【都麦】やればできる子!
都麦はスーツを脱ぎ、シャツを脱ぎ、それらはクリーニングに出すことにしてビニール袋につめ、玄関に置いた。そして汚れてもいいTシャツとジャージに着替えた。高校の文化祭で作ったクラスTシャツは趣味の悪い黄緑色をしている。同じく高校時代の体育で履いていたジャージは完璧なまでにダサかった。まさしく掃除をするにはもってこいだ。
窓を開けて、ノートパソコンで小さめに音楽をかけた。動画サイトでバックストリート・ボーイズのメドレーを見つけたので、再生ボタンをクリックする。さっそく「I want it that way」が始まる。アコースティックギターのアルペジオが鳴り出す。
就活関連のものを容赦なくゴミ袋に突っ込み、紐でまとめ、部屋の端にどんどん積み上げていった。一緒に読まなくなった漫画やテキストも積んだ。
雑巾を絞り、ベランダの物干し竿をきれいに拭いて、そこに掛け布団を干した。床には掃除機をかけた。洗面所とトイレ、風呂場などの水回りにも手をつけた。シンクの水垢は、ゲキ落ちくんを使うことでずいぶんきれいになった。
ベッドの敷布団カバーを引き剥がして洗濯機に突っ込んだ。そして、テレビ台に雑多に詰め込まれていた古い化粧品の選定をしているとき、昔に撮った写真が目に入った。
その写真は、芽衣と一緒にどこかの居酒屋で撮った一枚らしかった。
しばらく記憶が戻らなかったが、二人とも妙に髪がきらきらとしており、大きく盛られているのを見て気が付いた。
成人式のときのものだ。
都麦はベッドに腰をかけて、その写真を眺めた。髪を染めているからか、今よりほんの少し幼く見える。芽衣の髪は今より少し長いダークブラウン。都麦の髪はそれよりももっと明るくて長い。芽衣はいつもどおりの朗らかな笑顔をしているが、私は明らかに不意をつかれたような表情だった。たしかこのとき、芽衣が急にデジカメを向けてきたのだ。セルフで撮ったので、少しぶれている。
しかしそれでも、芽衣はきれいな顔をしている。
都麦は見とれた。そして今日図書館でうたた寝したときに見た夢のことを思い出した。私と芽衣が抱き合って唇を重ねている夢。それもほかのことなどいっさい考えず、ただ味わうように、夢中になって。
(私、今日何回あの夢のこと思い出して――もう)
あの夢へと繋がりうる深層心理があるとしたら、あの成人式の日の体験だと思う。
そうだ、あれは成人式の日だった。
私たちが法律的な意味で大人になった、あの日だ。
私たちは二人でお酒を飲んだ。そのまえにそれぞれ別のメンバーで飲んでいたせいもあって、かなり酔いが回っていた。
そのまま芽衣は、私の部屋に泊まりに来た。
ジュースみたいな缶チューハイをそれぞれ飲みながら、まさにこの部屋のこのベッドに二人で座って、一緒にテレビを見ていた。どんな番組だったかは覚えていない。あまり面白くないバラエティだったような気がする。
芽衣は珍しく、そうとう深く酔っていた。頭をふらふらと揺らし、ときどき私に体重を預けて、腕を絡めて、大きな胸の膨らみをあててきた。「もうむり」とか「飲めません」とか、短い日本語を何度か口にした。
そして突然「ねえ都麦、ちゅーしてよー」と言った。
私は「酔ってるでしょ」と、いくらか呆れたような声で言った。流しで水を注いでこようと思い、立ち上がろうとする。
しかし芽衣が私のシャツを引っ張って離さなかった。
「いっかいだけー」と、芽衣はヘラヘラした声で言う。
「まったく。オヤジみたいになってるよ芽衣」
「都麦は嫌なの? ちゅーするの」
「嫌とかじゃなくて――」
「減るもんじゃないよ」
「だからオヤジかって」
そんなやりとりをしているうちに、芽衣が私をベッドに押し倒して、唇を無理矢理に押し付けてきた。私は反射的に彼女の肩を掴んで、引き離した。
「へへ、奪っちゃったー」
芽衣はベッドにうずくまる格好になって笑った。
言ってしまえば、それだけのことだ。
翌朝、芽衣は昼近くまでぐっすりと眠り、のろのろと起き出したときには、彼女はなにも覚えていなかった。
いや、実際には覚えているのかどうかを確認しなかった。「芽衣、あなた昨日なにしたか覚えてる?」と正面から聞くことは、そのときの都麦にはできなかった。芽衣は芽衣でキスしたことなんてまるでなかったことのように、話題には上げなかった。次の日も、その後もずっとだ。
だから「覚えていない」というのが妥当な結論だ。
そんなことが起きたのは、もちろんそれ一回きりである。
多分あの経験が、多少編集されたバージョンで、たまたま今日再生されたのだ。すごい編集技術だと思ったけど、同時にとても悪意に満ちた改変だと思った。
都麦はその写真をもとの場所にしまった。
部屋の掃除がひと段落ついた頃には、時計の針は午後五時半を指していた。
ふうと息を吐き、部屋を見渡す。それからふと思い立ち、スマートフォンを構えて部屋の隅のほうに立つ。できるだけ全体が収まるように角度を調整し、部屋に向けシャッターを押した。
〈やればできる子!〉というコメントと一緒に、芽衣へ写真を送る。アルバイト中だから、返事はもう少しあとになるだろう。
家族メッセには姉から〈調子のんな〉とコメントが入っており、母からは〈内定祝い、お米と小麦粉どっちがいい?〉と返信が来ていた。
「そんなのお米一択じゃん」
適当に返信をしてからスマートフォンをベッドへ放り投げ、都麦はシャワーを浴びる。ぬるめのお湯で、いつもよりゆっくりと背中を流した。
風呂上がりに髪を拭きながら、冷蔵庫から発泡酒を一本取り出し、下着姿のまま缶のプルタブを開けてぐいっと飲む。あまり美味しくなかった。どこかのスーパーのプライベートブランドの発泡酒だ。舌が痺れるような不愉快なアルコールの味がした。
(ハートランドビールが飲みたい)
ふいにそう思った。
この辺りのスーパーってハートランド売ってるんだっけ? あの緑色でラベルのないシンプルな瓶は、近くのコープで目にかかったことはない。ときどき居酒屋で扱っていることがある。メニューに並んでいるときはだいたい頼んでいた気がする。
そう。それこそ成人式の日に芽衣と一緒に飲んだのはハートランドビールだった。
あれ以来、お気に入りのビールのひとつになったのだ。
あの店はたしか、ここからそう遠くない。
だめだ。なんとしても飲みたい。
ひとり居酒屋なんて生まれてこのかたしたこともなかったが、なんたって今日は内定が決まった記念すべき日だ。
理由ならじゅうぶんだ。
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