【都麦】致命的な自炊能力の欠如
夢の中では、いったいどういう成り行きかはわからないけど(夢なんて概してそういうものだけど)私たちが抱き合い、腕を回して、熱心に唇を重ねていた。ほとんど貪るように、お互いの舌を絡めあっていた。
「さっき?」芽衣は手際よく櫛を動かしながら言う。
都麦は振り返って芽衣の顔を見る。
そこにはもちろん、どこか達観していて飄々とした、本物の芽衣の顔がある。夢の中に現れた、恍惚の表情を浮かべている芽衣ではない。
現実世界の彼女の大きな黒い瞳と長い睫毛がある。それは若いアーティストの描いたモダンアートみたいだった。少し厚めの唇は、薄く口紅が引かれている。それは触れば柔らかく、口づけすれば味もあるし、においも感じる、実体のある唇だった。
「ちょっと首動かさないで。どーしたの? しまこ」
芽衣はときどき使う苗字由来のあだ名で、私を呼んだ。
「いやあ、さっき夢で、私たちがさ」
まるで恋人みたいにキスをしてた。二人ともすごく興奮してたの。唇も舌もめちゃくちゃ気持ちよくて、なんていうか、ヤバかった――
しかし結局都麦は話題にあげることができず、「いやごめん。なんでもなかった」と言った。
もし芽衣に話せば、彼女はたぶん「なにそれ、やだ!」と顔をしかめる。気持ち悪いしあり得ない。眉間にしわを寄せて、少し笑いながらそう言う。
そしてひとしきりネタにしてから、お昼ご飯になに食べるかという当たり障りのない話題に自然と移行するだろう。その程度の夢だ。
でもなぜか、ほんの二パーセントくらいのわずかな確率で起きるかもしれない空気の変化に、都麦は怖くなった。
「なにさぁ、気になるじゃんかよー」と芽衣があまり関心なさそうに言う。
「ほんと、なんでもないよ。全然くだらないことだった」
話せば、私の深層心理にそういう気持ちがあるんじゃないのかとか、根拠もなく疑われるかもしれない。言いふらされたらたまったもんじゃない。それはちょっと、面倒だ。
「そうだ都麦、あんた部屋また散らかってるんじゃない?」と、芽衣が言う。
都麦はぎくりとした。「芽衣、エスパー?」
「今日まで就活でかっつめてたんでしょ? どうせと思って」
「もうひどいことになってる」
都麦には、なにかひとつのことに集中し始めるとそのほかがてんでおろそかになる傾向があった。それも実生活に支障をきたすレベルで。
代表的なものが、家事全般だ。
大学進学に合わせてひとり暮らしを始めたとき、母親に一番心配されたことだった。最初は気合いを入れて、それなりの調理器具を揃えて自炊しようとしたり、曜日を決めて掃除が滞らないようにしていた。コルクボードを買ってきて予定表を画鋲で貼り付けまでした。
最初の一ヶ月ですべてが破綻した。本格的に大学の講義が始まり、アルバイトも入れ始めると、それに比例するかのごとく冷蔵庫には消費期限切れの食材が溢れた。使われなくなった弁当箱がシンクに置きっ放しになり、昼食はコンビニのお弁当や学食で間に合わせるようになった。キャビネットにはインスタント食品が大量に詰め込まれることになったし、部屋の隅には大きめの毬藻のような綿ごみがたくさん生まれ始めた。
その後、見かねた芽衣が定期的に掃除をしてくれたり夕飯を作ってくれたりする。
そのため都麦は床につくとき、足が彼女の家のほうを向かないように、注意深く向きを確認してから就寝している。そうしないわけにはいかない。
「今日はバイトだから無理だけど、明日あたり片付けに行ってあげるよ」
「わ、悪いよ! もう就活も終わったことだし、なんとか自分で」
「同じようなセリフ、もう三万回は聞いてるよー」
返す言葉もない。
都麦はここのところ、自分のあまりの生活能力のなさにいつしか芽衣が愛想をつかすのではないかと、本気で不安に思っていた。
「はい。髪、ちょっとはマシになった」芽衣は櫛をたたんで言う。
「うう、ありがとう」都麦は潰れたような声を出す。
「そんなにしょげないの。まあ、道外まではさすがに私も掃除しに行けないから、来年からは自分で頑張るんだよー」芽衣は歌うカナリアのように言った。「それよりせっかくの内定なんだから、お祝いしなくてはだよ、しまこ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の午後に予定していた企業の説明会はキャンセルし、近くのコープで軽く買い出しをしてから、都麦は帰宅した。
ひとり暮らしをしている六畳半ほどの部屋は、絶望的に散らかっていた。
説明会のたびにもらう企業のパンフレットやクリアファイルが散乱している。ベッドの上にも、大手保険会社の無意味に立派なファイルに、とあるゼネコンからもらった分厚い資料が陣取っている。
こいつらをすべて捨てられると思うと、胸が踊った。
都麦はベッドの上の書類を適当にまとめてちゃぶ台に置き(ちゃぶ台にはすでにほかの資料が積まれていたが、気にせずに重ねた)、ベッドにどかりと座り込んだ。ショルダーバッグに入っていたペットボトルのお茶の残りを飲む。
実家へスマートフォンからメッセージを入れた。母と姉と都麦の三人の家族メッセに〈内定ゲット! やっと解放された!〉と送りつける。ほんの数秒後に母親から「おめでとう」のスタンプが送信される。母親は不定休のフルタイムの仕事をしている。今日は休みの日だったのだろうか。都麦は〈内定祝い所望〉と返した。スマートフォンをベッドの隅に投げ出し、仰向けに寝転ぶ。
見慣れた天井を眺めながら思う。さて、どうしよう。
部屋の丸時計は午後三時を指し示している。窓の外では春の陽気がまだまだ元気に降り注いでいる。
〈道外まではさすがに私も掃除しに行けないから、来年からは頑張るんだよー〉
頭の中で芽衣が言う。そのとおりだ。
来年からは社会人。部屋の維持管理くらいは、自分でできるようにならなければ。
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芽衣「都麦もきちんと自炊していれば、今頃もっとお金も溜まっていただろうにねぇ」
都麦「いいや、それはない」
芽衣「どうしてさ?」
都麦「あればあるだけ使ってたと思うね、私は」
芽衣「そんなことで胸張られても」
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