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以前、授業を受けたのと同じ内容の公式が黒板に書かれているのをぼんやりと見つめる。
昔と同じ授業なんて、退屈。そう思っていたのは最初だけで、今やすっかり忘れてしまっていた公式とにらめっこすることも少なくない。
……この公式は、私の将来にどう役立つんだろうね。
数学が必要そうな就職は、未来も今も想像したことすらなかったからね。
過去に来たというのに、決定的なことが何も起きることなく……季節は冬へと移り変わった。そして同時に、私はこのまま大人になって、また走れなくなる絶望を味わうのだろうか。
そんなことが、最近よく脳裏に浮かぶ。
「ともあれ、恭介とまったく何も進展がないのが困る」
いい意味でも、悪い意味でも。
これじゃあ、なんのために過去に戻ってきたのかわからないよ。恭介と付き合わない作戦もなんだかうまく行かないし、このままだと恭介に告白されてしまう。
まあ、私がそれを振ってしまえばいいという話ではあるのだけれど――さすがにそれは、したくない。どうせなら、私を好きにならないでもらった方が幸せになれるはず。
傷つく姿は、極力見たくはないからね。
そしてふと、思い出す。
「そういえば、そろそろユキちゃんを拾った時期だ」
恭介の家で飼っている、私たち二人で拾った子猫のユキちゃん。この子を拾って、助けるために……恭介との距離がぐっと縮まったように思う。
「もしかして、ユキちゃんを拾わなければ……私たちの関係も、これ以上進展しないんじゃない?」
これはナイスアイデアじゃない? そう思ってにやりと笑うと、「ゴホンッ」という大きな咳払いが耳に届く。
「え?」
「菓子、ずいぶんと余裕そうだな?」
おっと……。
クラスから「あはは」と笑い声がもれ、「当てられる順番ずれた!?」という悲痛な悲鳴も。ごめんなさいと心の中で謝りながら、私は必死で手元の教科書に書かれている公式の解説を暗記する。
チョークで黒板の数式をコツコツ叩きながら、「もちろん解けるよな?」と先生に指名される。もちろん以前習ったところだから、問題なく解けるはずなんだけど……嫌な汗が流れる。
杏がため息顔でこちらを見ているけれど、私だってため息をつきたいよ……。
「うぅ、はい……」
しぶしぶチョークを手に取って、黒板の問題とにらめっこ。
……Xにあの数字を代入すればたぶん、いけるはず?
途中で間違えながらも、どうにかして答えを導き出す。合ってるはずだと思いながら先生を見ると、ため息をつきながら「正解だ」と告げた。
もっと褒めてくれてもいいのに……!
「おかし、お疲れ! 次に私が当てられたら責任とってよね~」
「だ、だいじょうぶ、きっと私の後ろじゃなくて今までの順番に戻るはずだから……」
私が当てられる前は、ほかの列の人が前から順番に当てられていた。きっとその列に戻るだろうと思っていたけれど――あろうことか先生は、私の後ろの子を指した。
「ひぃっ、おかし恨む……!!」
「ご、ごめん本当ごめんだから恨まず成仏して……」
「ゆるさんお菓子全部没収……!」
「それは駄目私が死ぬ……」
お菓子は大切なのに。そんなことをこそこそ話していると、さらに大きな咳払いが前から届く。
「あ……」
「いっけない……」
私はそっと先生から顔を反らして、当てられた子はそそくさと黒板まで行って問題へ手をつける。唸りながらにらめっこしているが、先生がちょっとだけヒントを出してくれたおかげで解くことができた。
◇ ◇ ◇
学校が終わって家に帰り、カレンダーを見る。
ユキちゃんを拾ったのは、十一月二十日。今日はその三日前だ。
「……その日は出かけないようにして、早く寝ちゃった方がいいね」
うっかりコンビニに行ったりしたら、これまたうっかり恭介に会ってしまいそうだ。さすがにそれは、ユキちゃんを拾うコース確定になってしまう。
一緒に夜間もやってくれる病院を探して、見てもらって……恭介が飼うことを決めたあとも二人で付きっ切りで面倒を見ていたからね。
「でも、会いたくもある……」
ユキちゃんは私にとっても懐いてくれたからね。
◇ ◇ ◇
そしてあっという間に、三日という月日が経った。
学校が終わってから速攻で家に帰り、お風呂も済ませ、私はベッドに潜り込んだ。お母さんには、もし恭介が尋ねてきても私はもう寝たと伝えてと言ってある。
さすがに寝てしまった私を起こすような緊急事態は、起きないはずだ。
そう思っていたのが幸いしたのか、時計の針が二十四時を無事に回った。
恭介が訪ねて来ることはなかったし、私が外出しなければいけない……ということも起きはしなかった。案外どうとでもなるなと思いつつ、小さくお腹が鳴った。
「そういえば、ご飯も早く食べたんだった……」
夕飯も早めに食べたため、小腹が空いてしまった。何か食べようかな……とおもいつつも、太るかなと脳裏によぎる。
「でもご飯……って、あ!」
もしかして、ユキちゃんもお腹を空かせて神社で泣いているんじゃないだろうか。そんな考えが浮かぶ。親ね子がいない子猫だったから、自分で餌をとるのも難しいはず。
「それに、野良猫の寿命は凄く短いって……ネットニュースで見た」
どうしよう――なんて言葉は、考えられなかった。
私はジャージを羽織り、家を飛び出した。寒さで凍えているユキちゃんを捜すために。