苦味に溺れて
自己満足のために書いた小説です。
「……やっぱりお子ちゃま」
私の髪を撫でながら小さく笑うと、彼はそう呟いた。
何も言わないで彼の身体を抱きしめる。
「咲さん、咲さん……」
体温を確かめ心音を合わせるように、ゆっくりと身体を絡めて彼の名を呼ぶ。
彼は何も答えてはくれない。
いつもそうだ、何もかもを芯の寸前で黙秘し続けているのに、私の深く弱い所まで手を伸ばし荒らして行く。
だから嫌いなのだ。昔から飲めない珈琲のような存在だ、飲めないと分かっていて口を付けてしまう。
苦味が私の傷を誤魔化すようで、無意味に無意識に彼を求めている。
カップに満ちた珈琲は黒く底が見えなくて不安感を煽るけれど、その中に溺れてしまえと囁く声に、私はどうしても抗えないのだ________。
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「お子ちゃま味覚だな」
彼、千歳 咲は今日もまた意地の悪い笑顔を浮かべて頭を撫でてくる。
初めて会った時と何ら変わらないままの、それこそ子供染みた笑顔で、私の頭を優しく撫でてるのだ。
「珈琲が飲めるぐらいで偉そうにしないでください。やっと砂糖二粒ぐらいで飲めるようになったんですよ!」
目の前のカップに注がれた珈琲には砂糖もミルクも入っていなく、「お子ちゃま味覚」な私の口には少々苦くて飲めなかっただけの話だ。
それをからかうのが彼、咲さんだ。
「珈琲だけの話じゃないよ、花子ちゃん」
「だから苗字で呼んでください」
別に私は自分の名が嫌いなのではない、どちらかというと彼が嫌いだ。私の心の内なんて考えずにヘラヘラと笑う彼が、堪らなく嫌いなのだ。
私がこの会社に入った日から4年間代わりもせずに「花子ちゃん」と呼び絡んでくる彼と、「苗字で呼んでください」と睨む私のやり取りも日常の一部に溶けてしまっている。
「分かったよ、宮坂花子ちゃん」
ここぞとばかりに「宮坂」を強調して、笑いもせずに私のフルネームを呼んでいる彼に、私は「…やっぱり名前でいいです」と目を伏せる。
彼は私をフルネームで呼んだことはない、何故今更、等という疑問こそ生まれはしないが気持ちの悪い汗が心をなぞる。
「分かったよ、神原花子ちゃん」
また笑いもせずに私の名前を呼ぶ、今度は数日前までの私の名を。
不快感を伴う激しい自問自答を繰り返して次の言葉を探り出す、一字一句間違えないように。
「私、あなたに結婚の事伝えましたっけ」
私は数日前に自分の部署の先輩と結婚した。宮坂、それは私の夫の姓だ。
宮坂 健保、同じ部署の先輩であり私の夫。
そして咲さんの親友であると言っていた、という蛇足な情報を脳が追記した。
「…花子ちゃん結婚するんだ」
選ぶ言葉を間違えた。
一瞬で彼の顔が曇るのを感じる、目を見るのが怖くなる。
彼に対する恐怖はこれが初めてというわけでもない、ただ私がこの地雷だけは踏みたくなかった。
それだけの話なのだ。
顔の筋肉が凍っていくのを無視し、彼の顔を見た、見てしまった。
当たり前のように彼は笑っていて
「おめでとうだね、花子ちゃん」
と、それが私の吐きそうなぐらいにまで湧き出た言葉を全て塗り潰していってしまう、今までの挑発的な言葉を全て失って、その穴に「おめでとう」という皮肉の塊のような言葉が埋められていくような、不快感と苦しさを感じた。
嫌だと声を出しそうになるのを堪えて、彼の言葉を待つ。私からの言葉は、もう危険過ぎる。
そんな私の心の中を透かしてみたように彼は言葉を並べ出す。
「それが正解だよ。花子ちゃんの言葉は少なからず俺を傷つけていく。でもそれに罪悪感を感じてはいけないんだよ、見当違い過ぎることだよ、花子ちゃん」
的確に言葉を選んで、私を遠ざけて自分を傷つけるように。私の言葉を封じるように言葉を並べ続ける。
「俺なんて本来は存在して無いような、それこそアレだ、宮坂先輩の影みたいな物だから」
「花子ちゃんはお子ちゃまだから、光と影を見間違えただけなんだよ」
「それは違います!」
声を張り、自分の心に言い聞かせるように言葉を続ける。
「私は咲さんの事好きです。多分今でも、私は咲さんが一番好きです」
この発言は嘘ではない、私は確かに彼の事が夫よりも好きだった。
いや、だったというのは不適切な言葉だろう、好きで居続けているのだ。だからこそ彼の事が大嫌いだ。
それは俗に言う浮気や不倫というよりも、未練という表現が正しい事だ。
手を伸ばしても届かないぐらいの距離での両片思いになってしまった私たちは何時しか、互いの違いを、お互いの家庭で出来た傷を舐め合うような関係になっていた。
それこそ、不倫という関係になっていった明確な所だったのかもしれない。
「もう、関わらない方がいい」
震えているようにも聞こえる声が耳に届いた。それを私は真っ直ぐに見て「他人の目が怖いから?」と毒づく。
「違う」
そう返す声は先程よりも耳に響くような声でいて、感情が分からないほど感情的な物だ。
「俺が怖いのは、宮坂先輩殺してでも花子ちゃん奪いたいって思ってる俺だよ、気持ち悪いぐらいに、怖いくらいにお前に溺れてる俺が怖いんだよ……」
「ならどうぞ、奪ってください」
沈黙が続く。
体感にして数時間程にすら感じられるが、おそらくそれは5秒ほどの沈黙だった。
破ったのは彼だった。
私を押し倒し、泣きそうな顔で「今夜限りだ」と乱暴に吐き捨てた。
その言葉はきっと嘘だ、私たちは共に依存し合っているのだから、どちらかが欠けることはどちらかが依存を断つことになる。
今の私たちにそれは不可能だ。
「私は咲さんを拒みません。この先もずっと、神原花子として咲さんを好きでいたいです」
「……お前は宮坂先輩と幸せになればいい。俺みたいにはなるな」
反論しようとする私の口を塞ぐ。顔がよく見えなくなるが、きっとまた見透かしたような目をしているのだろう。
何も見えてないくせに、知ったような目で口で、私を愛でる。
私にもきっと彼の姿は見えていない。
お互いがお互いを知らずに、お互いがお互いを求めて手を伸ばしている。他者から見れば滑稽な愛の形だと自覚している。
ただ、その滑稽さがきっと私達の求めている物なのだろう。
虚ろな頭で自分の行動や言葉を正当化しようとし続けている、それはつまり不当な愛だと理解している。
それなのに、私は彼の熱い本能に触れて笑う。
互い言葉を交わしはしない。
ただ互いの心の傷や隙に自分を埋め込むように身体を絡め合い、罪を重ねていくのだ。
私の口から本音のような吐息が漏れていることに気づき、彼は退屈そうな表情のまま唇を本能のままに重ねる。
退屈そうな反面、彼の口角は上がっていた。
それはいつも見せるような笑いではなく、もっと本心に近づいているような。人の心を見透かしてるような笑いだった。
私はその表情に、非日常的な何かを感じていた。
______
「花子ちゃん……俺には、お前を奪えるほどの勇気はない」
知ってるよと、私。
「だけど浮気みたいな真似、花子ちゃんにさせたくはない」
どうすればいいのか分からないと言う事なのだろう、彼は珈琲をカップに注いで私に渡した。
「私は咲さんと初めて会った時と違って、子供じゃありません。まだ珈琲はブラックじゃ飲めないですけど…」
角砂糖を1粒珈琲に溶かして口に含むとまだ苦味が強くて、もう1粒溶かす。
一粒の甘みでも、私の舌はそれで満足したようだ。
「だから事の良し悪しぐらい自分で理解してます」
「なら尚更だよ。これ以上花子ちゃんを悪い子にはしたくない、かな」
いつものような笑いと重なった滴。
それが彼の涙だったのかどうかは推測するまでもない。
「泣くなら離されければいいのに」
「花子ちゃん、俺が好きなら約束してよ」
嫌いとハッキリ伝えてもなお、この人は私の中に入り込んでは本心を舐めてしまう。
「花子ちゃんなら、『嫌です』と返してくれるだろうけど。俺のことを嫌いになってくれ」
「……無理です」
そんなとても弱く、儚い泡沫な関係。
それは今後もきっと変わらずに、危ういまま続いていくのだろう。
「私は約束を拒みましたから、絶対に咲さんを嫌いにはなれません。だからどんなにこれが悪い事でも構いません」
彼の返答を聞くよりも速く、私は彼の身体を抱きしめて少しだけ笑う。答えは分かりきっている、そう伝えるように。
彼の口の動きを私は目で追い、この危うさに堕ちて行く。
「子供でもいいじゃないですか?」
「……かもしれないね、花子ちゃん」
一つだけ言葉を続けてから、いつものように意地の悪い笑顔をした。
恋愛なんて視界が曇るだけ。