4.鈍すぎる従妹
レオノーラは、父の命により夜会に出席する事になった。幼い頃からレオノーラ付きであった侍女は、珍しい機会に腕によりを掛けて彼女を磨き上げた。
「すっごくお綺麗です」
「マーサの腕が良いのよ」
鏡に映った淑女は自分じゃないみたい、とレオノーラはにっこりした。
綺麗に着飾るのは嫌いではない。むしろ変装しているみたいで楽しい。こういった事に時間を割かないのは、ただ単に、彼女はそれよりも研究や勉強が好きだし、薬草園の世話や講義の準備に掛ける時間と手間の方が大事だというだけだ。時間は有限で、何に掛けるべきかと考えるとやはり彼女の足は学院に向いてしまう。
アンガーマン侯爵家に伝わる緑色の瞳にちなんだ足音を消すほど厚い深緑の絨毯を敷きつめた階段を、一歩ずつ慎重に降りて行く。階下ではマクシミリアンが彼女を待っていた。
赤みがかった茶色の短髪を綺麗に撫でつけ、かっちりと夜会服を着こなしている。胸に挿したチーフはレオノーラのドレスと同じ萌黄色だ。まだ成長途中なのかコリント家の男性としては小柄だが、ぴったりとした夜会服を身に付けるとしなやかな体躯と姿勢の良さが強調されているのに、レオノーラは驚いた。
「あら、夜会服、お似合いね」
「レオノーラも綺麗だ。びっくりした」
マクシミリアンの目にも素直な賛辞が、浮かび上がっていた。
萌黄色のドレスは、童顔のレオノーラの可憐さを強調するような清楚な作りだった。胸元は空き過ぎないが綺麗な鎖骨を強調する見事なカッティングで、そこにぽとりと落ちた滴のように輝くダイヤのネックレスは、決して華美では無いが品良く彼女の透明感のある美しさに華を添えている。供布のリボンが贅沢にあしらわれたドレスは、光沢があって柔らかな光を纏っていた。
マクシミリアンがスッと手を差し出すと、レオノーラは右手を落とす。そのまま自分の腕に彼女の手を絡めさせると、馬車へとエスコートした。
「慣れているのね」
レオノーラが驚くと、マクシミリアンは肩を竦めた。
「うちの女軍曹どもに鍛えられているからね。エスコートする俺が堂々としてないと、エスコートされる姉達の市場価値が下がるんだってさ」
「お姉さま達は、夜会では軍師なのね。流石だわ」
レオノーラは変な所で感心していた。マクシミリアンもレオノーラについて認識を改めた個所があったので、素直に伝えてみた。
「見直した。意外と胸、大きいんだな」
無言で足を踏まれて、マクシミリアンは暫く口がきけなかった。
** ** **
夜会の主催は、アドラー公爵家だ。
アドラー公爵家は王家の血筋を組む一族で、公爵家には何度か王女が降嫁しており、王族の血筋を絶やさぬよう影から支える役割を担っている。実際、現アドラー公爵の母は時の第三王女だった。
夜会に二人が出席したのは、国王陛下の命を受けての噂の下地固めの為だ。
ダンスを踊り仲睦まじげに寄り添って……二人が婚約間近である様子をアピールしなければならない。王家に連なる公爵家の夜会への招待は、そのためのお膳立てだった。
実はマクシミリアンにとってこの夜会は初の、姉不在の夜会である。鬼姉達のエスコートから逃れられた初めての夜会。本来なら可愛い令嬢とお知り合いになりダンスに誘い艶っぽい会話を交わす……そんな重荷から解放された自由を謳歌したいと夢想していた。
だか現実の自分はレオノーラとペアで動かなければならない。となると、女性陣からは完全に『対象外』という烙印を押されるに違いない。細やかな夢を諦めなければならない事実に苛まれたマクシミリアンは、溜息を吐きそっと無念さを噛み締めた。
しかし薬草園の野暮ったい作業着姿が思い出せないほどレオノーラは想像以上に美しく仕上がっていたので、普段の彼女の事は頭の中から追い出してせめて疑似デート気分を堪能しようと彼は決心した。そうやって自分を騙しでもしなければ、二人の仲をやんわりと匂わせるという本来の目的を果たせないかもしれない。無理にでも甘やかな雰囲気を醸し出さねば、と彼は精神統一した。たぶん自分以上に恋愛系に疎いレオノーラには、逆立ちしたって恋人とのイチャイチャぶりを演出する真似は期待できないだろうから、とマクシミリアンは更に溜息をつく。
「先にご挨拶に伺った方が宜しいわよね」
「そうだね、アドラー公爵夫妻にご挨拶に伺おうか」
先ずは最初の義務を果たそうと列に並ぶ。
アドラー公爵は柔和な印象の少し垂れ気味な灰色の瞳を和ませて、頷いた。銀髪に灰色の瞳は、王家の血族である証でもある。夫人はグラマーでセクシーな美女で、実際の年齢より遙かに若い印象を受けた。女性経験の無いマクシミリアンは、その色香に一溜りも無い。声を掛けられるだけで真っ赤になってしまった。夫妻は事情を承知しており「ゆっくり楽しんでいきなさい」と背中を押してくれた。二人はこれから婚約者同士として、この夜会で仲の良さをアピールしなければならないのだ。
幾人か顔見知りの参加者と挨拶を交わし、二人は食べ物と飲み物を確保してこっそり壁側へと移動した。
「マックスってスゴイのね」
「何が?」
「よくもああ上手いこと、つらつらしゃべれるなあっ……て、感心したわ」
挨拶廻りに当たり、レオノーラの横でマクシミリアンはまるで恋人を惚気るような台詞を流暢に話しだしたのだ。思ってもいないくせに、とレオノーラは口を尖らせた。
「俺を詐欺師みたいに言うなよ。仕方無いだろ。それに嘘は言ってねーよ、事実を口当たり良くして話しているだけさ……この生ハムうまっ!……これから、目立つようにダンスも踊らなきゃならんのだから、今の内に何か腹に入れとけよ。本番はこれからだからな」
そういって、マクシミリアンはレオノーラの口に生ハムを突っ込んだ。傍から見れば、仲睦まじいカップルに見えなくもない仕草だ。
「むぐっ……押し込まないでくだひゃいっ!『綺麗になって変な虫が付かないか気が気でない』とか、お父様に『認められる男に成れるよう精進している』とか、よくスルッと嘘が吐けますね……もぐもぐ」
レオノーラは公爵家プロデュースの至高の生ハムを呑み込んだ。確かに美味しい、と彼女は思わず、唸った。
「別に嘘は言ってないぞ。叔父上に認められるくらいの男に成りたい……と普段から思ってるし、日々剣術の鍛錬もしてる。レオナだって侍女のテクニックのお蔭で、今日は綺麗だ。まさに『馬子にも衣装』ってヤツだな。ハハハ」
乾いた笑い声で締められたマクシミリアンの感情が籠らない台詞に、レオノーラはなぜか感嘆の声を上げた。
「なるほど。さっきと同じ内容なのに、全然違う意味に聞こえる!こっちが本心ですね。はー……普段赤点ばかり取っているマックスと別人です。適材適所ですねぇー」
「ホントにお前は失礼だな。絶対・今日は・余計なことを・しゃべるなよ。レオナが天然ぶり披露したら、全て台無しになっちまう予感がするからな」
二人は皿に積めるだけ積んだ食べ物と飲み物を、取りあえず片付ける事にした。
王族に一番近いと言われるアドラー公爵家の演出は、流石と言うしか無い。用意された食事は鮮やかな彩りと芳醇な香りを湛え、見る者の視覚と嗅覚を惹きつける。最高級の牛や雉の肉は料理人にこんがり焼かれ、食欲をそそるように美しくカットされる。その見事な手並みを目の当たりにしながらサーブして貰うのだ。レオノーラは興味津々だ。自身の農地経営学の研究に活かせると直感が働いたようだ。マクシミリアンは、ここでオタク振りを全開で披露されると面倒なのでそろそろこの場を離れようかと思案していた。
その時、背後で広間の熱気が変わった気配がした。
「……!」
振り返ったマクシミリアンは、声を上げそうになった。
そこに現れたのは―――長身の素晴らしい肉体をカッチリとした黒い騎士服に包んだクロイツだった。
鍛錬により叩き込まれた揺るがない姿勢と涼やかな足捌き。広間を悠々と闊歩する姿はまさに圧巻だった。彼は真っ先にアドラー公爵へ挨拶に向かおうとしていたが、その進行経路に次々と貴族令嬢やその保護者達が現れて幾度も足止めされてしまう。
「誰を見ているの?」
「バルツァー少尉がいらっしゃっている……」
「クロイツ様が?」
次々と目の前に現れる障害物を難なくこなす駿馬のように、群がる人々を優雅に捌いて行く様子は、薬草園で見る初心な男とはまるで別人だった。
マクシミリアンは、
(ああ、そうだ。これがバルツァー少尉の本来の姿なのだ)
と改めて納得した。やはり薬草園で見せる彼の態度は、特別なものだったのに違いない。マクシミリアンはクロイツの凛々しい姿を目にして、レオノーラの目が覚めるかもしれない……と期待した。
「あら。こうして見ると、本当に近衛騎士団に仕官されたのだって、実感しますね。騎士服着ていらっしゃるから」
レオノーラは衣装の違いを指摘した。
マクシミリアンは従妹の絶望的なスルースキルに唖然としたが、気を取り直して自分の皿を空にし、景気付けに白ワインを一杯あおった。
事前の情報では、バルツァー少尉はこの夜会に出席しないはずだった。彼に知られずにひっそりとこの宣伝行為を終了するつもりだったマクシミリアンは―――実際、かなり動揺していた。
そこで楽隊の音楽が変わり、侍従が来賓の訪れを告げた。
動揺を振り払い姿勢を正して、レオノーラを促し彼はそちらに視線を移す。会場の皆も、開かれようとする扉に注目する。
重厚な扉から現れたのは、扉以上に存在感のある、巨漢の逞しい異国の軍服を纏った戦士だった。
『筋骨隆々』という言葉のまさに具現化した存在。一般的な扉なら確実に頭をぶつけそうな長身だが、『長身である』という事が目立たない。それは、全体の質量が大きいからだ。凶悪とも思える強面に太い首、これに連なる双肩は盛り上がって堂々とした体躯に繋がっている。その立派な体を包む豪奢な式典用の軍服は、身分の高さを示唆するように金銀の縫い取りや飾りで彩られていた。
「視察にいらしたカクタス国第三王子のサイラス=ド=カクタス殿下であらせられる。今宵の宴で双方の交流を深め、より良い関係の礎としたい」
公爵は出席者達にサイラスを紹介した上で、サイラス王子に「ようこそいらっしゃいました。どうか楽しんでください」と、微笑んだ。
「さあ、皆も楽しんでくれ」
アドラー公爵の合図で、楽隊がゆったりとした曲調のダンス曲を奏で始めた。
「行こう。ダンスして挨拶を終えれば、今日の俺達の仕事は終わりだ」
マクシミリアンの差し出した左手にレオノーラが右手を乗せると、彼はその指先を軽く握ってダンスフロアへ向かった。腕を引かれ、彼女の右手に彼の右手が重なる。マクシミリアンは親しげに左手をレオノーラの腰に回して、彼女を抱えるように後ろに寄り添って歩いた。視線だけで確認すると、サイラス王子がアドラー公爵夫人をエスコートして広間に滑り出す様子が目に入った。
来賓が一曲踊り終えるタイミングで、周囲の輪から幾組ものカップルがダンスフロアに踊り出る。マクシミリアンもレオノーラを促してフロアへ進み出た。二人は幼い頃から常にセットでダンスレッスンを受けて来た。運動神経が良いわけでは無いレオノーラだが、長年のレッスンの成果で教本通りに慣れた相手と踊る分には十分な手腕を披露できる。ワルツの三拍子のリズムに乗って、優雅にステップを踏む。最後にくるりと回って、手を繋いだままお互いに一礼した。体を動かす事が好きなマクシミリアンは爽快感で頭がスッキリするのを実感した。如何に自分が気を遣っていたのか痛感する。レオノーラも一通り間違えずに踊り切れた安堵により、自然に頬を緩ませていた。
レオノーラの手を引いて息を弾ませながらフロアを後にすると、正面に見慣れた人物が立っていたるのが目に入る。
マクシミリアンは(マズイ事になったな)と唇を噛みしめた。
「クロイツ様、カー様」
黒髪碧眼のクロイツの傍らに、銀髪に灰色の目をした美青年が目尻の下がった甘いマスクを綻ばせて立っていた。マクシミリアンはそれが誰か、すぐ気が付いた。アドラー公爵家の三男、カー=アドラー少尉。レオノーラの同窓生だ。
「コリント家のマクシミリアン君だね、初めまして。久しぶり、レオノーラ。綺麗になったねえ、綻び始めた蕾のようだ」
秀麗な公爵子息に差し出された手を握って、マクシミリアンはぶるりと背筋を震わせた。破壊力のある美辞麗句爆弾に被弾して、大きなダメージを受けたのである。
カー=アドラーは、クロイツに負けず劣らず女性陣に人気のある近衛騎士だ。社交界の令嬢達は、彼を『薔薇の騎士』と呼び崇め奉っている。クロイツは硬派なイメージで男性陣からも一目置かれている印象があるが、カーの人気は特に女性陣に偏っている。その理由を、身を以て知ったマクシミリアンだった
「有難うございます」
カーのこういった態度に慣れているのか、レオノーラはさらりとお辞儀をするに留めた。そしてクロイツに向き直ってにっこり微笑んだ。
「クロイツ様も、こんばんは。今朝はお会いしていないので二日振りですね」
「あ、ああ……。その、珍しいな……君が夜会に参加するなんて」
先ほどの威風堂々としたクロイツは鳴りを潜めてしまったようだ。頬を染めながら遠慮がちに話す様子に、マクシミリアンの確信は深まった。
「なになに?クロイツ、レオノーラに毎朝、会いに行っているの?」
カーがおどけてクロイツの肩に親しげに腕を回した。クロイツの方が僅かに大きいが、カーも背が高い。軍人だけあって騎士服の上からもしっかりと鍛えられた体躯が想像できるが、クロイツよりやや細身でしなやかな印象を受けた。関節が柔らかいのかもしれない、とマクシミリアンは観察した。
軟派な外面に似合わず訓練には相当時間を費やしているのだろうと、体重移動や関節の動きを見て推測する。見た目の華やかさに気を取られていると、いつの間にか喉元に短剣を突き付けられているかもしれない。つい闇夜からそっと獲物に近付く野性の肉食獣を想像してしまう。
「園芸部に部員が居ないので、見かねて朝だけ手伝って下さるのです」
レオノーラが補足した。
「園芸部って、あの『薬草園』か。ふーん……薬草園の世話は口実なんじゃないの」
「カー、余計な事を云うな」
クロイツは不愉快そうに眉を顰めて、カーの腕をやや乱暴に肩から外した。
「今年からマックスが入部してくれたので、少し楽になりました」
「いや、入部って……レポート終わったら辞めるつもりだけど」
「退部届は受け付ません。この間のテストも、赤点でしたよ」
慌てて否定した台詞ごとばっさりと切り捨てられて、マクシミリアンは真っ赤になった。華々しい成績を残したエリートの先輩方の前で『赤点』をばらされ、羞恥心でいたたまれない。返事の代わりにレオノーラを少し睨んだ。
その様子にクスリと笑って、カーが爆弾を落とした。
「気の置けない従兄妹同士、お似合いで羨ましいな。今日は二人の噂で持ち切りだものね……正式な婚約はいつの予定?デビュー以来社交界に顔を出さなかったアンガーマン侯爵家のお姫様がナイトを伴って現れたのだから、ご夫人達は目をキラキラさせて知りたがっていたよ。夜会に今まで出席しなかったのも、従兄殿の嫉妬が原因って聞いたけど、本当?」
ドッカーン!と雷が其処ら中薙ぎ倒してしまったかのように、その場に衝撃が走り―――一瞬、静まった。……気がした。勿論現実では無い、マクシミリアンの心象風景の中の出来事である。
レオノーラは指示を受けた通りこの話題に対してはニッコリと微笑み、何も云わない姿勢を貫いていた。マクシミリアンは背中に一筋、ツーッと汗が伝うのを感じつつクロイツを見た。
クロイツは蒼白な顔でレオノーラを見つめていたが、マクシミリアンの眼差しに気付くと弾かれたように視線を移した。眉根を寄せた険しい顔はマクシミリアンを射殺すかのようだ。何度か口を動かして声を出そうと努力し、とうとう擦れた言葉を発した。
「その……二人が婚約しているというのは……」
クロイツが恐る恐る問い質そうとした、その時。
「レオノーラ!!」
「きゃあぁっ!」
野太い声が割り込んで来て、公爵邸の夜会のような格調の高い場に於いてあり得ない切羽詰まった悲鳴が響いた。
振り向くと闘技場で戦う格闘家のような筋肉ムキムキの大男が、レオノーラの小さな体をひょいと抱き上げその熊のような髭を擦り付けるように頬擦りをしていた。
「会いたかったぞ!!元気だったかぁ~!」
「や、やめ……」
其処に立っていたのは、先ほどまで美形公爵夫人を相手に踊っていたサイラス王子だった。
こんなに大きな男が背後に迫っていたのに気配の一つも察知できなかったことに、剣術家としてマクシミリアンは肝を冷やした。カクタスは『傭兵の国』であり、その王子も武芸に秀でているという噂は強ち嘘では無いらしい。いつも動じない従妹が、顔面を蒼白にして太い腕の中で必死にもがいている。
思わず呆気に取られていると、クロイツが慣れた仕草でベリっとレオノーラをサイラスから引き剥がした。涙目のレオノーラは怯えたようにクロイツにしがみ付き、その背に隠れた。
「サイラス殿下、お久し振りです」
「おぅ、バルツァー。元気そうだな」
一方、サイラス王子はニカッと笑って、その黒髪の騎士の鋭い視線を軽く去なした。
「サイラス殿下もますますお元気そうで」
カーが挨拶をすると、サイラスは嬉しそうに「おぅ、カーか。世話になるな」と応じた。
それから身を屈め、クロイツの後ろを覗き込んで目を細めた。
「レオノーラも、相変わらずちんまりとして、可愛いな!……お菓子食うか……?」
レオノーラはぷるぷると震えた。
「い、いりません!」
「もう一回、頬擦りさせてくれよ。もっとレオノーラを抱っこしたい」
「わ……私は子供ではありません!」
レオノーラはますますギュッと、クロイツの騎士服にしがみ付いた。クロイツは彼女を庇いながらサイラスの前に出た。
「殿下、お戯れも程々にして下さい。レオノーラは侯爵令嬢です。このような扱いを、夜会のような公的な場で受けて良い筈はありません」
サイラスはクロイツの絶対零度の声音も気に留めず、ニコニコしていた。
「だけど、あんまり可愛らしいからな。つい止められなくなるのだ」
クロイツの苦情をまるで意に介さない。
マクシミリアンはポカンとした。レオノーラがサイラスの話題に眉を顰め『クロイツに庇って貰った』と言っていたのは、こういう事だったのだ。
見た目が少女そのもののレオノーラだが、早熟なうえ身分が高い事から、平民の子供が喜ぶような無邪気な扱いを受けた経験は皆無だ。ましてやいきなり抱き上げてからの『髭ジョリジョリ』などと言った、親にもやられた事が無い無体を巨漢の異国人にされていたとすると―――普段足を踏まれたり、赤点をカタに手伝いを強要されたりしているマクシミリアンでも、流石に従妹を気の毒に思った。
「わ……私はもう、十六です。成人女性に断わりも無く触れるのは、お止め下さい!」
強い口調でビシッと叫んだレオノーラだが、如何せん、長身のクロイツの後ろから叫んでいるので迫力に欠ける。まるで、子供が負け惜しみを言っているようである。その様子を見たサイラスの周りに、たちまちホワホワと花が浮かび、彼は眉尻を下げてそのキャンキャン吠える様子を喜んだ。
しかし「ん?」と言って彼は真顔になる。
「お前十六になったのか!!じゃあ、もう結婚できるな!よし、俺のとこに嫁に来い!」
レオノーラを背にしたまま、クロイツがカチンと固まった。
(げ!先に言わせてしまった……!)
マクシミリアンは焦った。クロイツの目前で言いたく無かったが、緊急事態だ。仕方が無い!
「畏れながら!」
微かに武者震いを感じたが、それを振り払うように足を踏み出した。そして、クロイツの後にしがみ付いたままのレオノーラの腕を掴んで引っ張り出した。
「なんだ?お前は」
サイラスが眉を上げて、マクシミリアンをギロリと睨め付けた。実は、サイラスとしては、ただ単に名前を尋ねたつもりだったが、周囲の者はその凶悪な眼光で本能的な恐怖を覚えた。
「名乗る事をお許しいただき、ありがとうございます。私はマクシミリアン=コリント。殿下のご学友であったこのレオノーラの従兄です」
「おお、そうか」
「そして、幼少の頃から契りを交わした婚約者です」
「は?」
「我が従妹を妻に、という勿体無きお言葉、有難うございます。しかし彼女は既に私の婚約者。御期待に添えず、申し訳ありません」
マクシミリアンは、深く頭を下げた。その横でレオノーラは、少しぼんやりとしている。
「レオノーラ、今の話は真実か?」
サイラスが真顔で彼女を覗き込んだ。夢から醒めたように意識を取り戻し、レオノーラは頭を下げた。
「畏れながら、真実でございます。誠に有り難いお申し出ですが、私は既に婚約者のいる身。ご希望に沿う事ができず、申し訳なく存じます」
マクシミリアンはヒヤリとしてサイラスの返事を待ったが、一向に声が掛からないので、そろそろと顔を上げた。
そこに居るサイラスは、すっかり先ほどの勢いを失っていた。
あからさまに肩を下げてしゅん、としている。
「そうか……あい分かった。レオノーラ」
「はい」
「幸せにな」
強面を和らげて、サイラスは笑顔を作った。
「……有難うございます」
サイラスが去った後姿を見て、レオノーラがぽつりと言った。
「王族とは思えないくらい、率直でお優しい方なのですけど……子供扱いと『髭ジョリジョリ』がどうしても苦手で……どこでもイキナリ抱き上げて、振り回されて……本当に心臓が持たないんですよね……」
サイラスの予想以上の落ち込みように、彼女は少し同情した様子だった。
周囲は皆、遠巻きに様子を伺っていたようで、はっきりと内容を把握できず微かにざわめいている。
ここまできっぱり言い切る予定では無かった。サイラスの乱入と突然の求婚により、やむなく公で婚約者宣言をしてしまった。難所を無理矢理乗り越えて、マクシミリアンはレオノーラの腰に手を当てたままホーッと息を吐いた。
が、次の瞬間。物凄い冷気が自分に向って吹き付けて来るのに気が付いて、恐る恐る振り向く。自分の背に庇っていたレオノーラを奪われその場で固まっていたクロイツから、その冷気は漂っているのだと……悟ってしまった。
いつも朝の光を受けて晴れ渡った空のように柔らかく見えた水色が、氷のような蒼に変わり、冷たくマクシミリアンを貫いていた。
凄まじい殺気に、マクシミリアンの襟足がピリピリと痺れた。
(まずい。俺、殺られるかも)
マクシミリアンはごくりと唾を呑み込んだ。しかし、殺気は直ぐに逸らされた。
「―――失礼する」
血の気の引いた顔を背けクロイツは踵を返して、その場を跡にした。
「あーあ。コリント家のマクシミリアン君、どうする?敵に回しては行けない奴を敵に回しちゃったねえ……君、騎士希望でしょ?仕官試験大丈夫かな?無事受かっても仕官後、ヒドイ目に会っちゃうかもねえ」
他人事のようにニヤニヤ嗤っているカーをマクシミリアンは恨めしげに見上げて、声を潜めて詰め寄った。レオノーラはこちらに注意を払わず顔色の悪いクロイツが早足で去る背中を、気遣わしげに見ている。
レオノーラの耳に入らぬよう距離を詰めて、マクシミリアンは長身のカーの上目遣いに睨みつけた。
「……アドラー少尉……バルツァー少尉の気持ちを分かっていて、わざとおっしゃいましたね」
「あ、気付いてた?」
「……明らさまじゃないですか」
マクシミリアンは怒りでフルフルと震えたが、身分上、遙か格上の公爵家の人間に不敬になってはいけないと、何とかギリギリ自制して語気が荒くなるのを押さえた。
「まあ、焦れったくてねえ……奥手にも程があるというか。今回の件を使って少し発破掛けようと思って、残業しているとこ、無理に連れて来たんだよね。」
「バルツァー少尉は招待リストに無いって、侯爵を通して確認済みだったのに……おかしいと思ったんですよね」
余計な事を……と批難の言葉を吐き出しそうになる自らの口を押さえて、マクシミリアンはぐっと堪えた。いくら演出であるとは言え、クロイツの前で無神経にイチャイチャするのは精神的に厳しい。マクシミリアンは彼の欠席を予め、確認していたのだ。
まさか、この演出の脚本を描いている王家側の人間が、このような戯れを仕掛けるとは予想していなかった。
「自分の気持ちを自覚してからのクロイツはねぇ、レオノーラの周りをウロウロしているだけで一向に彼女に打ち明けないし、かといって諦めて他の令嬢に行くわけでもない。バルツァー侯爵も縁談を断り続ける彼をどう扱って良いのか悩んでいたからね……毎朝、薬草園に通っていたのには驚いたけど。君も春から手伝っているんだね?何か二人に進展はあったのかい?」
マクシミリアンは少し逡巡した後、溜息を吐いて口を開いた。
「……いえ。無礼を承知で申し上げますが、バルツァー少尉は今でも『レオノーラの周りをウロウロしているだけ』です。彼女には何も伝わっていません……色恋事は彼女の『専門外』らしいので」
不機嫌な様子で無表情に応えるマクシミリアンの台詞を聞いて、カーは盛大に噴き出した。何やらツボに嵌ったらしい。他人の不幸を面白がるような姿勢に、マクシミリアンは眉を顰めた。巻き込まれた自分も一緒に笑われている気がしたのだ。
「バルツァー少尉がショックのあまり諦めてしまったら、どうするのですか?」
「その時は、君も観念して愛らしい従妹殿を娶り給え。傷心で自棄になったクロイツには、王家に益する良い縁談を陛下が宛がうよ―――レオノーラが他人のモノになってしまえばシツコイ彼も流石に諦めるだろう?……まあ、どうしても君が嫌だというなら、私にお鉢が回って来るかもしれないがね」
「え?アドラー少尉とレオノーラが、ですか?」
つい、頓狂な声を上げてしまった。確かに身分上問題ないかもしれないが、レオノーラに更に家格の高い公爵家の嫁が務まるとは思えない。ましてや稀代の色男『薔薇の騎士』には沢山のお相手が群がっているではないか。おそらく結婚後も大勢の女性に囲まれそうなタイプの夫を迎え、その寵を争うレオノーラがマクシミリアンにはまるで想像できなかった。
「女性は皆、それぞれ違った魅力を持っているから面白い。私はどんなご令嬢が相手でも、言われた通り結婚するつもりだよ。それにレオノーラは女性の割に信頼できる人間だしね。あと意外とグラマーだったのは、儲けものだな」
爽やかな笑顔で鬼畜な発言をするアドラー少尉に、マクシミリアンは顔を引き攣らせた。女性として見られないとは言え、大事な家族であるレオノーラをむざむざドロドロした愛憎劇の渦中に投げ込むのは、避けなければならない。
マクシミリアンはもう、自らの淡い夢は諦めて観念する事にした。
「いえ……其処までしていただく訳には……レオノーラがバルツァー少尉に見限られたら、身内で……私が引き取らせていただきます……」
カーは魅惑的に微笑んだ。その笑顔は男のマクシミリアンでも思わずドキリとしてしまうほど艶やかだった。
「そう?……残念。ところで、レオノーラは何処に行ったのかな?」
はっとして、辺りを見回すとレオノーラの姿は消えていた。「失礼します!」と断わって、マクシミリアンは彼女を探すため足早にその場を離れた。




