【都麦】イリノイ州の大樹(ハートランド)
都麦はまたも戸惑った。中瓶とゴブレット?
それがよろしいものなのかどうか、注文した自分が判断できない。
「ええと――はい! それで!」
いや、大丈夫なはずだ。きっとオススメの飲み方なのだ。
マスターはカウンターの中で準備に取りかかる。
店内にはブルースロック・ミュージックがかかっている。とても小さな音量だ。ハーモニカを主旋律にした小編成のバンドで、軽く跳ねるようなスネアドラムと、ひずみのあるベースの刻みが心地よい。見回してみると、天井にブックシェルフ型のスピーカーが二つ取り付けられている。ボーズ製のつやつやしたボディだった。そこから生み出される音の粒は店の雰囲気とも溶け合って、まるで時代も場所もトリップしたような気分になる。
「お待たせ致しました。ハートランドビールです」
都麦の目の前に、ことんと心地よい音を立ててそれは現れる。
グリーンの中瓶と、ロゴのついたゴブレット。
「あ、ありがとうございます!」
しばらくその光景に見とれる。
磨き上げられた木製のカウンターに佇んでいる緑色のボトル。
それはアメリカ合衆国イリノイ州の穀倉地帯にそびえる一本の大樹だった。それはとても堂々としているにも関わらず、一方では主張しすぎない。とても紳士的な立ち振る舞いだ。多くの人間は彼を見習うべきだと、思わずにはいられない。
瓶を傾ける。きれいに洗浄されて透き通ったゴブレットに、それを少しずつ注いでいく。黄金色の泡立つ液体が、ガラスの内側に満たされていく。
半分くらい注いだところで、もしかしたらハートランドには由緒正しいちゃんとした注ぎ方があるのではないかと、都麦は勘ぐった。なにかで聞きかじったことがあるような気がする。いや、しかしもう後戻りはできない。ゴブレットが「止めるんじゃねえぞ」と言っている。本当だ。
結局、慎重に注ぎすぎたせいで泡がほとんど消えてしまった。液体がてっぺんから底まで満タンになった強欲な一杯が、都麦の目の前に完成する。
(やっちまった――まあいい。どうせ飲むんだ)
透き通ったレモン色の液体の中では、生命が躍動していた。
無限に生み出される気泡がその証拠だ。穏やかでかつ青々とした香りが鼻を刺激した。柑橘系の澄んだ香りだ。やれやれ、アロマホップが仕事をしすぎている。過労死寸前ではないか。労働基準法違反待ったなしだ。
こぼれないように慎重にゴブレットを手にする。左手で持ったあと、少し不安定に感じて右手で持ち直す。ほどよく冷えたガラスのつるりとした感触。指に染み込む水滴。
そのまま水平を保ち、口元へと持っていく。ゴブレットが唇に触れる。
一瞬だけ、夢の中で芽衣とキスをしたことを思い出す。あるいは成人式の夜に、芽衣に押し倒されるかたちでキスしてしまったことを思い出す。しかしそれはすぐに通り過ぎる。流れの速い渓流の飛沫のように、すぐに川へと帰り、消えていく。
柔らかい甘さと落ち着きのある苦味が口に広がった。
それは舌を包み、喉を通る。
(ほおーっ!)目を閉じて、心の中でため息を漏らす。
内定祝いにふさわしい最高のひと口だと、都麦は思った。
私よりも早い時期に内定をもらった学生はたくさんいる。私よりも「いい企業」とされるところに決まったあの子もいれば、全然苦労することなく面接を通過していったあいつもいる。
しかし、内定をこの一杯で彩った学生は、おそらく私だけだ。
(どうだ参ったか!)
「美味しい!」都麦は心から叫び声をあげた。
「ハートランド、お好きなんですか?」とマスターが尋ねる。
「あっ、ええまあ。あんまり詳しくはないんですけど、あるとつい頼んじゃいます」
「美味しいですよね。私も大好きです」
彼女がハートランドビールが好きだというのは、今の都麦にとってとても嬉しい情報だった。
「近くにこんなおしゃれなお店があるなんて知りませんでした」都麦はもうひと口ハートランドを喉に通す。「なかなか小樽で飲む機会って、少なくて」
「もしかして、大学生さんですか?」
「はい。今四年です。O大学の」
マスターは両手を胸の前で合わせて、目を丸くする。まるで少女のようなしぐさだ。
「そうだったんですね! 私も実はO大の卒業生なんです!」
「えっ?! 本当ですか?」
「はい。商学部の経営学科でした。札幌から通学してたんですけど、一限が朝早くて大変だったなあ――」
「札通の友達はみんな言いますね、それ」
「一年生の頃はちゃんと足で登ってたんですよ、地獄坂」
小樽駅から大学までは、徒歩で約三十分ほどかかる。そのうえ途中からは「地獄坂」と名前のつけられた、勾配が十度以上もある理不尽な傾斜を登っていかなければならない。
「私の家は坂の中腹ですけど、そこからでもしんどいですよ。あの坂」
都麦は眉を歪ませて言う。
「駅からならタクシー相乗りできちゃうから、小樽住みの学生のほうが大変かもしれませんね――それにしても、後輩がお店に来てくれるなんて感激だなあ。あ、そういえばそろそろ――」
彼女が腕時計を確かめた。時刻はまもなく午後七時になろうとしている。
ちょうどそのとき、店のベルがからんからんとリズムよく鳴り響いた。
「ハーイ、ランドロード! 元気? 今日オススメのエールビールを教えて?」
長い金色の髪をはためかせて、女の子が入店してきた。
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