アリア…
まるたけえびすに おしおいけ
あねさんろっかくたこにしき
アリア…。
君と京都で出逢ってから、この童歌が忘れられない。もうすっかり、憶えてしまったよ。
碁盤の目の京都の、東西の通り名を織り込んだ歌。
時折、口を突いて出そうになるんだ。
君はこの歌の、後半まで全部憶え切れたら、ご褒美をくれると言ったね。
京都の人でも、全て憶えてる人は珍しいんだと言って。
君はどこか勝気な瞳で、桜桃色の唇で、僕に約束してくれたんだ。
君と初めて出逢ったのは京都の地下鉄烏丸線だった。
僕は出張で京都に出向いた。
京都駅地下の煩雑さは、それでも大阪よりはまだましだった。
修学旅行以来の京都に、僕は仕事でも少しどきどきしていたんだ。
けれどそんな僕のノスタルジアも、京都駅に着いた途端に吹き飛んだ。
「京都。京都です。京都。京都です」
嫋やかだが機械的な印象の女性アナウンスに導かれてエスカレーターを下ると、まずどこが出口なのか解らない。そして市役所に行くのに、バスを使えば良いのか地下鉄を使えば良いのかに迷う。
僕は百円玉を放り投げてパシッと手の甲に置いた。
現れたのは、銀の桜。
地下鉄を使うと決めた。
思えばそれも、運命だったんだろう。
その乗り場に行くまでがまたせせこましい道のりだった。
こうして思い起こしてみると、僕は単に自分の方向音痴を京都のせいにしてしまおうとしている気がするな。そうであればあの雅な古都への冒涜であり、僕は謝すべきなんだろう。
とにかく土産物屋や衣料品店、パン屋や本屋などが京都駅の烏丸線に辿り着くまでに目についた。僕はあたりをきょろきょろ、道をうろうろしながらやっと地下鉄の券売機に辿り着いたんだ。切符を買って、目当ての列車に乗り込むと、やれ一安心だと思ったね。
その時、妙なことに気付いた。
他の車両は混雑していたのに、僕が乗った車両だけはがらがらだった。
そして、そう。
僕の向かいに、アリア。
君だけが座っていたんだよ。
君は真紅の天鵞絨地のワンピースを着て、黒いエナメルのワンストラップシューズを履き、長い栗色の巻き毛は艶やかに胸まで垂れていた。
玩具のような真珠色のスパンコールに覆われたクラッチバッグを一つ。
それだけを持つ君は容貌から何から、完璧に浮世離れしていた。
そうして君は僕ににこりと微笑んだんだ。
あの、悪魔とも天使ともとれる魅惑の結晶。
僕はいっぺんに君の虜になった。
君は少し低く、けれどどこまでも深く澄んだ声で、向かいに座る僕に話しかけてきたね。
「お兄さん。どこまで行くの?」
出てきた言葉が京都弁でないことは、なぜだか君の場合はしっくり来た。
「あ、ああ。ええと、御池通の市役所に」
「それなら烏丸御池で東西線に乗り換えね」
君はしたり顔で頷くと、
「あたし、アリア」
そう名乗った。日本人離れした名前は、同じく日本人離れした顔立ちと調和して、君に相応しく思えた。
それから君は僕に、自分の好きなものの話をしたけど、例えばそれは三毛猫だったり、柄の部分が貝で装飾された虫眼鏡だったり、クロテッドクリームとジャムをたっぷり塗ったスコーンの話だったりと、お役所仕事の僕にはおよそ縁遠い内容ばかりだった。
けれど僕は君に気に入られようと、必死で興味深そうな振りをした。
君はそんな僕の様子は眼中にない様子で、ただ自分が楽しく話していたようだったけど。
不思議と緑がかった瞳が言っていた。
〝解ってるわよ〟って。
君は木屋町で踊り子をしていると言った。
木屋町と言えば多少、殺伐とした印象のある場所だ。
先輩からその通で美味い店があると聴いたこともあったけど。
僕は君が水商売をしているのか、いや、もっといかがわしいことをさせられているんじゃないかと不安になったよ。
だって君は。
……だって君は、とても綺麗だったから。
やがて夢のような時間は終わり、僕は君と烏丸御池の駅で別れた。
「またね。理水さん」
君は教えた憶えのない僕の名を呼び、再会を匂わせる挨拶をした。
それきり、澄まし返った君は僕を一瞥することもなく、相変わらず君以外は無人の車両に揺られて消えた。僕はぼう、とその列車を見送った。
魅入られてしまったと思った。
その晩、所謂接待先で君と再会した僕の、驚きようときたら!
木屋町の和風料亭で、君はしずやかに障子を開けて出てきた。
君は地下鉄で会った時とは一変して臙脂色の着物を身に纏い、ビスクドールならぬ日本人形よろしく屏風の前で舞い始めた。
素人の僕でも解ったよ。
君の舞いは余りにも艶麗だった。
白魚の指先一つにまで神経が張り巡らされていた。
ひらひらと揺れ動くその、金色の扇の端までが、君に支配されていたんだ。
やがて舞い終えた君の額にはうっすら汗が浮いていた。相当な運動量なんだろう。
僕を接待した役人は、役目も放棄して君を口説き始めた。
僕は気が気じゃなかったよ。
でも君は上手に彼をかわしていたね。
流石、玄人だ。いや、皮肉じゃないよ。
アリア。
それから僕は出張の最終日、もう一度君と逢ったね。
僕からの誘いに、君は四条の都路里を指定してきた。
現れた君は地下鉄で出逢った時と同じ、ビスクドールのような恰好で。
「もうすぐ京都を離れるの」
何だか飽きちゃって。
そう言った。
それなら東京に来ないかと思い切って誘ったら。
君は初めてはにかんだ顔で考えてみると言ってくれた。
パフェを突きながら、東京にも美味しいスコーンはあるか、踊れるところはあるか、そう畳み込んで尋ねてきたものだから、これは君もいよいよ本気で考えてくれているのだと、僕は嬉しくなってしまった。
ねえ、アリア。
それから数日後のことだった。
君が忽然と姿を消した、と和風料亭の女将から連絡を受けた時、僕は最初、君が東京に来てくれたんだと思った。曖昧に、女将の追及を誤魔化した。
だからね、アリア。
偶然だよね。
君を口説いていた役人も、同時に姿を消したのは。
君は今、きっと新幹線に揺られているんだ。
そして驚いた?理水さん、と、あのはにかんだ笑みを見せてくれる。
アリア。僕は童歌を憶えたよ。
ご褒美に、もうそろそろ姿を現してくれても良いんじゃないかい。
しあやぶったか まつまんごじょう
せきだちゃらちゃら うおのたな
ろくじょうひっちょう とおりすぎ
はっちょうこえれば とうじみち
くじょうおおじでとどめさす
とどめさす……
アリア…