学校の机の上の花瓶に対する考察
その日の朝、学校に着いたらわたしの机に花瓶が置いてあった。
もちろん花瓶だけじゃない。思わず心が温かくなるような可愛らしい桃色のガーベラをメインに、かすみ草がふわふわと揺れていた。
「えっ」
わたしは息を飲んで唇を両手で押さえた。
これは、まさか・・・?
い じ め
という三文字が頭の中に浮かび上がる。
今までそんなことは絶対になかった、とは言えない。コミュニケーションが上手く行かなくて、誤解に誤解が重なって、心の強い方が弱い方を圧迫してしまう、ということはわたしのクラスでも一年に3回くらいの頻度では起きていた。
いじめる方はちょっとばかり派手だったり、かわいかったりした。
いじめられる方はちょっとばかり地味だったり、おどおどとした態度だった。
でもこの学校は進学校で、究極的には、他人にかまっている暇なんてなくて、ちょっとした無視やわるい噂は時間と共に消えていった。そしていつの間にか二人は仲良くなっていた。
これは誰からのアプローチなのだろう?
わたしは机の前に立ち尽くしたまま、とても悩んだけれど、その姿を見ているはずのクラスメイトの誰からも声をかけて貰えなかったので、仕方なく席に着いた。
隣の席には、すっかり仲良くなった親友がいるのだが、わたしの方を決して見ず、ずっと下を向いている。前の席はお調子者の男子なのだが、肩を丸く落として、一言も喋らない。
落ち着いてよく見渡してみると、クラス中の雰囲気が暗かった。
端の方では泣いている女子さえいた。
その子達は、わたしと特別に仲が良いという訳ではない。でも、通学中に隣り合えば会話に困らずお喋りできる、そいういう関係だった。
その子達がわたしを見て、ぽろぽろ涙を流しながら、「あゆかわさん・・・」と呟いた。鮎川はわたしの名前だ。そしてその視線は、わたしではなく、机と、花瓶に向いている。
すっ、と背中を冷たいもので撫でられたような心地がした。
いじめ、だと思ったのだ。そう思いたかったのだ。
でもこれはいじめではなかった。
そもそもわたしには、通学した記憶が無かった。
苦しくて、突然立てなくなって、その次の瞬間には教室にいたのだ。
机に、花瓶。
そこに生けられたかわいらしい花。
消沈するクラスメイト。
「そっか、わたし・・・」
事実を噛みしめていると、ガラリと扉が開いて、先生が入ってきた。
わたしたちの担任教師は若い男性で、いつもださいジャージを着ていて、でも髪の毛はキッチリ整えて清潔で、いつも眠そうな目をして、面倒なことが嫌いだから、イジメが起これば、誰も何も言わなくても、その当事者達を倉庫に放り込んで、仲良くなるまで何日でも閉じ込めるという荒療治をしてしまう、そういう人だった。
どう考えても問題になりそうなのに、当事者達が訴えないから、そしてそれを機に明るく素敵な子に変わるから、親も何も言ってこない。そういう凄いことを、ぜんぜん凄いことではないように、あっさりとやってしまう人。
わたしはもう一度先生に会いたくて、ここに化けて出てきたのかなぁ・・・?
そう思うと、うれしいけど、かなしくて、じわじわと目に涙が溜まってきて、せっかっくの先生なのに、その姿がぼやけてきてしまう。
これじゃあ成仏できないと、制服の袖でぐじぐじと涙をぬぐった。
最後に見るのが先生なら、こんなに良いことは無い!
ぱっと顔をあげて、先生を見た。
いつものように眠そうな目で、だらけた声で出席を取る、そしてそこにわたしの名前はない、ということに耐える覚悟をした。
それなのに、先生はかっと見開いた大きな丸い目でこちらを見ていた。
花瓶じゃなかった。わたしの顔を見ていた。
まさか、先生には見えるのだろうか?
そんな奇跡ってあるんだろうか?
わたしもまた唖然とした顔で、でも確かめたくて、ひらひらと手を振った。
そこからは一瞬だった。
出席簿をぱん、と教卓に叩きつけて、「鮎川!」とわたしの名を呼び、駆け寄り、わたしの手を取って席から立たせて、そのまま、今入ってきたばかりの扉を思い切り開けて、一緒に飛び出してしまった。
ちらりと振り返った教室では、誰もが唖然としていた。
隣の席の親友が、「あっちゃん?」と小さく呟いたのが確かに聞こえた。
教室から外に出ると、先生はわたしの手を握ったまま先へ先へと走っていった。階段を上り扉を越えて屋上へ。そのままフェンスに近寄って、ようやくこちらを振り向いた。わたしは日頃の運動不足が祟って、すっかり息を切らしていた。
そんなわたしをひたりと見据えて、先生は静かに呟いた。
「逆だ」
ぎゃく。
意味が分からない、と思ったのは刹那の間だけだった。
閃きが脳裏をよぎり、ああ、と声が漏れた。
「お前だけが死んだんじゃない。お前だけがーー」
わたしはパッと両手を伸ばし、先生の口を塞いだ。精一杯背伸びをして、今まで何度だって触れたいと思っていたはずの唇は、強風に煽られてカサカサだ。
先生はその手を外そうとしたのか自分の手を重ねた。
けれどわたしの顔を見て、そのまま包み込むように握ってくれた。じんわりと暖かい。何事にもサッパリした先生が、思わず突き放せなくなるほど酷い顔をしているのだろう。自分で自分の顔は見れないけれど、わたしはそう理解した。
「修学旅行」
ビクリ、とわたしの肩がこわばる。
塞いでいるはずの先生の唇は動いて、なぜだかハッキリとこの耳に届く。
「1人だけ、前日にアホウが風邪を引いた。しかもインフル」
そしてもちろん、そのアホウは修学旅行に行けなかった。
突然立てなくなって倒れ込み、自室で熱にうなされていても、旅行に行くんだとうめき声を上げて祖父母を困らせた。無理矢理ついた眠りの底では、どれだけ探しても見つからないパスポートを探して家中、町中、国中をひっくり返す夢を見た。
どうしても行きたかったのだ。
「そして旅行を満喫した高校生達の飛行機は、落ちた」
先生が悲しそうに笑った。
触れたままの手から、先生が見た景色が流れ込んできた。点滅する警告灯と、上から落ちてくる黄色い酸素マスクと、落ち着いて救命胴衣を、と指示するCAさん達の強ばった顔と声。クラスメイトの悲鳴。急降下に押しつぶされる重力と、暗くて重い絶望の予感。
そして一瞬だけよぎった安堵。
ぱっと先生が手を離してしまって、その共感は消えてしまった。
「も、もう一回!」
こんな時なのに、それはとても良いものだと直感してしまう。
「バカ、二度と触れるか」
そう言った先生は、いつも整えていた髪が乱れて、とても若く見えた。
制服だって似合ってしまいそうなくらい。
「お前、呼ばれたからって簡単にコッチに来るんじゃねぇよ」
そしてニヤリ、と意地の悪いチェシャ猫のような笑みを浮かべて。
「そんなに俺が好きか?」
と言った。
朝一番の点呼で、先生が、のんびり名前を呼びながら、ひとりひとりをじっくり見ていることを、わたしは知っていた。
体調が悪い子はすぐに保健室へ連行して。
いじめだってすぐに当事者達を見破って。
やる気のない態度が、わたしたちとの垣根を低くするためだって、わたしたちは知っていた。
先生が、とびきり素敵な先生だって、わたしたちはもちろん分かっていた。
そんな先生の、眠そうな目が、誰かを心配するときにすっと一度瞼を閉じて、その次の瞬間の、決意を秘めて星のように輝くのに心を引かれて。
声が好き。
名前を呼ばれるのが好き。
わたしを見てくれるのがうれしい。
夕日に照らされて、黒板にチョークで書き込む後ろ姿が好き。
整えた髪型の、時々ちょっとだけ残っている寝癖がふわりとそよぐのが好き。
わたしとわたしの親友を、3日間も倉庫に閉じ込めた先生。
きっと一生分かり合うことなんて無かった私たちを親友にしてしまった先生。
返しきれない恩があるの。
一生一緒にいたかったの。
「大正解、です!」
自然と出てくる涙を、もったいないと飲み込んで、
わたしは精一杯背伸びして、先生に抱きついた。
先生は、大人の男の人の、良い匂いがした。
そうか、と先生は笑った。
にっこりと目尻を下げて、わたしの頭をふわふわ撫でた。
「冥土の土産には丁度良いな」
そしてわたしの胴を掴んで、よっ、とかけ声を上げて持ち上げた。
「俺はお前を待っているよ。だから、ゆっくり、楽しんでこい!」
そしてそのまま、宙に放った。
わたしは何かに引き上げられるように、空へ、空へと引っ張られていった。
ばさばさと風が鳴る。
白い羽がふわりと落ちるのが見えて、そしてそれを先生が拾い上げて、唇に当てるのが、見えた。
それから目が覚めた私には、沢山の困難が待っていた。
マスコミからひっきりなしに取材依頼が入ったせいで、誰のお葬式にも行けなかった。学校主催の合同葬儀には出席できたが、唯一の生き残りとして弔辞を読み、その写真が日本中に回ってしまった。
週刊誌でもインターネットでも、私の事は好き勝手言われている。彼らは残酷で鋭く粘着質で、私の家庭の事情も学校での出来事も、根掘り葉掘り探り出して白日に晒し、私の日常は芋掘り後の畑のように穴だらけにされてしまった。
でもそんなこと、どうということも無いのだ。
暗い倉庫で、人生で初めて声を荒げた、あの壮絶な3日間に比べたら、どんなことも大したことは無い。
暗い見た目が人に与える不快感とか、不信感とか、そういうことを、取っ組み合いの喧嘩をしながら伝えられた。上から目線で声を掛けられても嬉しくない!両親の居ない私をバカにしてるんでしょう!と叫んで、初めて人の顔を殴った。
「心配して何が悪いの!あんたの気持ちなんて分かんないわよ!あんたが言わなきゃ誰だって分かんないのよ!」
涙を散らして叫んだ顔は、全然可愛いくなんて無かった。でも、月の光に照らされて、綺麗だった。格好良かった。私は初めて人と友達になりたいと思った。
「辛いから、助けてよ!」
そう叫んだら、「分かったわよ!」と言われて、抱きつかれた。
もちろんそこまで細かいことは私と親友と先生しか知らないから、出回らない。でも世間は、そこまでして得た友情を、私が根本から喪った事を知っている。
だからたぶん、私は凄く、一般的には不幸なんだ。
でも。
その分救われて、大切なものが胸の奥で輝いている。誰もそうは思わなくても、私はそう知っている。
私は毎日、綺麗な花を買ってきて、花瓶に飾る。
昨日は親友をイメージして赤いチューリップ。その前日は前の席の男子をイメージして藍色と黄色のパンジー。
そして今日は、先生をイメージして、白い百合の花。
全然違うと本人達は言うかもしれない。
でも私にはそう映る。私が飾るのだから、私の好きにさせてもらう。
楽しめと先生に言われたから、どんな困難も風のようにかわして、精一杯楽しんで、いつかまたあの教室に帰ろうと思う。
学校の机の上に飾られた花瓶は、皆から私への、愛だ。