1 遠い記憶
長岡更紗様主催【ワケアリ不惑女の新恋企画】参加作品です。
「……君がやったのか?デイジー」
冬の冷たい空のような薄灰色の瞳が、鋭く私を射抜いた。
──違う、私じゃない──私はやっていないわ──
そう言いたいのに、言葉は喉の奥に引っかかったように出てこない。
彼が放つ凍えるような空気に身を震わせれば、遠く広間の喧噪が聞こえてくる。──私たちの婚約を祝うパーティーだ。
けれど当事者であるはずの私たちは、人気のない部屋で、罪を暴く者と裁かれる者とに分かれていた。
何も言わない私に、彼は諦めのため息を一つ落とす。
「君のような盗人を、侯爵家に入れるわけにはいかない」
彼の断罪の言葉に対し、それを否定できる言葉を持たない私。そんな私に注がれる、彼の蔑むような凍てつく眼差し。僅かな勇気は、既に粉々に打ち砕かれていた。
彼だけは、私の無実を信じてくれると思っていたのに──
「…………この婚約は無しにしてくれ」
愛した人の心が、波のように引いていく。
背を向けた彼は、私を一人残して行ってしまった。
──あぁ、どうしてこうなってしまったの?──
──何がいけなかったの?──
膝から崩れ落ちても、抱きとめて慰めてくれる人は、もうそこにはいない。
私はただ、彼の背中に届かぬように、声を殺して泣くことしかできなかった────
***********
「もうすぐ着くよ、ディー」
「ん……」
優しい声に微睡から目覚めると、馬車の振動を僅かに感じた。
一瞬自分がどこにいるのかわからなくなって、少しだけ困惑する。記憶の奥底に閉じ込めたはずの、古い夢を見たせいだ。
未だにあの頃の記憶は、私の心の傷を抉るのか、つんと鼻の奥が痛む。
体を起こしながら、溜まった涙を寝ていたせいだと言い訳するように、袖口で軽く拭う。
「……寝てしまっていたのね。ごめんなさい。道中つまらなかったでしょう?」
「そんなことないよ。ディーの可愛い寝顔を見られるなら、長旅も悪くないもんだ」
「もう、エルってば」
私は同乗者の冗談に、彼の肩を軽く叩いて抗議する。もう四十歳にもなる女の寝顔を可愛いだなんて、他の人が聞いたらなんと思うのだろうか。
それでもエルは、私のささやかな抵抗を嬉しそうに笑った。
「僕にとって君は可愛くて仕方ないんだ。だから君が側で寝ていて、その寝顔を見ないわけがないだろう?」
「ふふっ。まるで子供みたいな言い訳ね」
「それが僕の魅力だからね」
エルは私の言葉に冗談めかして笑った。キラキラと子供のように輝くエルの榛色の瞳が、記憶の中の冷たい眼差しをかき消してくれる。
「ちょっと髪が乱れてしまったかな……」
エルの大きな手が私の頭に触れ、優しく髪を梳いていく。
彼は私が疲れないようにと、寝ている間に膝枕をしてくれていたようで、それで髪が乱れてしまったのを気にしたようだ。私の為にしてくれたことなのに、少しだけ申し訳なさそうな表情になる。
「ありがとう、エル」
「あぁ」
彼の曇った顔は見たくない。だから私は飛び切りの笑顔でお礼を言った。
出会ってから二十数年が経っても、私たちの関係は変わらない。
エルは私を愛し守ってくれる。勿論私も彼を愛している。エルは私が悲しめば、一緒に涙を流し、私が怒れば、同じように憤る。
そんな風にして私たちは、まるで二人で一つのように過ごしてきた。
けれどもうエルは60代半ばを過ぎている。彼に残された時間は少ない。
私はこの旅の途中ずっと、心の中に燻る不安をエルの前で出さないようにしていた。エルを幸せにする為に、この旅を決意したのだから。
そんな思いをエルに気取られぬように、そっと彼とは反対の窓に顔を向けた。流れる景色に、懐かしくほろ苦い想いが寄せてくる。
私が生まれ育ち、そして見捨てられた土地──フィネスト。
私はそこへ帰るのだ──エルと共に────
お読みいただきありがとうございます。
長岡更紗様が主催された企画の参加作品とういことで、不惑女、つまりは40歳のヒロインの恋がテーマとなっております。大人のほろ苦さのある恋愛模様を込めたつもりですので、どうぞお楽しみください。