを出迎えていた。
庭園のそこかしこには、いつでもくつろげるように日よけやベンチが数多く用意され、人々は思い思いに過ごしているようだ。
始めは王家主催の茶会と聞いて緊張もしていたけれど、そこに参加している人たちは様々だ。商人であったり、大学教授や哲学者などの知識人、はたまた異国出身の平民など、多種多様な人々がいて、誰もが身分など気にせずに会話しているように見える。勿論中には貴族たちもいるが、その誰もが国王の方針に従い、身分を問わず幅広い分野の人々と交流を深めている。
そんな多くの人で賑わう庭園を、私はエルと陛下と一緒にまわった。
「この包み焼きは遠い東の国の、その中でも山奥の地域だけで作られている家庭料理の一つなんだ。最近この国にやってきた商人がそこ出身らしくてね。話を聞いてみて、是非とも食べてみたいと思ったんだよ」
「これは見たことないなぁ」
「ん……美味しいですね!」
リュクソン陛下は、自慢気に茶会に並ぶ料理の説明をしていく。私たちはその説明の一つ一つに、笑いと共に舌鼓を打ち、楽しいひと時を過ごした。
茶会は国王の人柄を写し取ったかのような気さくな雰囲気で、様々な人たちが活発に議論や会話を楽しみ、また陛下に対しても気軽に話しかけていた。
この茶会が、身分の垣根を越えて知識や考えを共有するという思想の下に開かれたものであるとわかる。
暫く彼等と行動を共にしていたけれど、せっかく色んな人々が集まる茶会だ。いつまでも二人の仕事の邪魔をしてはいけないと思い、私は一人、休憩の為と言ってその場を離れることにした。
「一人で大丈夫かい?ディー」
「もう、心配しすぎよ。こんな大人を捕まえて、エルったら」
予想した通り、エルの心配そうな声が上がる。私は抗議の意味を込めて、ちょっとだけむすっとした表情を返す。それでも彼は納得しない様子で、私を側から離したがらなかった。
リュクソン陛下は、そんな私たちのやり取りを少しだけ可笑しそうに見守りながら、助け船を出してくれた。
「庭園の中は安全だよ。私が保障する。君たちは賓客だから、ちゃんと影も付いているし」
「それはありがたいが……」
「なら安心ですね。ではありがたく一人を楽しませていただきますわ」
にこやかにそう告げると、私は彼等と別れて、庭園の隅へと足を進めた。
エルには少し申し訳ないような気もしたけれど、たまには私の存在を忘れて旧友との再会を楽しんで欲しかった。彼が心配性で過保護なのは、昔のことがあるからどしようもないのだけれど──
そんなことをつらつら考えながら、庭園の中を歩いていく。青々とした柔らかな芝生が、ヒールの靴に優しい感触を伝えてくる。そのサクサクとした心地よい音を楽しみながら、庭園の端にある美しい林の近くまでやって来た。
綺麗に整備された柊の木が、離宮を囲うようにして並んでいる。それらはこの柊宮の名前の由来になった木々だ。
さやさやとした葉音が、風の中に軽やかに踊る。空から差し込む木漏れ日が、剥き出しの土に万華鏡のような輝きを映していた。
久しぶりに踏みしめた祖国の土。
かつて冷たく突き放され、追われるようにして去った土地。
しかし二十数年経ってやっと戻って来た祖国の地は、当時のやるせなさや冷たさを一つも感じさせない。包み込むような温かさに満ちていた。
──まるでエルみたいね──
ふとそんなことを想いながら人々の楽し気な声と、庭園の美しい情景にしばし見惚れていると──
「どうかされたのですか?」
突然後ろから男性に声を掛けられた。
驚いてビクリと肩を揺らすと、声の主は申し訳なさそうに言葉を重ねる。
「あぁ、庭園から離れた場所に女性一人でいらっしゃるから……少し気になりまして。申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
心配してくれたのがよくわかる優しい声音。低く響く弦楽器のようなその声に、別の意味でドキリとする。
ここで未だ相手に背を向けていることに気が付いた私は、慌てて振り返り淑女の礼を尽くした。言動から相手が貴族であるとわかったからだ。
「いえ、こちらこそ……お気遣いいただきまして、ありがとうございます。少しだけこの景色に見惚れておりましたの──」
内心冷や汗を感じながら、視線を落とし謝辞を述べると、僅かに目の前の人物が息を飲むのを感じた。
何故そんな反応をするのだろうと、不思議に思って視線を上げると──
「まさか……君は……」
「え──?」
驚きの声と共に目を見開く壮年の男性。
その瞳は、冬の曇り空のような薄灰色。
──かつて私が愛し、そして失ってしまったものがそこにあった。
「デイジー……」
「っ──」
低く、美しく響く、彼の声──
記憶の中にあるそれよりも幾分か渋みが増し、少し掠れているけれど確かに彼の声そのものだった。
その事実に、ふるりと身体が震える。
もうあれから二十年以上経つというのに、彼の存在は、今でも私を易々と過去に引き戻す。
──レスター・エスクロス──
忘れたくても、忘れられない──かつて私の婚約者だった人。
「デイジー、私は……」
「やめてっ……!」
「っ……」
私は突然の再会に、怖くなって悲鳴のような声を上げる。
レスターは私に向かって伸ばした手を一瞬宙に彷徨わせると、それをきゅっと握り絞め下へおろした。青ざめた表情は硬く、眉根を寄せ地面を強く睨んでいる。
そんなレスターの怒っているような様子に、私は益々縮み上がり、泣きそうになりながら、かつて言えなかった謝罪の言葉をようやく絞り出した。
「……ごめんなさい……っ」
やっとの想いで消え入るような声でそれだけ言うと、私は耐え切れなくなって駆け出した。
「デイジー!!」
レスターが私の名前を叫ぶ。
怒っているような
悲しんでいるような
そんな声で。
その感情が何なのか知りたかったけれど、私はもう傷つきたくなくて、聞こえないふりをして逃げた。
背中に向けられた冬空色の眼差しは、今もきっと私を責めているのだろう。
あの日のように──