2.温室の男
いつも早朝に行う道場のトレーニングの時間を前倒しして、結局断りきれずに園芸部の部活動に参加する事となった。約束通り講義の一刻半前に作業着に着替え、道具入れと籠を腰に装着し扉を潜る。
レオノーラは薬草園で、既に水遣りを始めていた。
「レオナ、俺は何をやったらいい?」
「あ、おはよう、マックス。温室の水遣りをお願い」
「りょーかい」
マクシミリアンは井戸の水をたっぷり汲んで、両手に水で一杯になった木の桶を持ち温室のドアを体で開けた。ドアの隙間から、南方でのみ生育するという薬草の濃厚な香りがぶわっと噴き出して来る。鮮やかな濃い緑の葉が幾重にも重なって鬱蒼と茂っていた。温室に設置された棚に所狭しと並べられた鉢は、さながら南の国にあるという絵本でしか見た事の無い密林のようだった。
桶を地面に置こうとしゃがんだ時、温室の奥で同じように身を屈めて作業をしている背中を見つけた。同じ作業着を着用しているので、マクシミリアンは自分以外に園芸部員がいるのだと感じて少しホッとした。
「おはようございます」
声を掛けると、その人物はすっと立ち上がってこちらに向き直った。その人物を見てマクシミリアンは思わず息を呑む。
美しい姿勢のすらりとした長身。がっしりとして、それでいてしなやかな体躯。精悍で秀麗な面差しは少し癖のある黒い頭髪に包まれており、洞窟に閉ざされた秘密の湖を思わせる透き通った水色の双眸に見つめられると、何もかも見透かされそうな微かな畏怖が彼の心に呼び覚まされた。
恐ろしく威厳のある人物だった―――ただし、中途半端な仕立ての微妙な色合いの作業着が、致命的に似合っていなかったが。
(何だ、この迫力は―――)
「マックス!」
立ち竦むマクシミリアンの背中に、レオノーラの声が飛び込んできた。どうやら、先客がいる事を思い出し、慌てて伝えに来たらしい。対峙する二人の男の間に小さい体をするりと滑り込ませた。
「ご紹介が遅れて申し訳ありません、クロイツ様。新しく園芸部員になった新入生で、私の従兄のマクシミリアン=コリントです。マックス、こちらは学院卒業生のクロイツ=バルツァー少尉。近衛騎士団に所属されているの」
その名を聞いて、マクシミリアンは無作法にも思わず声を上げそうになった。
(思い出した。有名な―――『蒼の騎士』様だ)
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適齢期の貴族女性の視線を一身に集める、夜会の星。その水色の瞳にちなんで社交界の令嬢達は、彼を『蒼の騎士』と呼んで崇めている。常に輝かしい戦歴で名声を上げてきた、シュバルツ王国の武の要バルツァー侯爵家の嫡男。新進気鋭の出世頭、近衛騎士団の『蒼の騎士』は眉目秀麗にして武芸に秀で、王立学院を優秀な成績で卒業した元学院高等部自治会長でもある。
『とにかく、凛々しくて素敵なのよおー。恋愛小説の挿絵に出てくる騎士そのもの、なの』
『寡黙な方なのですって。そんな方が私だけに愛を囁いて、跪いていただけたら……!守られてみたいわっ』
と、姉達がきゃあきゃあ騒いでいたが、刺客が二、三人現れても自分で始末できる彼女達を、誰がどのように守るというのだ。マクシミリアンはよく、心の中で突っ込んだものだ。
バルツァー少尉の凄い所は、その人気が令嬢達の間のミーハーなモノに留まらず、第一線で働く男性陣からも一定の評価を受けている所だ。コリント家の家族が珍しく揃った晩餐で、父と兄が彼の名前を『優秀な嫡男』の代名詞として使っていた事を思い出す。誠実で、余計な事を言わない実直な男だと褒めていた。それがますます姉達の熱狂の新たな燃料となっていたから、目も当てられない。
とにかく、社交界では『蒼の騎士』は注目の的である。まだ婚約者が決まっていないのはモテ過ぎて一人に絞れないからだ、という尤もらしい理由が定着していた。
そんな『蒼の騎士』が何故似合わない作業着で、園芸部の温室に出入りしているのか。
「自治会役員をしている時に色々お世話になったのだけれど、園芸部にも所属されていたの。クロイツ様が卒業されてから部員が私だけになってしまったので、気の毒に思って仕事前にこうして手伝いに来て下さるのよ」
「いや、私は趣味で参加させていただいているのだ。むしろ、卒業してまで出入させていただいて、有り難いというか……」
何故か頬を染めて否定する『蒼の騎士』。
噂話と実像の差に違和感を覚えて、マクシミリアンの胸はモヤモヤした。
何だか偉い近衛の騎士様にしては腰が低いし、あくまで遠目にだが、夜会で見かけた卒の無い堂々とした振る舞いと実像のギャップが大き過ぎる気がしたのだ。
コホン、と我に返ったように咳払いをして居住まいを正したバルツァー少尉は、マクシミリアンにすっと右手を差し出した。
「よろしく」
「よろしくお願いします」
恐縮しながら握ったその手は、秀麗な顔立ちに似合わない厚みのある大きな手だった。剣だこが幾つもあって、掌が硬い。十分以上に鍛錬を重ねている掌だ。その感触は、剣術オタクのマクシミリアンの琴線に触れたのだった。彼はクロイツに好感を抱いた。
挨拶の後、レオノーラとクロイツは各々(おのおの)の作業に黙々と従事していた。学院の鐘がなる一刻前にクロイツは勤務があるからと言って薬草園を颯爽と辞した。その立ち姿の美しさを見て、やはり彼は作業着が絶望的に似合わないな……とマクシミリアンはあらためて思う。レオノーラが頭を下げてから手を振ると、クロイツは頬を染めておずおずと手を振り返した。
先ほどマクシミリアンに対して手を差し出したクロイツは、弱冠十九歳とは思えないほど落ち着いた表情と態度を兼ね備えていた。精悍な美貌の迫力のある長身の騎士が、初等部を出るか出ないかといった容貌の小柄な美少女を相手に頬を染めている様子は、どう見ても幼女趣味にしか映らない。卒業時は同級生で三つしか年が離れていないのだから、実際は一般的に『お似合い』と言われる筈の二人なのだが。
朝から何か見てはいけない気恥ずかしいモノを見てしまった気がして、気持ちの休まらないマクシミリアンだった。