【都麦】栗山芽衣
「よかったね都麦。内定ゲット」
栗山芽衣が朗らかな笑みを作って言った。小さなえくぼが、まるで南国の料理に添えられたハイビスカスのように現れる。
都麦は図書館を出てすぐに芽衣に連絡を入れ、キャンパス内にある学生棟の学食で落ち合った。
「芽衣ぃ! 本当にありがとう! 芽衣のおかげだよぉ」
都麦は芽衣の両手をとって、強く握った。芽衣の顔を見ると、目頭がまた熱を帯びて沸点を超えそうになる。
芽衣とは就活で落ち込んだとき、よくメッセージをやりとりしていた。もしも彼女がいなかったら、今頃は心がぽっきり折れてしまっていたかもしれない。
食堂は二百近くの席があり、天井が高く広々としている。
北側はガラス張りになっていて、とても見晴らしが良かった。晴れ渡る空を薄い雲が、ゆっくりと東へ向けて旅をしている。その下には小樽市の街並みと港が見える。もう三年も見慣れたパノラマだった。
給仕室からはできたての料理のにおいが立ち込めている。食材を焼く香ばしい音や、壊れたシンバルみたいな調理器具の金属音がする。ちょうど昼休みの時間が近づいており、食堂には学生が次々に押し寄せ、みるみるうちに雑踏で埋まっていく。
「私はなんにもしてないよー。都麦がこつこつ一生懸命頑張ったから、実を結んだわけですよー。『たとえ小さな斧でも、数百度これを打てば、堅い樫の木も切り倒せる』ってね」
芽衣はまるで空中の見えない音階をなぞるように、朗々と言う。ひっかかりのない、歌声のような声が彼女のいちばんの特徴だった。
「なあにそれ?」
「シェイクスピア」
「つまり私は小さな斧?」
芽衣はゆっくり首を横に振る。
「ううん。就活生なんてみんな小さな斧だよ。重要なのは振りかざす回数なんだよ」
「私、エントリーシートたくさん書いた。頑張った!」
「うん。都麦はえらいえらい」
芽衣は優しく都麦の頭を撫でた。
彼女はスキニーのデニムに紺色のブラウスを合わせていた。装飾品のないシンプルな服装だったが、それが栗山芽衣の白い肌をより明るく、魅力的に見せている。銀色の細い腕時計だけが、彼女の左腕でささやかに光っている。それは都麦がここ最近で見た、いちばん幸福な腕時計だった。
黒髪のショートカットは、まるで一流パティシエの作った飴細工のようにも見える。それは艶やかで、いつもきれいに切りそろえられていた。風に揺れると、たくさんの花が植えられた西洋の庭園に迷い込んだようないいにおいが鼻をくすぐった。
彼女はもう二週間も前に就活を終えたばかりである。札幌に本社がある中規模の出版社だ。毎月旅情報を中心に掲載した雑誌を発行している。この学食の二階にある購買にも、いつも並んでいる。
「それで、都麦はもう就活終わり?」と、芽衣は言う。
「うん。もうひとつ結果待ちがあるけど、残ってる中ではCTフーズがいちばん行きたいところだったから」
「じゃあ全国転勤だ。いったいどこに飛ばされるんだろうね」芽衣はにやにやと意地の悪い笑顔で言う。黒い瞳が細くなって、長い睫毛が強調される。「鳥取、島根、大分――」
「なんで僻地ばっかり」
「もしかしたら沖縄かもよー」
「沖縄に支社ないから」
「わかんないよ。今建ててるかも」
「とにかく田舎は嫌なの」
「まったくなにを言っとる。田舎者はお主もじゃよー」
芽衣がしゃがれたような声を作り、都麦のひたいに人差し指を押し当てる。
「だからこそじゃん」都麦はその人差し指をチョキで摘んで引き剥がす。「いい? 私は北海道を出て、都会のOLになる。来年の今頃は、丸の内とか恵比寿とかの駅近オフィスに、通勤ラッシュより少し早めの山手線に乗って出社してるよ。カッコいいスーツにヒールの高いパンプスでね。そして出勤前にスタバでブラックコーヒーを飲みながら、プレゼンの内容を復習したりしているってわけ。ね、栗山おばあちゃん」
芽衣はため息をつく。
「分に安んじ、己を守るべきってね」
「どういう意味?」
「身の程をわきまえて、高望みせずに生きることが大事だよってこと」
「少年よ大志を抱けって、クラークさんが」
「少年よ我に帰れって、やくしまるえつこさんが」
都麦は首をかしげる。
「それ、そういう意味だっけ?」
「さあ」
「そもそも、そういえば私少女だし」
「そうだね、夢見る少女。おまけに自炊能力ゼロ――ていうか都麦、髪に跡ついてるよ。なおしてあげる」
そして芽衣はもう一度都麦の頭を撫で回してから、ショルダーバッグから折りたたみの櫛を取り出した。後ろに回って、都麦の長く黒い髪を毛先から梳き始める。
「あ、そういえば夢で思い出した。さっきね」
都麦は図書館で居眠りしてしまったときに見た、あの少々不健全な夢のことを思い起こした。
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