【都麦】今日も注ぐはマーフィーズ(マーフィーズ)
「なになに? おめでたいことですか?!」
菫は興味津々という表情で、顔を近づける。
「今日ね、希望していた会社から連絡があって、内定が決まったんだ」
都麦は少し照れながら、赤くなった頬で笑顔を作る。
「すごい! やった! おめでとうございます!」菫は想像以上のリアクションだ。「ランドロード! 都麦先輩今日就職決まったんだって! 今日はお祝いなんだって!」
「あら、そうだったんですね! おめでとう!」
マスターは少女のように目を細めて笑う。
「あ、ありがとうございます。でもそんなにたいそうなことじゃないんです。正直途中まではあんまりうまくいってなくて。みんなは私よりもずっとスムーズに決まっていくんですよ。今回決まったのも、なんていうか偶然のようなものですし」
そう言って、都麦は目を伏せたままゴブレットに口をつける。
「先輩。偶然は、準備のできていない人を助けないと思いますよ」菫は甘いキャンディーでも口に入れているみたいに、にこにこと笑っている。「フランスの細菌学者、ルイ・パスツールの言葉だけど。ワインやビールの低温殺菌法を開発した人なんですよ」
「準備か。できている気がしないなぁ」
「うちはこうも思います。偶然は、準備が完了する見込みのある人ならば、助ける」
「準備期間は一年間」
「それだけあれば、美味しいビールを好きなだけ飲む時間も、確保できます」
二人は同時にゴブレットを傾けて、ハートランドを飲み干した。
「ハマりそう」と、都麦は微笑んだ。
「でしょ? よし、次こそマーフィーズ! 都麦先輩は?」
「じゃあ、同じので」
「オーケー! ランドロード! ハーフパイント二つお願い!」
マスターは明朗な声で応答する。
「ねえ、ランドロードってなに?」
都麦は先から気になっていたことを菫に質問した。
菫はほんのわずかに得意な顔を見せる。ピンク色の唇がペンダントライトの光を受けて、艶やかに輝く。
「ランドロードっていうのはつまり『主人』。店頭に立ってビールをサーブするのはもちろん、どのビールを仕入れるかを決めたり、タップの維持管理をしたり、まあ店長兼オーナーみたいなものです」
「昔ながらのイギリスのパブなんかでは、そう呼ぶの」マスターがカウンターにグラスを二つ用意しながら言う。「でもそんなふうに私を呼ぶのは菫ちゃんくらいよ。なんだか恥ずかしくなる」
「カッコいいじゃん! ランドロードって。都麦先輩もそう呼びましょうよ」
都麦が心の中で密かに呼んでいたように、多くのお客さんは彼女のことを「マスター」と呼称するらしい。名前やあだ名で呼ばれることもあるが、それはときどき学生時代の旧友が来店したときくらいなのだそうだ。
彼女は少し照れくさそうに自己紹介をする。「日高さくら」というのがマスターの名前だ。旧友からは「さくら」や「さくちゃん」と呼ばれているのだという。
「私はどちらかといえば、『さくらさん』って呼びたいな」
都麦はマスターがタップからビールを注いでいるのを眺める。
「えっ、それずるい! うちもさくらさんにする!」
「菫ちゃんはずいぶん真似っこ気質だね」
「真似っこ上等。俗物、ミーハー、流行り物。一度は手に取り確かめよってね」
「菫ちゃん、まるで私が俗物で流行り物みたいじゃない」
さくらさんが眉をひそめる。
「いえいえとんでもない。さくらさんは粋人だよ」菫は人差し指を立てて詠う。「俗世間に流されず、風流、優雅、花柳界。渡り歩いてパブの中。さくらの名前に恥じることなく、今日も注ぐはマーフィーズ」
「はい、お待ちどうさま」
さくらさんがグラスを二つ、都麦たちの前に静かに置いた。
「なにこれ! 真っ黒!」都麦が言う。「これがマーフィーズ?」
「そうよ。麦芽を焙煎して黒く焦がしたスタウトビール」と、さくらさんは解説する。「有名なのはギネスだけど、マーフィーズのほうが苦味が抑えられていて、アルコール度数も低めね。だからスタウト初心者にもオススメ。それから、これはささやかだけど当店からの内定祝いです」
さくらさんは大きな白いひと皿を、両手でそっとカウンターに置いた。
「アイリッシュシチュー。マトンが手に入ったから、今週限定でメニューに加えているの。お口に合うといいんだけど」
「さくらさん!」菫がマーフィーズをひと口飲んでから叫んだ。「いつのまにこんな美味しそうなのを? おととい来たときはなかったのに」
「菫ちゃん、ろくにメニュー見ないじゃない」
ブラウンのスープに羊の肉と、ごろりとしたジャガイモが入っている。店内には、コンソメとトマトベースの香ばしいにおいが立ち込める。
「あ、ありがとうございます!」都麦は感激して言う。「その、私なんてまだ通い始めたばっかりなのに。こんなによくしてもらって――」
「おっ、聞きましたさくらさん。都麦先輩通う気満々ですよ!」と菫。
「それはうれしいわ。いつでも立ち寄ってね、都麦ちゃん」
都麦は思い立って、スマートフォンを取り出し、アイリッシュシチューとマーフィーズをよい角度に並べて写真を撮る。
「友達に自慢します」
店内の写真もいくつか撮らせてもらい、まだバイト中の芽衣へと送りつけた。
近いうちに、芽衣と一緒に来よう。きっと気に入る。