【都麦】仁木菫(ハートランド)
「いらっしゃい、菫ちゃん」マスターがにっこりと微笑んで挨拶をする。「ちょうど昨日マーフィーズを開けたけど、どうかしら?」
「いいわねマーフィーズ! 大好き! 甘くてクリーミーで香り高い。まるでカフェオレ」
その女の子は横笛でも奏でているような声で店内を横切り、なんと都麦のとなりに座った。カウンターのいちばん奥の席だ。後ろを通るときに、彼女からはふわりと柑橘系の香りがした。香水かなにかだろうか。
「となりいい?」彼女は快活な微笑みを浮かべて言う。言いながらもうすでに座っている。「ここが空いているかぎりは、うちの特等席なの。あなたは? うちは仁木菫。O大学三年の商学部企業法学科。ここにはよく来るの?」
(コミュ力おばけだ)都麦は思った。
彼女はとても華奢な体つきで、都麦より頭ひとつぶん背が小さかった。長い金色の髪を腰のあたりまで伸ばしている。養分をたっぷりと吸い込んだみずみずしいカキツバタのように、細くまっすぐだった。いたずらっぽい目と、わずかにのぞく糸切り歯が可愛らしい。
その服装は、流行というファッショナブルなうねりのど真ん中で、どんな批判にも耐えながら戦ってきたというような感じだった。ミリタリー調のジャケットに光沢のあるワイドパンツ。男物のようにも見えるサドルシューズを履いている。耳には完全な金環日食をそのまま取り付けたみたいな、どでかい黄金のピアスが光っていた。
「ちょっとあなた」仁木菫は都麦が飲んでいる緑色の瓶を指差して言う。「ハートランド好きなの?」
「えっ、ええまあ」都麦は曖昧な返事をせざるを得ない。
「うちもそれにする!」仁木菫はよく通る声で叫ぶ。「ランドロード! マーフィーズ始めちゃった?」
「大丈夫よ菫ちゃん。ハートランドねー」とマスターはのんびりと言う。
「あなたが飲んでいるのを見ると、うちも飲みたくなっちゃったの」
仁木菫はどんどん話を進める。
「ハートランドビールは1986年に、テレビ番組の企画を発端として麒麟麦酒が作ったプレミアム・ビールなんだよ。当時、ドイツはまだ東西に分かれていたし、ロシア連邦はまだソビエトだった。日本に目を向けると、大卒の初任給が十五万を切ってた。男女雇用機会均等法が施行されて、いわゆる男女平等とか、女性の活躍なんていうのが再考された時代だね。バブルはまさに絶頂期で、みんながみんな、将来は自動的に明るくなっていって、煌びやかに過ごせると思っていた。五年後になにが起こるかは、もちろん誰も知らない。とにかくみんな、決まり切ったレールの上の幸せを享受できれば大往生。でもそんな時代だからこそ、あえて脇道に逸れてみたいと心の奥底でひっそり思い始める人も増えていった。列車のポイントを無理矢理にでもがちゃんと切り替えて、個性的ななにかを追求してみようという想いが、だんだんと醸成されていったの。そんな時代に、ビールのプロフェッショナルたちが麦とホップと水だけで、どんなものを作り出そうとしたのか。それだけでもう飲む価値があると思わない?」
そこへマスターが、仁木菫の分のハートランドを運んできた。
「菫ちゃんほどほどにしなさいね。お客様がお困りよ」
都麦は困っているというより、圧倒されていた。仁木菫は、1986年についての専門的な研究でもしているのだろうかと思った。
「えっ?! うち困らせてた? ごめんなさい、ええと――あなたは?」
「島牧です。島牧都麦」
「都麦! うちと同じで音数が三文字だね! 仲良くできそう!」
(やっぱりコミュ力おばけだ)と、都麦は思った。
都麦と菫はゴブレットを軽く掲げて、乾杯をした。副旋律を奏でるチェレスタのような高音が店内に響き渡った。
菫はこの店の(マスターいわく、数少ない)常連客で、週に三回ほどエールビールを飲みに来ているという。彼女は都麦と同じく小樽にひとり暮らしをしている学生だった。O大学三年の商学部企業法学科。
都麦が四年生で一応先輩にあたることを告げると、ビールを吹き出しそうになる勢いで慌てだし、何度も謝罪された。
「でも、ひとりで飲みにくる女の子なんて、けっこう珍しいですね。うち以外で初めて見た――都麦先輩はどうして今日来たんですか? なにかきっかけが?」
菫はハートランドを注ぎ足しながら言った。
「うん、実はちょっとしたひとり祝いというか」
★ ★ ★
都麦「マスターに『Keg』の意味を聞いてきたよ!」
芽衣「ほう、それで?」
都麦「その前に、パブで出されるエールビールの分類について、少し解説が必要になるんだよね」
芽衣「エールビールの分類?」
都麦「うん。エールビールっていうのは、大きく『カスク・コンディション』と『ケグ・ビア』に分かれるらしいの。カスク・コンディションは、醸造されたビールを殺菌せずそのまま樽に詰めて、パブに出荷される。そして熟成度合いをみながらベストのタイミングで、お店に出されるの。井戸水と同じ要領でハンドポンプでくみ上げて、カウンターに並ぶ。これが『リアルエール』ってやつで、余計なガスが注入されていない、苦味の効いた、生きたビールなんだって。本場イギリスでしか飲めないらしいよ」
芽衣「へぇー」
都麦「それに対して、不純物を取り除いて殺菌したビールを樽に詰めて、ガス圧で組み上げるのがケグ・ビア。パブで見かける銀色のハンドルは『タップ』って言うんだけど、だいたいこの種類のビールみたい」
芽衣「なるほど。その種類のビールを出しているから『Keg』ってことね」
都麦「ちなみに元々の語意は、カスクが大樽、ケグが小樽」
芽衣「小樽――そっか! 小樽市ともかけてるんだね。なかなか考えられてるんだー」
都麦「どうよ? 後書きらしい後書きになったでしょ?」
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