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私は無事に、退院という名の自宅療養に切り替えることとなった。
こじんまりとしているけれど、庭付きの一軒家。久しぶりの我が家はやっぱり懐かしくて、帰ってこれたことは純粋に嬉しかった。
隣にある恭介の家ももちろんいつも通りで、どこかほっとする。
痺れる感覚はやっぱりまだ慣れないし、このまま私は朽ち果てるのだろうか……なんて、ポエムかよと一人突っ込みをしてしまうほど。
やっぱり病院にいるより、全然いい。
ばふんと勢いよくリビングのソファに腰かけて、テレビをつける。ちょうどワイドショーがやっていて、世の中の主婦はこれを見ながらお煎餅をむさぼるのか羨ましいな、なんて考える。
「あ、でもお煎餅はないか……」
クッキーやチョコなどのお菓子類ならあるけれど、和菓子系は一切ストックがない。お母さんは私と違ってあんまり間食をしないので、戸棚を探しても出てはこないだろう。
ちぇー、残念。
仕方がないので、クッキーと麦茶という微妙なバランスで用意しながらテレビを見ることにした。
話題は政治のニュースが中心で、私があんまり得意じゃないやつだ。どうせなら芸能ニュースを流してくれたらいいのに、つまんない。
「んー、どうしようかな」
時計を見ると、まだ午前九時。
庭に出るくらいなら問題ないだろうと、私はクロックスを履いて外へ出る。午前中だから比較的涼しいのでほっとする。
縁側にすわって、いれた麦茶でも持ってくればよかったな……なんて考えていると、『にゃぁ』という泣き声が耳に入る。
声のした方向を見ると、人懐っこい笑顔の猫がいた。
「ユキちゃん!」
『みゃっ』
恭介の家で飼っている、猫のユキ。
私と恭介が、雪が降る冬の日に神社にいたところを保護した。恭介の家で飼っているけれど、私にもすごく懐いてくれる可愛い白猫。
「もう、今日もいいね! ユキちゃんに会うのは久しぶりだよ~!」
病院では会えないので、庭まで来てくれたことがすごく嬉しい。元が野良だからなのか、割と自由に家と外を行き来している。
ああ可愛い、もふもふできるのは最高の癒しだよね!
本当は退院したら毎日でももふもふしに恭介の家に行く予定だったけれど、別れようっていうメッセージを送ってから気まずすぎて私は恭介を避けていた。
……会ってない。
病院でのお見舞いは、眠いからと看護師さんに面会を断ってもらってしまった。
家に帰ってきてからも、お母さんにただただ「会いたくないの」を連発して恭介を拒んだ。お母さんは、恭介よりも私の意志を尊重してくれた。
寝ているからごめんねと、いつも恭介に言ってくれていた。……何か言いたそうな顔をしてはいたけれど。
「そうだ、猫じゃらし……っと」
リビングから猫じゃらしを取り、ユキちゃんの前でほれほれとちらつかせる。すぐに視線が猫じゃらしに集中して、遊びたいんだということがわかる。
素早く手をさっと動かすと、ユキちゃんの白い体も素早く追いかけてくる。それを何往復もすると、しっとりと肌が汗ばんでくる。
「もう夏だねぇ、ユキちゃん」
『にゃ』
そう声をかけると、可愛い鳴き声で返事をしてくれる。
ユキちゃんとこうやって遊べるのも、あと何回だろう。ころんと寝ころんだ白い体を撫でながら、私は「毎日ここに来ていいんだからね」とユキちゃんに言い聞かせた。
◇ ◇ ◇
夜になって、ベッドに寝ころびながらスマホをいじっていると、メッセージの受信を思わずタップしてしまった。相手は恭介。
……最近は逃げてたから、既読すらしてなかったのに。既読スルーをしていたのに、それを追求されることはなかった。ただ毎日、私のことを気遣うようなメッセージが来るだけ。
既読をつけてしまえば、私が寝ているというお母さんの言い訳もきっと聞かないだろう。どうしよう、いっそスマホの電源を落としてしまおうか。
私が別れたいと恭介に告げてから、返事はずっとノーのまま平行線をたどっている。両者の譲らない戦いは、もう一生終わらないんじゃないかとすら思ってしまうほど。
▼ ひまり、話をしたい。っていうか、お前の顔みたい。会いたい。
「……っ!」
恭介のメッセージを受信するのと同時に、家のピンポンが鳴った。間違いなく恭介だと確信した私は、ばっとベッドから立ち上がりとっさに薄手の上着を掴む。
「今、恭介の顔見たら……絶対泣いちゃうよ!」
やばい、これは非常にやばい。
玄関に行くお母さんと廊下ですれ違いながら、私は裏口に行く。「ひまり?」と声をかけられたけれど、そんなのを気にしている余裕はない。
早くどうにかしないと、すぐそこまで恭介が来てるのに。
私は台所の勝手口から外に飛び出すと、そのまま振り返らずに道を走ろうとして――歩いた。もし急に痺れがきたら、私にはどうしようもできないから。
ゆっくり歩けば、多少は大丈夫なはず。
「でも、どこに行こう」
思わず逃げるように家を飛び出てしまったけれど、行く当てなんてない。杏のところ……とも考えたけれど、遠いので一人で辿りつけるのかという不安がある。
「……そうだ、あそこに行こう」
重い体を引きずるようにしながら私がたどり着いた場所は、家から十分ほどのところにある小さな神社。……そう、恭介と一緒にユキちゃんを拾った想い出の場所。
あのときは真冬だったから寒かったけれど、今は夏だから猫がいたとしても凍える心配はない。
小さな神社だから、手水場などはない。
あるのはお社と、お賽銭箱。ベンチがあるだけの、本当に小さな場所だ。
「あ、お賽銭……ない!」
慌てて出てきてしまったから、持ってきたのはスマホだけ。
神社に来たのにお参りしないなんて、罰当たりじゃないかな。そう思いながらさい銭箱の前に立とうとして、体に痺れが走って私はその場に崩れ落ちる。
「うわ……っ!」
……しくったなぁ。
手だったらまだよかったけれど、足にきてしまってはどうしようもない。立っていられなくなって、しかたなく体を引きずるようにしてさい銭箱に寄りかかる。
ごめんなさい、罰当たりかもしれないけれど少しの間だけ助けてください神様。
「はぁ……私もう、本当に走れないんだなぁ」
それどころか、歩くことすらままならなくなりそうだ。
陸上部だった私は毎日走っていて、こんなに長い間走っていないのは初めてかもしれない。
走りも、恭介も、私の大切なものとは全部ばいばいしなきゃいけないんだよね。
もちろん、ここで出会ったユキちゃんとも。
ゆっくりと空を見上げると――まん丸の、満月がそこにあった。
――綺麗。
「手が痺れてなくて、よかった」
私は懸命に手を伸ばして、月を抱きしめられたらいいのにな……なんて思う。
そのままパンと手を合わせ、お賽銭はないけれど――神様に届きますようにと手を叩く。礼はできないけれど、それは勘弁してください。
……体調がよくなったら、今度は今日の分のお賽銭も持ってくるから。
――神様。
私が望むことは、たった一つだけです。
「どうか、どうか――私が死んだあとも、恭介が幸せでいられますように」