幼馴染との婚約の話が棚上げになりました
その日も朝からうちの庭園に足を踏み入れているのは、隣の敷地に住んでいるブラウン公爵家嫡男のアンソニー。私パトリシアの幼馴染である。
「アンソニー、朝からここに来る必要があるのかしら?」
「パティに会えるだろ?」
アンソニーは毎日この調子だ。仮にも彼には王族の血が流れているというのに自覚がないのだろうか。アンソニーの父親は現国王陛下の弟君。臣下に下って公爵位を賜ったとは言え歴とした王族なのだ。私はため息をつくと、いつもの返事をする。
「それで?」
「後でお菓子を持ってくるから、勉強しながら一緒に食べないか」
これもアンソニーのいつもの返しだ。だが、お菓子に目がない私はいつもここで妥協する。
「そうね。いいお茶を頂いたのよ。メアリーに淹れてもらいましょう」
「良かった。それじゃ、後で」
アンソニーの姿が大きな動物のトピアリーの向こうに消えた。
「何だ、またアンソニーの奴が来てたのか? あいつも一途な奴だな」
私の背後から聞こえてきたお兄様の声に振り返った。
「お兄様がこちらにいらっしゃるなんて珍しいですね。何かございましたか?」
「父上がパティを呼んで来いとさっ」
私は庭師から切って貰った花束をお兄様に渡した。
「たまにはお義姉様にプレゼントした方が宜しいですわよ」
「えっ? イライザが何か言っていたか?」
お義姉様を溺愛するお兄様がおろおろしている様子に内心舌を出す。
「お父様のところに行ってきますわ」
お兄様をその場に残して執務室に向かう。
それにしても朝から呼び出しされるような事をしただろうか。ここ何日かの行動を振り返ってみたものの思い当たる節がない。
廊下を歩いていくとちょうど執事長が執務室から出てきた。
「お父様は中にいらっしゃるかしら?」
「はい、お嬢様」
執事長は扉をノックすると「お嬢様がお見えになりました」と声を掛けた。
「パティか。入りなさい」
「失礼いたします」
頷く執事長に見送られて中に入った。
座るように勧められたソファーに腰掛ける。
「パティ。ブラウン公爵家からそろそろちゃんと婚約しないかと打診が来てる。私はお受けしていいと思っているんだが」
「…………」
「不満か?」
「いえ、決してそのようなことは……。ただ身内のように接してまいりましたので、婚約と言われてましても実感が湧かないといいますか……」
「見ず知らずの家に嫁ぐ者だっている。自分が恵まれた立場でいることは理解しているだろ?」
確かにそう思う。頭では分かっているのだ。
「はい、お父様」
「ブラウン家には明後日には返事をすることになっている。もう一度よく考えてみなさい」
「ありがとうございます」
お父様にお辞儀をして執務室を後にした。だが考えるどころか自分の気持ちに蓋をしてしまうことになるとは、この時の私は知る由もなかった。
王城の謁見の間に緊急の招集をかけられた貴族が集まっていた。宰相がその場を取り仕切る。
悲痛な面持ちの国王陛下と顔面蒼白で今にも倒れそうな王妃の様子に、否が応でも何か恐ろしいことが起こったと知る。
「視察に出られていた王太子殿下と王子殿下が街道の落盤事故に遭い亡くなられた。特に事件性はなく事故であることが確認されている」
宰相の告げた言葉に一同息を吞んだ。
「来週立太子の儀を行いアンソニー・ブラウン公爵子息を王太子とする」
謁見の間にざわめきが広がった。
「大陸情勢は安定しているとはいえ、少しでも弱みを見せれば付け込んでくる国が出てこないとも限らない。葬送の儀については今週速やかに行うこととする。それまでは王太子殿下と王子殿下の死についてはこの場より外に漏らすことを禁じる。破った者には相応の処分も辞さない。以上」
国王陛下が王妃を支えながら下がられたのを待って頭を上げた貴族たちは、そそくさと謁見の間を後にしていった。貴族の勢力図が一気に変わる大事件だ。これからどう立ち回るのが正解なのか腹の探り合いが始まる。そんな中ダンテス侯爵とルクレール伯爵は宰相に詰め寄った。
「私の娘はどうなるのでしょう。王太子妃になるためにこれまで努力して参ったのですぞ。よもや、白紙ということはございますまいな」
「私の娘とて同様でございます。白紙になるなど納得できる筈もございません」
「ルクレール伯爵のお嬢さんには気の毒だが、代わりが立てられるのは王太子殿下だけだ。諦めるしかないのではありませんか」
宰相は鋭い視線を向けて言い放った。
「貴殿方は亡くなられた方に哀悼の意を表することは出来ないのですか? 婚約者だった娘を不憫に思う前に人として出来ることがあるのではないですか?」
宰相の言う事は尤もだった。言葉をなくして俯く侯爵と伯爵に宰相が言葉を続けた。
「陛下とブラウン公爵と後ほど話を致します。婚約者の話もしなければならないでしょう。追ってご連絡致しますので、今日のところは……」
頭を下げた宰相に頷いた侯爵と伯爵は謁見の間から漸く出ていった。
今朝の庭園も朝日に照らされて輝いていた。
昨日結局アンソニーはお菓子を持って現れなかった。珍しいこともあるものだと思っていたらコック長の新作だと言う華やかなケーキが運ばれてきた。メアリーが淹れてくれたお茶を飲む。ケーキはとても美味しかったのだが、話し相手がいないとこんなにも静かなのかと驚く。いつもはアンソニーが何かと喋ってくれるのでそれに返事をするばかりだった。こんな私と毎日よく飽きもせずに話をしてくたものだと感心する。
大きな動物のトピアリーの向こうを眺める。アンソニーの姿は見えない。いつものやり取りを期待していたのだが、終ぞ彼が庭園に現れることはなかった。
変ね?
こちらがまたかと思うぐらい会っていたので不思議な気分だった。私は庭師から受け取った花束を飾るべくメアリーと共に部屋に戻った。
明日には婚約についてお父様にお答えしなくてはならない。アンソニーと過ごす平穏な時間は大好きだった。当たり前に享受していたが、もしアンソニーが他の令嬢と婚約することになったら……。そして私がもし他の方に嫁ぐことになったら……。あのような時間を過ごすことが出来るのだうか。
私はイライザお義姉様のお部屋をノックした。
「パティ。さぁ、入って」
「はい。失礼いたします」
応接のソファーに腰掛けるとお義姉様付きの侍女がハーブティを淹れてくれた。
「何かあった? パティ」
「お義姉様はお兄様と婚約された時どんな感じでしたでしょうか?」
お義姉様がお菓子を勧めてくれた。
口に運ぶとオレンジの香りの後に甘いクリームが溶けていく。
「美味しい……」
「婚約ねぇ。そうそうウィリアムってば毎日花束を抱えて私の屋敷に通ってきたのよ」
初めて聞く話に目を丸くする。お兄様にそんな情熱的な一面があったなんて。
「毎日ですか……」
「そう、花に埋もれてしまうのではないかと思ったぐらいなのよ」
当時を思い出したように、ふふふと笑うお義姉様はとても綺麗だった。
「この前久しぶりに花束を貰ったわ。あれはパティの差し金よね? ウィリアムってば、済まなかったって平謝りしてきてね。これからは毎日花を持ってくるからって言うのよ。また埋もれてしまうからたまにいでいいのよって急いで止めたわ」
愛おしそうにお腹を撫でるお義姉様。少し先だが私は叔母さんになる予定だ。婚約者も叔母さんもどちらも実感のない立場で、私ばかりが一人先に進めないでいる。
「お義姉様、またお訪ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。いつでもいいのよ。せっかく同じお屋敷に住んでいるのだから」
「はい、ありがとうございます」
私が部屋を出ると扉の前にお兄様が立っていた。これが日参していたお兄様か……。思わずジロジロと眺めてしまう。お兄様も一人の男性だったのかという気付きはとても新鮮だった。
「イライザはご機嫌だったか?」
「ご自分で確かめられたらいいではありませんか」
「いや、それはそうなんだが」
「頑張ってくださいませ」
アンソニーも一人の男性であることは間違いないのだが、いつもの会話にいつもの態度がどうしても幼馴染の枠の中に彼を押し留めようとする。
いよいよ答えなければならないという朝もトピアリーの向こうからアンソニーが現れることはなかった。
私はがっかりするというより、正式に話を進めようとしているにも関わらずアンソニー本人から何も聞いていないことに腹を立てていた。
いくら婚約が家どうしのものだとしても、何か一言あってもいいのではないかと思った。父から話を聞かされて以降会えていない。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
今日呼びに来たのはお兄様ではなく執事長だった。お兄様だったら虐めてしまおうかと思っていたのに当てが外れてがっかりする。
執務室の扉をノックして名乗ると「入りなさい」という父の声が聞こえてきた。
この前座ったソファーに腰掛ける。
「パティ。婚約の話だけれど棚上げになった。ただ棚上げだというだけだから。この際猶予の時間をいっぱい貰ったと思えばいい」
「……はい、わかりました。お父様」
正直お父様の話はあまり聞いていなかった。棚上げという言葉だけが私の耳に強く残った。
それから私は朝庭園に出ることを止めた。部屋に飾る花を受け取るために行っていた筈だったのに、何故行かないのか分からなかった……。
一人で飲むお茶は味気ないからとお茶を飲むことも止めてしまった。そもそもお茶はなんで飲んでいたんだろう……。
アンソニーがいない景色には色がない。
何とかいつも通りの自分でいようと思うのだが、いつも通りの自分の隣には大抵アンソニーがいた。
もう元に戻ることはないのだと私は何となく理解した。
「パティ」
珍しく部屋を訪ねていらしたのはお母様だった。長椅子に座ったお母様は隣をぽんぽんと叩くと「いらっしゃい」と言った。
私が大人しく隣に座ると、お母様は私を抱きしめて背中を撫でてくれる。
「パティ。大丈夫。みんなあなたの味方なのよ」
私の頬を伝うものに、自分が泣いていることに気が付いた。何で涙なんか……。
分からないことが多すぎる。
「しばらくの間、お母様と一緒に領地で暮らしましょう。お父様が手配して下さった素敵な先生もご一緒して下さることになっているのよ」
ここのお屋敷には色がないのだから、いてもしょうがない。私は黙って頷いた。
領地に行く準備は着々と進んだ。その間に王太子殿下と王子殿下の葬送の儀が行われた。貴族はもちろんのこと国民の多くが突然の訃報に涙した。これから王国はどうなってしまうのか、誰もが王国の先行きを不安に思った。
そして領地に出発する日、立太子の儀が行われるということで王国は華々しい雰囲気に包まれていた。王都は期待に胸を膨らませた人々で溢れていた。私は貴族としてこの儀に参加してから領地に行くことになっている。先日の喪を表すドレスから一転して祝を表すドレスに身を包んだ。それはまるで自分の気持ちも追いつかないまま勝手に進んで行く周囲の状況のように思えて気分がどんよりとする。
会場には国外からのご来賓方も多く参列しており、会場内は新王太子が現れるのを今や遅しとばかりに待ちわびていた。
そこに荘厳なファンファーレが鳴り響き、王太子の正装に身を包んだ人物がバルコニーに進み出た。
一斉に歓声が上がる。王太子殿下が片手を上げると会場中が静まり返った。
「私、アンソニー・ド・ブラウンは王族籍に復帰し、ここにアンソニー・ド・ロレーヌとして王太子になったことを宣言する」
新しい王太子殿下がアンソニー…………。
私は意識を手放した。
次に気が付いた時、私は領地へ行く馬車の中だった。
「パティ。気が付いた?」
「お母様……。私、凄い歓声に驚いてしまって…………ご迷惑をおかけしました」
お母様が怪訝な顔をされた。バルコニーに出ていらした王太子殿下の顔は覚えてないけれど、胸が締め付けられるように痛かったことは記憶している。
「パティ?」
「お母様、結局どなたが立太子されたのですか?」
「あ、あぁ、そうね。私もよく存じ上げない方だったわ」
お母様がご存知ないくらいだから私が知るはずもない方なのだろう。素敵な王国にして下さるといいけれど。
「領地までは後どれぐらいでしょうか」
「明後日の昼過ぎには着く予定よ。久々に王都以外の街に行くのだからお買い物でも楽しみましょう」
「はいっ」
最初の宿泊予定の街で私とお母様は早速買い物に繰り出した。王都では見かけない生地でドレスを作ることにし採寸やデザインは領地に来ていただくことにした。アクセサリー店では精緻な細工の髪留めをお揃いで購入した。なんとなく覗いた雑貨店では様々な色合いの刺繍糸が売られていて、思わずシルクのハンカチとセットで糸を購入していた。
予約していた宿屋の部屋に入り買って来た刺繍糸を見る。なんて綺麗な色なんだろう。でもその時にふと違和感があった。なんでこの色を買ったのかしら? 何の意匠にするつもりでこの糸を買ったのかまったく思い出せない。
そう言えば、何で私は領地に来ることにしたのだっただろうか……。
私は急いでお母様のお部屋のドアをノックする。屋敷から護衛のために連れて来た私設の騎士が何事かと窺っている。
「パティ? どうかしたの?」
「お母様、私、私……」
私の意識が遠くなっていった。
「パティ。パティ」
「お母様?」
お母様は私の顔にかかった髪をそっと払うと、にっこり微笑まれた。
「お医者様が昼間はしゃぎ過ぎたんじゃないかですって。明日は早めに宿に入ってのんびりしましょう」
「はい」
お母様の笑顔に安心した私は、何か聞こうとしていたことがあったことも忘れてそのまま眠りについた。
翌日の宿泊地で大人しく過ごしたおかげか倒れることもなく、順調に旅程をこなした私たちは、予定より少し早く領地に着くことが出来た。ここは王都の西にある海沿いの街で、気候も温暖で過ごしやすい。
屋敷の前では家令を先頭に侍女がずらりと並び出迎えてくれた。
「奥様、お帰りなさいませ。お待ちしておりました」
「ありがとう。アルバート。しばらく滞在いたします。頼みますね」
「はい。それから本日、エルロイ様もご到着予定でございます」
「そう……。分かりました。私が対応いたしますからサロンにお通しして下さい」
「かしこまりました」
お母様は振り返ると「どこか辛いところはない?」と聞いてきた。私が大丈夫ですと言うと、少し安心したような顔をしたが直ぐメアリーに指示を出す。
「パティ、先に部屋に案内してもらいなさい。少し休んでおいた方がいいわ」
「はい、お母様」
私はメアリーの案内で部屋に入った。以前使用していた時とは異なり内装は白を基調としてかなり大人っぽくなっていた。
窓からは陽の光を反射して白く輝く海が見える。開け放ったバルコニーから柔らかい風が吹いてきた。
ここで新しい生活を始められると思うとワクワクした。
私は最後に宿泊した街で購入した本を取り出すと、早速読み始めた。
コンコンコン
「どなた?」
「エルロイと申します。パトリシアお嬢様の家庭教師として参りました」
「まぁ、今開けますわ」
エルロイ様は一見厳しそうなお顔立ちだけれども優しそうな目をした年配の女性だった。
「初めましてエルロイ様。私がパトリシアでございます」
「パトリシア様、宜しくお願い致します」
「それでどのような事を教えて頂けるのでしょうか」
これからまだまだ学べるなんて素敵なことだわ。お兄様をびっくりさせるぐらいには頑張りたい。
「そうでございますね。パトリシア様が優秀な成績を修めて学園を卒業されたことは存じておりますが、まずはどれぐらいの学力なのか念のため確認させて頂ければと思います。その上で、学力に応じて様々な先生方にお越しいただくのもいいかと考えております。後はマナーやダンスでしょうか。こちらは本格的に覚えて頂かないとならないかもしれません」
「まぁ、そんなにですの。私頑張りますわね」
「今日は領地にいらしたばかりでお疲れだと思いますので、まずはお茶のマナーからいかがでしょうか」
「素敵ですわ。早速メアリーに持ってこさせますね」
メアリーがお茶の支度をティーテーブルにしてくれた。エルロイ様がいつものようにしているところを見たいとおっしゃったので、いつも通り飲んで食べる。今日は頂き物の茶葉を使っているらしい。そう言えばこの前この茶葉を淹れて貰おうと誰かに提案したような……。その時エルロイ様が少し驚かれた顔しているのが目に入った。人に見られていると思うと緊張するが、一人でお茶をするより余程いい。ついこの前まではいつも一緒だったのに…………。
途端に胸が苦しくなる。
うっ…………痛い。
「パトリシア様? パトリシア様? どうされました? 大丈夫でございますか?」
「…………エルロイ様? 申し訳ございません。…………私、最近胸が苦しくなることが多くて。でも大丈夫ですわ。ご心配おかけいたしました」
「そうですか…………」
「それでエルロイ様、私のマナーはどこを直せば宜しいでしょうか」
「あぁ、そうでしたね。その点については少し驚いておりますが、問題ないと言わざるを得ません。どなたかについてお勉強されたことがおありなのですか?」
「普通の貴族のお嬢様がされるくらいのマナーは学んで参りましたが、特に名のある方に来て頂いた訳ではありませんでしたわ」
「そうですか…………。今日はここまでにしてゆっくり休んで頂いた方がいいようですね。また明日行いましょう」
「はい、エルロイ様。また明日、宜しくお願い致しますわ」
お茶のマナーは問題ないと言われてしまったけれど、食事のマナーもあるしご挨拶等他にも色々あるものね。まだまだ学んで行きますわ!
領地に来て半年が経った。
エルロイ様による私の学力やマナーの確認は最初の1週間程度で終わっていた。特にマナーについては真っ先にエルロイ様のお墨付きを頂いた。「私が褒めることは滅多にないということだけは承知して頂きたいものです」と残念そうに言ったエルロイ様のお顔はとても面白かった。
学力の方も問題ないということで、それ以降は王国や他の国々の歴史、我が国との関係性、またその国々の言語等を学ぶことになった。
ただ、それらについても実はほとんど勉強していたため、エルロイ様が満を持してお呼びした先生方はエルロイ様のように肩を落とされた。
最近では時事的な問題についての質疑応答のために、たまに先生方がいらっしゃる程度になっていた。
私いつの間に学んでいたのかしらね?
最近は胸の痛みを覚えることも少なくなっていた。
しばらくぶりにまとまった時間のとれた私はこちらに来る際にお買い物をしてそのままにしていた荷物を整理することにした。
その中にシルクのハンカチと刺繍糸があった。私は木枠にハンカチを嵌めると早速刺繍を開始した。この意匠はとても細かいため刺す者の力量が問われるのだが、ゆっくりと刺していけば特に問題ないだろう。時間はたっぷりあるのだから。私はそれ以来、空き時間に刺繍を刺すようになった。
領地に来て10か月が経った頃、イライザお義姉様とお兄様が6か月になる子供を連れて遊びに来て下さった。子供は男の子で名前はケヴィン。あぁ、私は叔母さんになったのね。何だか不思議な感じがする。ケヴィンを抱っこして庭園の散策をする。王都の屋敷にもあるのだが、ここにも動物をモチーフにしたトピアリーがいくつも作られていた。ケヴィンは大きいトピアリーが好きなようで、それらを指さしては大きな目をくりくりとさせる。そう言えば以前は私もトピアリーを良く眺めていたっけ……。何でだったかしら? 大切な事を忘れてしまっているような気がする。
夕食後イライザお義姉様の元を訪ねた。
「パティ、座って」
「はい、お義姉様」
「よく顔を見せて頂戴。元気にしていた? あなたがあのお屋敷からいなくなってしまってとても寂しかったのよ」
「ええ、元気ですわ。ありがとうございます。あの……お義姉様、これを」
私は並行して刺していた刺繍のハンカチをお渡しする。これは子供の成長を願う女神をモチーフにしたもので孤児院のバザーでは特に人気の高い意匠である。
「まぁ、パティ。凄いわ。何にも勝るプレゼントよ。ありがとう」
お義姉様は私を抱きしめてお礼を言う。
「それで最近は倒れたりすることはないの?」
「はい、ほとんどありません。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。元気ならいいのよ。早く王都に戻っていらっしゃい」
「そうですわね」
お義姉様たちは半月ばかり滞在されて王都にお帰りになった。ケヴィンのいる間賑やかだった領地に静寂が戻る。私の刺繍も佳境に入っていた。うん、いい仕上がりになりそう。
エルロイ様がお部屋にいらした。
「パトリシア様、少し宜しいでしょうか」
「はい、エルロイ様。もちろんですわ」
私は刺し途中の木枠を机に置くとソファーに腰掛けた。
「そろそろ私もお暇しようと思っております」
「えっ? エルロイ様?」
「パトリシア様は最初から何でもお出来になられて、私の指導など必要ございませんでした。ですが……パトリシア様がどこまでお出来になるのか眺めていたくて長居し過ぎたかもしれません。大変失礼いたしました」
深々と頭を下げるエルロイ様に止めて下さいと手を差し伸べる。
「パトリシア様、私のことはエルロイとお呼び下さい。また王都でお目にかかれるのを楽しみにしております」
やはり深々と頭を下げたエルロイ様は静かに扉を閉めていった。みんな私の元からいなくなってしまう……。あの人も突然姿を見せなくなった……。そして次に見た時には…………。
うっ…………胸が苦しい。
バルコニーに姿を現したのは…………あれは…………。
お母様が心配そうな顔で見つめていた。
「パティ? 大丈夫?」
「はい…………」
「良かったわ。エルロイ様もとても心配されていたのよ」
「そうでしたか。申し訳ございません。でも、もう大丈夫ですから」
「パティ?」
私は全て思い出した。何に向き合っていたか、そして何から逃げたのか。
アンソニーに会えなくなったことで私は漸くアンソニーに恋をしていることに気が付いた。だけどアンソニーは王太子になってしまった。私の気持ちなど届くはずのない世界に行ってしまった。私は自分の気持ちをどうしたらいいのか分からなくなって蓋をして押さえ込んでしまった。
今ならば私の婚約が棚上げになったのも仕方のないことだったと理解できる。白紙と言わない辺りに優しさや気遣いを感じる。きっとアンソニーは私に会いにくる暇もないぐらい大変だったに違いない。
彼は王太子としての道を進むと決めたのだ。それならば彼の進む道を応援するしかないではないか。だって大好きな幼馴染なのだから……。
「お母様。私、この刺繍を刺し終わったら王都に戻ります。長らく我が儘にお付き合い頂いて申し訳ありませんでした」
お母様は目を見開くと私を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫よ。パティ、自分を信じなさい」
こちらにきてそろそろ1年。
私は庭園に面したテラスで最後の刺繍となるイニシャルA・Lを刺していた。もちろんアンソニー・ド・ロレーヌからとったものだ。意匠は愛する人の健康と繁栄を祈るためのものである。無意識に選んでいたことに思わず苦笑する。この意匠はその複雑さから敬遠されるが、綺麗に刺せればこれ以上ない美しさがある。
すっかり遅くなってしまったが、アンソニーに立太子のお祝いとして贈るつもりだ。でも彼に新たな婚約者がいたら遠慮しようと思う。きっと、その方が素敵な刺繍を贈られるだろうから。
イニシャルに使った糸は榛色だ。何本もの糸の撚りをほどき組み合わせて作ったアンソニーの瞳の色と同じ色。
ついに出来た。
糸の始末をして切り落とす。木枠から外すと空にかざした。うん。いい出来栄えだ。やり遂げた自分が誇らしく思えた。
「それ俺のだよな」
「えっ?」
忘れもしない声が背後から聞こえて咄嗟に振り向く。そこにいたのは相変わらずここにいるのは当然の権利だと言わんばかりのアンソニーだった。
「パティ。なかなか戻ってこないから迎えにきた」
「えっ?」
迎えに来たって一体……。混乱している私にアンソニーは言葉を続けた。
「お菓子食べようって言ったのに悪かったな」
「……そうよ、ずっと待ってたのに」
堪え切れなくなった私は、アンソニーの胸に飛び込んだ。とめどなく涙が零れる。
アンソニーが私の背中を撫でてくれる。
「パティ、婚約してくれるだろ?」
「そんなに簡単に出来る訳ないでしょ? 自分が王太子になったって分かってるの?」
私はアンソニーの腕の中でぶつぶつと文句を言う。アンソニーは軽々と言うが、彼は王太子なのだ。彼と婚約するということは将来的に王太子妃になるということ。王太子妃の教育はとても大変だと聞いている。私に務まる筈がない。
「現王妃の乳母であり王宮女官長であるエルロイが太鼓判を押してるんだ。問題ないだろ」
「エルロイ様はそんな肩書の方だったの?」
「俺は大丈夫だって言ったんだけど、どうしても確かめるって言うから」
「大丈夫なんて、他人事だと思って」
「だってずっと俺と過ごしてたし、勉強もしてただろ?」
「えぇ、それはそうだけど。ただ単にお茶をしたり、お食事に招いて頂いたりしただけだわ。お勉強だってお茶のついでの雑談みたいなものだったじゃない」
私は精一杯抗議した。
「あれは俺と結婚した後にパティが困ることのないようにだな」
「は?」
「俺はパティ以外と結婚する気はないんだ。だいたい何でエルロイと一緒に戻ってこないんだよ。遅すぎる」
「だってそれは、刺繍もあったし、王太子妃になれるなんて思わないし……」
「パティ。素晴らしい刺繍は一生の宝物にする。だから一緒に帰ってくれ。ったく、これ以上待てるか。そういうことで連れ帰ってもよろしいですかね。リゴー侯爵夫人」
お母様がニヤニヤしながら頷いている。
アンソニーは急に私のことをお姫様抱っこするとスタスタと歩き始めた。
「ちょっと下ろしてよ」
「暴れると落とすぞ。しっかりつかまってろ」
ぎょっとした私がアンソニーの首にしがみつく。満足そうなアンソニーの顔が近くて視線のやり場に困る。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
「馬車を待たせてある。即刻王都に帰るんだ」
「だってまだ帰る準備もしてないのに」
「そんなものは侯爵夫人に任せとけばいいだろ」
「でも入用な物だって持ってきてないのに」
「そんなものは途中の街でいくらでも買ってやる。まだ何かあるか?」
「だって、そんな急に……んっ」
アンソニーの唇が私の口を塞いだ。何が起きているか理解した私の顔が熱くなる。
「どれだけ俺が待ったと思ってるんだ。それにこれでも俺は王太子だ。忙しいんだ」
玄関に行くと王家の馬車が横付けされていた。私と共に現れた王太子殿下を見た近衛兵がぎょっとする。私は居たたまれない気持ちになり、アンソニーの首元に顔を埋めて隠した。
私たちを乗せた馬車が走り出す。見送りにいらしたお母様が頭を下げた。
「パティ。王都に戻ったらすぐに婚約式だから」
私は諦めて頷いた。
お読み頂きありがとうございました