【都麦】東京03からの電話
私は、芽衣と唇を重ねていた。
どうしてそういう状況になったのかはわからない。なぜか、あらゆる説明が省かれていた。気がつけばキスシーンだった。とにかく私と芽衣は六畳半くらいの私の部屋にいて、安物の軋むシングルベッドに腰をかけて、お互い背中に腕を回しキスをしている。
それは悪ふざけなどではなかった。二人とも真剣に目を閉じて、腕にはぎゅっと力を込めて、夢中でお互いの唇を味わっていた。口を開けて、柔らかい舌を絡めていた。私はほとんど心酔して、芽衣を押し倒さんばかりの勢いで、それを行なっている。
やがてゆっくりと唇が離れた。芽衣はにっこりと笑って、小さなえくぼを作る。きれいに整えられた黒髪のショートカットが軽く頬にかかる。彼女は「そうだ、写真を撮らなきゃね」と言う。芽衣はスマートフォンやデジタルカメラで写真を撮るのが好きだった。
私は「うん」と言った。気味が悪くなるほど、甘ったるい声だった。
本当はもっとキスをしていたかったのに。もう一回きて――そうせがむような声だ。友達の前で、なんて声を出しているんだろう。
突然、芽衣が持っているスマートフォンが音を立てた。着信を知らせるバイブレーションだ。彼女は「ほら電話だよ、都麦」と言う。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
小さな鳥の鳴く声が聞こえる。
目の前の窓は半分ほど開いていた。
そこから春のにおいが風に乗って迷い込んでくる。最近の陽気で、大学の構内もずいぶん春らしくなった。本州に比べると開花が遅い桜の花も、ようやく満開になるころだ。
島牧都麦は目を擦りながら、ぼんやりとそんなことを思う。
彼女が目を覚ましたのは大学の図書館だった。
明るく照らされた蛍光灯の元で、どうやら居眠りをしてしまったらしい。ひたいに手を当てると、じっとりと汗で濡れていた。突っ伏して寝ていたせいで、ルーズリーフのページの端はぐしゃりと折れ曲がっている。いくつか残された書き込みは途中からミミズのようにのたうちまわっており、解読不能だった。
そして、机の隅に投げ出されたスマートフォンがけたたましい音をたてている。
「03」の市外局番から始まる番号だった。
都麦は「やばっ!」と反射的に叫んだ。素早くスマートフォンをひっつかむ。
靄のかかっていた頭の中が大量の冷水を浴びたように、一気に目覚めた。
筆記用具と手帳だけショルダーバッグに放り込み、黒いリクルートスーツ姿で、大急ぎで図書館の外へ出る。近くで自習をしている数人の学生たちの冷ややかな視線を感じる。都麦は心の中で謝罪しつつも、「こっちだって、今後の人生を左右するかもしれない一大事なの!」と無言で主張した。
彼女は頭をフル回転させて予測する。
四月二十八日現在。東京から電話がかかってくる可能性があるのは二社。大手飲料メーカーである「CTフーズ」の最終結果か、同じく飲料だがベンチャー企業の「ジェイ・ビバレッジ」の二次選考の結果だ。どちらにせよ、直接電話がかかってくるということは「お祈り」ではないはず。直接不合格を伝えてくるほど、この時期の人事部は暇じゃない。だからこれは絶対に「いい知らせ」だ。
都麦が心臓が飛び出そうだった。
図書館を出て、ひんやりとした廊下の角で咳払いをし、喉を整える。
そして震える手で着信を繋げる。
「もしもし」
出だしから声が裏返る。落ち着け私!
「もしもし。島牧さんのお電話でお間違いございませんでしたか?」
中年男性の、太く落ち着いた声がした。
「は、はい。O大学商学部三年――失礼しました! 四年の島牧都麦と申します」
男性の声はリズミカルに笑う。「株式会社CTフーズ、人事の田宮です。ただいま、お時間よろしかったでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「先日は、弊社の最終選考にわざわざお越しいただき、誠にありがとうございました。本日はその結果を島牧さんにお伝えしたく、ご連絡致しました」
都麦はからからの声で「はい」と言った。廊下を男子学生のグループがおしゃべりしながら通り過ぎていく。彼女はその後ろ姿を睨みつけた。
「弊社人事部と役員の厳密な選考の上、我々と致しましてはぜひ来年から、島牧都麦さんと一緒に働きたいと考えております」と、人事の田宮は告げた。
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