【都麦】アイリッシュパブ「Keg」
そこはまるで夕焼けのようなオレンジ色のライトに包まれていた。
入り口にはとても細い筆記体で小さく「Keg」と表記されていた。「ケグ」という読み方であっているのだろうか。どういう意味なのだろう。
(すごい――)都麦は心の中で感嘆のため息を漏らした。
店の中にはたくさんのグラスやボトルが所狭しと陳列されている。さほど広くはないこじんまりとした店内だ。1970年代のハードボイルドな洋画なんかで登場しそうだと、都麦は思った。今にもロバート・デ・ニーロが店のベルを鳴らして入店してきそうだ。
あのとき芽衣と行ったお店とは明らかに違った。
お店を間違えたのだろうか。場所はあっているはずだった。
「いらっしゃいませ」
カウンター内にいる店員がにっこりと笑って挨拶してくれた。二十代半ばくらいの細身の女性だ。綺麗に赤く染められた長い髪はゆるくパーマがかかり、どこか南の国の穏やかな暖流を思わせる。飾り気のないゴムひもでハーフアップにしていた。黒いスラックスにグレーのジレを着ている。白いシャツは袖まできっちりとボタンが止められていて、しわひとつない。臙脂色の細いシルクのネクタイをつけていた。
店内に従業員は彼女ひとりだ。とするとあの人がこの店の店長なのかもしれない。いや、こういうお店はマスターというべきなのだろうか。まずい。全然わからない。
客はまだひとりも入っていなかった。とは言っても時刻はまだ六時半で、今日は平日だ。それにこういうお店はたいてい、もっとうんと遅い時間から混み始めるのだろう。たぶん。
「おひとり様でよろしかったですか?」彼女は尋ねる。
「ええと、はい」都麦はおたおたと答える。
「それではカウンター席へ。お好きなところへおかけください」
カウンターはL字になっていて、合計七つの席があった。
都麦はそわそわしながら、奥から二番目の席に腰をかける。カウンター内にはたくさんのグラスがまるで宝石のように輝いていた。等間隔に取り付けられたアンティークのペンダントライトが光を与えて、初めてこの世界に存在できるというみたいに。彼らはとても居心地よさそうに、かつ礼儀正しく整列している。
テーブルは濃い焦げ茶色で、表面がツルツルとしていた。カウンターの内側にはビールを注ぐための銀のハンドルが、その銘柄ごとに五つ並んでいる。ピカピカと光を反射していた。どれも西洋の英雄が持つ盾のようなロゴが付いている。その器具はたしか特別な呼び方があった気がするが、都麦には思い出せそうになかった。
マスター(と、暫定的に呼ぶことにする)がまもなく暖かいおしぼりを持ってきてくれた。
こんなにいい雰囲気のお店ならもう少しちゃんとした服装をしてくるべきだったと、都麦は深く後悔していた。すぐそこのコンビニにでも行くような格好だ。七分丈のノンウォッシュ・デニムに黒のパンプス。スカイブルーのブラウスはユニクロで二千円を切る逸品だ。髪は洗いざらしのまま下ろしており、化粧もなし。せめて眉毛くらいは描き込んでこればよかった。
ともあれ、ハートランドだ。目的を忘れてはいけない。
都麦は目の前に立てかけてあった黒い表紙のメニューをとって開いた。
それはまるで異国の魔導書だった。
聞いたことのないビールの名前がたくさん並んでいる。「ステラ・アルトワ」。ロールプレイングゲームに出てくる女騎士の名前みたいだ。「カーリング」。冬季オリンピックでは日本が銅メダルを獲得するという偉業を成し遂げていたが、たぶんカーリング違いだろう。「エストレージャ・ダム」。とりあえずスペインのビールなのかな?
いくらめくっても呪文が続くだけで、ハートランドビールが現れない。都麦は焦り始める。おしぼりで意味もなく手を拭いて、ごまかす。
「よろしければ、もうひとつの青いメニューにスタンダードなお飲物と、お食事がありますよ」と、マスターが心を読んだように助け舟を出す。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
手にしている黒いメニューはどうやら海外のビールだけのものらしい。都麦はもうひとつの青いほうのメニューに手を伸ばした。
「当店へは初めてお越しですよね?」とマスターは美しい微笑みで尋ねる。
「あ、はい」都麦はぎこちなく返事をする。
「それはありがとうございます。ここにお店を出してまだ半年なので、正直なところ知名度もないし、恥ずかしながらあまり繁盛してないんです」彼女は苦笑いを浮かべる。「だからゆっくりと、時間を気にせずお過ごしくださいね」
カウンター越しにそう言う彼女の瞳には、とても優しい光が宿っていた。
都麦はほんの少しのあいだだけ、うっとりと彼女を見つめた。笑うと目尻に小さなしわが浮かんだ。それは老いや後退を象徴しているわけではない。むしろ成熟した価値観のようなものが刻み込まれているように思えた。目尻以外には皮膚のたるみはまったくない。さらりとした髪に、丸みを帯びたひたいと柔らかそうな小さな耳が見え隠れしている。白い頬と、ふっくらした唇を持っている。そのひとつひとつの特徴に、都麦はとても親しみを覚えた。
「そうだったんですね。以前ここには、別のお店があった気がしてたんです」都麦は前の居酒屋には悪いが、テナントが入れ替わってよかったと思った。「あの、ハートランドはありますか?」
「ええ、ございますよ」
都麦は心の中で両手を握る。完璧だ。口の中で唾液が踊った。
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりました。500mlの中瓶とゴブレットでお出ししてよろしいですか?」
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芽衣「第六話にしてやっとタイトルらしく、お店が出てきたねー」
都麦「すてきなお店だよねー! そして次回、ようやくビールの登場だよ!」
芽衣「ねえ、ちなみに『Keg』ってどういう意味?」
都麦「あ、私もまだマスターに聞いてないや」
芽衣「ちょっと主役。後書きやる自覚が足りないんじゃないの?」
都麦「ごめん! 次の後書きまでにちゃんと聞いてくるから!」
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