表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

常盤の庭

作者: 牡丹

『ときわのにわ』と読みます。

「○○言葉」をテーマにして書いた短編作品です。

自分は花言葉を作中で取り上げています。

家族や兄弟についての関係性にスポットをあてて書きました。

重々しい話ではありませんが、あまり明るくもないです。

ありえないようで実はたくさん周りに広がっている事実のようなものを表現したかった。

 どこからか流れてきた花の香りが、松野箕琴まつのみことの鼻腔をくすぐる。あまい。くしゃみが出た。これ、なんの匂いだったっけ。箕琴は鼻をすすりながら考える。

 真っ盛りの春は、やけに日中の陽が強く、ひんやり冷たいコンクリートのマンションで専らを過ごす人間の身体にはかなり堪える。このぼんやりとした、汗を掻きづらい暖かさが、箕琴は苦手だった。なんだかすごく中途半端だと思う。

 人気の少ない昼の住宅街は、箕琴が一人歩いているだけで、何か周りの風景から浮いているように感じる。若い年頃の女性が、コンビニの袋を指にかけて、ろくに化粧もせず重たい目をこすりながら、気だるそうに歩いていれば、それも無理はないのだろうけど。

「暑い。そして臭い。あれはありえない」

 頼りない足取りでなんとか自宅のマンションに辿りついて、ドアを開けた途端に呟いた。独り言にしてはかなり声が大きい。

「あ、先生。おかえりなさい」

 その独り言には聞き手が存在していたのだ。

 玄関から連なる広くて長い廊下の途中には、沢山の部屋のドアがあって、その一番奥の部屋から、顔だけを覗かせて、箕琴と同い年くらいの若い男性が微笑んだ。

「あれっ、丹澤たんざわさん。来てたんですか」

「来てたも何も、今日ご自宅に窺いますって昨日、ファックスしたじゃないですか」

 箕琴のことを『先生』と呼ぶこの男は、彼女の仕事の同僚とは呼び難い存在だった。というのも箕琴は、一般企業などに勤めている人間ではないからである。

 丹澤が部屋から出てこちらへ近づいてくる。いつものスーツ姿の上に、なぜかエプロンを身につけていた。

「ほー、そうだっけ。………あ、ごめん今ファックス壊れてるんでした」

「直したんじゃなかったんですか? もう二カ月も前からじゃないですか! 仕事に支障が出たらどうするんですか………」

「ちょうどいま出たね」

 丹澤は、箕琴の目の前に到着すると自分の手を差し出した。箕琴は、それと同じくらいに、ごく自然にその手に自分の持っていたコンビニ袋を渡す。

「笑い事じゃないでしょうが。―――もう、久々に出かけたかと思うと、こんな身体に悪そうな物しか買ってこないし……」

「自分の食べたい物が、たまたまそういうものだったんだから、しょうがないじゃん。ていうか、プリンと炭酸ジュースとボックスガムが身体に悪いようには思えないけど」

 眉間にしわを寄せる丹澤を軽くあしらい、横を通り過ぎようとして、立ち止まる。なんだか嫌な予感がして、口を開いた。

「ねえ、なんでエプロン?」

「これですか? いやね、今日は先生の家お邪魔するついでに、――」

「部屋の整理とか、してないよね……?」

「おっ、先生鋭い。その通りですよ」

 言いながら、へらりと笑う長身の青年の膝を、箕琴は思い切り、蹴った。

「いったぁ!」

「ちょ、何やってくれてんの、本当に」

 その暴力的な動きの勢いをそのままに、箕琴は踵を返して、丹澤が先ほど出てきた部屋へ直行する。

「他人の部屋、勝手にいじるとかさあ………」

「だっ、だって、先生この前、言ってたじゃないですか。仕事場を整理したいけど、今は忙しくてそれどころじゃないって」

 後ろに、丹澤が苦しそうな声で反論するのが聞こえる。

「言ったけど、言ったけどさあ」

「『自分がしなくても、ひとりでに綺麗になってればいいのに』、とも言ってました」

「そういうんじゃないの! いや、そうだけどそうじゃないの!」

 丹澤の声色がだんだん重たいものになっていくのには気にも留めず、箕琴は、ただいま美しく整頓されたばかりの自室のあちこちを歩き回っては、絶望の呻き声をあげる。

「全部、先生が原因なんじゃないですか」

「は?」

 何気なく振りかえると、小さな子どもが拗ねる時のように両頬を膨らました丹澤の姿が目に入った。たぶん彼は、かなり本気で怒っているんだと思う。これで。

「先生は生活がだらしなさすぎます」

 丹澤のいつものお説教が始まった。

「こういう身のまわりのこととか、睡眠とかもそうだけど、食事だって。もうちょっとバランスを考えて欲しいんですよ。だってあんたこれ、主食一個もありませんよ! 野菜も!」

 丹澤は、持っていたコンビニ袋を箕琴の前に突き出して訴えた。

「お昼時に出かけたからってご飯買ってくると思ったら大間違いですけど。ていうかさ、担当編集にそこまで言われる筋合いないじゃん」

 箕琴の職業は、『小説家』兼『イラストレーター』である。自分で書いた物語に、自ら挿絵や表紙絵をデザインして、世に売り出しているのである。そして丹澤は、箕琴の契約する出版社の担当編集者にあたる。

「大いにあります! 担当は、ただ作家から原稿を回収するだけの仕事じゃないんですよ? 生活環境やメンタル面からも作家を支えていくのが―――」

「担当の役目なんでしょ。もう聞き飽きましたよ、それ。すいません、すいません、やっぱ私が悪かった」

 耳の痛くなるような話が長くなるのは厄介なので、箕琴は足早に降参の白旗を上げた。

 しかし、その態度が、ますます丹澤の眉間のしわを濃くすることになった。

「反省しているなら、どうしてそのクソ生意気な口調が一向に直らないんでしょうねえ」

「わー。丹澤さん、笑顔なのに言ってること怖いなあ。もっとフランクに行きましょうよ、私たち、歳一個しか違わないんだし」

「そうですね、ひとつ年上ですよね。俺の方が」

「………」

 年齢のことを引き出すのは逆効果だった。馬鹿なことをしたと、箕琴は心の中で舌打ちする。

「……もう、そうやって先生は、俺が緩いからって……。一度違う方に来て指導してもらったほうが良いのかもしれませんね!」

「それは嫌だな」

「………?」

「私の担当は……、笠岡夏野かさおかなつのの担当は丹澤さんじゃないと―――」

 箕琴が言葉をすべて言い終える前に、玄関のチャイムが鳴った。

「あら、誰でしょう。宅急便とか頼みました?」

 ほとんど来客の無いこの家で、不思議そうにする丹澤の隣で、箕琴は、数秒同じように考えたあと、急に血相を変えて脂汗を垂らし始めた。

「いま……、今、何時……?」

「えっ、えーと、十一時ちょうどですね」

 どうしたんですか? と、丹澤は表情だけで問いかける。しかし箕琴は、その顔さえも見上げられないほどに切迫した様子だ。

「ごめん、ちょっと……、私、旅に出ようかな」

 箕琴は、両手を頭に乗せて、まるで避難訓練でもしているかのようだ。

「はい?」

「あのさ、適当に私は留守ですって、さ、追い返して―――」

「居留守を使っても無駄よ、箕琴」

 二人の背後で、どすの利いた、低い女性の声がした。

 箕琴は、ため息をひとつ漏らした後、ゆっくりと振り返り、

「時間ぴったりに来るとか、まるでロボットみたいですね」

 目線を、今までとは正反対の鋭利なものに変えて、その声の主と向かい合った。

 丹澤は、この家で初めて見る箕琴以外の人物に動揺を隠しきれない。二人の顔を何度も交互に見返してしまう。

「相変わらず、その生意気な口は減らないわね」

 箕琴の厭味っぽい言葉に負けじと、その女も言い返す。彼女は、暗い色のスーツに赤い縁取りの眼鏡で、髪を高い所でひとつに結えている。少しお堅いキャリアウーマンみたいな。

「はあ、まあおかげさまで。そっちも、相変わらず男っ気の少ないご様子で。しわの数ばっかりは増えてるみたいですけど」

「なに馬鹿なことを言ってるの? 勤務中に色事に浮つくなんて、あなたもまだまだガキね」

「勤務中って……。いまは、別に休憩だし」

「そんなこと言って。まただらしない生活しかしてないんでしょう」

「なんで決めつけんのよ」

「あなたのそのみっともない服装や表情を見れば大体わかるわよ。それにねえ」

「あ、あの!」

 このまま野放しにしておけば、いつまでも続きそうないがみ合いの間を割って、丹澤はやっとのことで、先刻からずっと気になっていることを、二人に問いかけた。

「失礼ですが、どちらさまでしょうか……? それと、お二人は、どういう……」

「あら」

 すると、眼鏡の女は、丹澤の方に向き返り、手元から自分の名刺を取り出して、恭しく挨拶した。

「お恥ずかしい所をお見せしたようで、失礼しました。私、NextBOOK製品開発部所属の、松野と申します」

 とても手慣れた様子で、懐から名刺を取り出した。NextBOOKは、よく雑誌やテレビで名前の知れた大手のソフトウェア開発会社である。この人は、本当にできる社会人だったようだ。

「松野、壱香いちかさん………。―――えっ、松野?」

 丹澤は、その名刺に目を通していると、妙に聞き覚えのある名字に、つい目が止まった。

「はい」

 そして、顔を上げた丹澤に向かって、壱香はその真っ直ぐな目線のまま

「私は、この子の……、松野箕琴の姉です」

 一息で言い切った。

「お、お姉さん……!」

 驚愕する丹澤の隣で、箕琴はまたため息をついた。

「ただの年増ですよ」

 隣からやっかみ事を挟んだ箕琴の背中を、壱香が素早く平手打ちする。

「いって」箕琴が大袈裟によろける。

「あなたは黙ってて」

 眼鏡や髪型の違いで今まで気づかなかったが、よく見ると、確かに二人の顔立ちはよく似ている。しかし、姉妹としてはかなりの年齢差があるようだった。

「あなたは、箕琴の担当の……、たしか、丹澤さん、でしたね。お話は伺っております。本当にいつも、妹のことをよく見てくださっているようで」

「いえいえ、俺はそんな……」

 壱香の表情がいくらか緩んだ。美しい顔立ちの彼女に日ごろの苦労を感謝され、つい丹澤の方も目尻が下がった。

「やめて。そういう風に言うの。ていうか、用がないなら帰ってよ」

 箕琴の口調がさらにきつくなった。というより、さっきまでのとは違う、本気で人を拒絶するような声になった。

 別室に逃げようとする箕琴の腕を、壱香がすかさず掴み、

「なに言ってんの、箕琴。今日、何の日だか忘れたの?」

強く、粘着質のある言葉を吐きだした。

「あ……、母さんの……――」

 箕琴は、一度手を振り払いかけたが、何かに突かれたように壱香の一言で動きを止め、それからは抵抗することなく、大人しくなった。

「丹澤さん、今日はやっぱりごめんなさい。今から少し、出かけてきます。だから打ちあわせは、その後で」

「えっ、ああ、いえ。分かりました。じゃあまた連絡いらさせてもらいます」

 そうして、静かに言い残し、俯き気味に壱香の後をついて部屋を出て行った。

 長く垂れた髪の間から、丹澤は、箕琴の、今までに見たことのないような表情を目にした。たった一言では言い表せないような、沢山の感情が詰まった目をしていた。



§



 それは、まだ彼女らが子どもの頃のことである。壱香の、十二歳の誕生日の次の日、両親が離婚した。親たちはその数年前から不仲で、父親が一人アパートを出ていった。父の去っていく後ろ姿を見送る時、隣に立つ母は、なんだかとてもすっきりとした表情をしていたことを、壱香は覚えている。

それからは、母が一人で壱香と、まだ四歳になる前の箕琴を養っていくことになった。

 離婚する以前よりも、仕事の帰りが遅くなった母に、壱香はなかなか甘えることができず、彼女にとっては寂しい日々が続いた。本当はもっと、学校のことを話したりしたい。一緒に買い物に出かけてみたい。もっともっと長く、優しいお母さんの笑顔を、隣で感じていたい。そんな願いを心に持ちながら、壱香は、年下の幼い妹の面倒や家事を、毎日しっかりとこなしていた。

 そうやって頑張っていれば、いつか、きっとそういう日が来ると、信じていた。


 一年と半年が過ぎて、片親のいない生活にも随分と慣れてきた。セーラー服姿になった壱香は、毎朝、三人分の朝食を手早く作って、それから一番先に家を出る母のことを見送る。

 ある日のことだった。

 いつもとなんら変わらない、爽やかな朝だった。

「それじゃ、行ってくるね」

「うん、いってらっしゃい。母さん」

 蝉の鳴き声が遠くで聞こえる。

 靴ベラを棚に戻して、ドアを開こうとする母のことを、壱香はふと、呼びとめた。

「今日、すごい大きな荷物ね」

 母が、いつも会社に持って行くのとは別に、大きなボストンバッグを肩にかけていた。

「えっ、―――ああ……、うん。………仕事で、仕事で使うものが入ってるの」

 一瞬、母が言葉を閊えた。でも、その時は特に気にならなかった。

「そう」

「うん。そうなの。―――じゃあ、二人とも仲良くね」

 壱香が中学校に入学したあたりから、母の帰る時間は、ほとんど深夜になることが多くなっていた。でも、自分たちのために頑張っているのだと思うと、壱香はそんなことへっちゃらだった。

 箕琴はそうではなかった。まだ小さいのに、なかなか母に甘えることができず、夕方になると必ずぐずって、いつも同じことを言う。

「おかあさん……っ、……お母さんじゃないと、やだ―――」

 その言葉を聞くと、壱香はどうしようもなかった。母親同然に妹の面倒を見ていても、この子が求めるような母親にはなれるはずはなかった。

 だって姉妹だから。

 いくら親子のように時間を共にしても、本質の何かが、どこかで食い違って上手にはまらない。

 だから壱香はいつも願うのだ。少しでも母が早く帰ってきて、妹の機嫌も良くなりますように、と。

 壱香は、どんなに一緒に居てくれなくても、どんなに聞き分けのないことを言っても、母と妹のことが大好きだった。大切な家族には、笑顔で居て欲しかった。去っていった父のような、苦しそうな表情は、誰にもして欲しくなかった。


 しかしその日、どんなに待っても母は帰って来なかった。

 そして次の日の朝も、その次の日も、松野姉妹の待つアパートに、母が姿を現すことはなかった。

 たぶん、姉妹は捨てられたのだと思う。

 子ども二人が暮らすには、いささか広すぎる部屋の中で、壱香は悟った。

 蝉が遠くで鳴いている。

 壱香は、隣で何も分からずに自分を見上げる箕琴の手を、強く握りしめることしかできなかった。


 『松野家之墓』と、白く掘られた大きな墓石には、少し汚れが目立つ。松野姉妹以外、ほとんど墓参りに訪れる人はいない。ましてやこの季節、少し放っておいただけですぐに雑草が周りに生い茂る。

 箕琴の自宅から車を飛ばして二十分ほどのところに、小規模な霊園がある。二人はその墓の前で、並んで静かに手を合わせていた。壱香が置いた線香の束から、灰色の煙が天まで昇っていく。

「箕琴。桶に水汲んで来て」

「うん」

 マンションを出てから、箕琴はかなり素直に壱香の言うことに従っている。今だけでなく、ここに来るといつも彼女は大人しい。

 壱香も、この墓の前では、何となく口を開く回数が減る。意識しなくても、ひとりでに昔のことを考えてしまうのだ。

「もう、十五年……」

 母が行方不明になった後、姉妹は、叔母の美稔子みねこの家に預けられて過ごした。最初は、美稔子も、その家の人たちも、二人を可哀想に思って、親切に接してくれていた。

 でもその数年後に、母が死んだという電話が、美稔子の元へかかってきた。自殺だった。

 多くはないが借金を残していたらしく、その肩代わりをすることになった美稔子は、それから姉妹に対する接し方が急に変わってしまった。

 二人は、投げ捨てるような言い方で、母の最期についてを聞かされた。何のいたわりもない言葉だった。薬をやっていたとか、変な宗教に騙されていたとか、本当かどうかも分からない話を、美稔子や、その家族から沢山聞いた。本当の家族でない二人に対する家の人たちの接し方は、まるで名前も知らない他人へのそれだった。

 生活環境も、最低限のもので、本当にひどい扱いだった。その家には、冷たい人しかいなかった。

 箕琴が粗相をすると、姉妹一緒に叱られて、最後には毎回、死んだ母の悪口になる。母さんは関係ないことなのに、と、無言で美稔子を睨むたびに、

「その目でこっちを見ないで! 気持ち悪い、妹そっくりよ……!」

 そう言って厭われた。

 しかし、少しずつ忘れてしまいそうになる母の顔に、自分が似ているということを、壱香は、少し嬉しく感じることがあった。

 どんな死に方をしても、どれほど他人から疎まれていても、やはり大好きな母だった。そして妹も、きっと自分と同じように、母を好きなままでいてくれると思った。


 でも本当は、本当のところは、どうなのだろう。

 物ごころもつかないうちに居なくなってしまった母の命日を、今は一緒に弔問してくれているけれど。

 隣の助手席で、ぼんやりと前の風景を眺めている箕琴を、壱香は横目で盗み見る。

 この子は―――妹は、何を考えているのか分からない。思考や意志が、表情となって表れにくい。こんなにも長い間、ずっと一緒に居たのに、その年月を重ねるごとに、なんだか壱香は、手をかけて面倒を見てきた妹が、まるで自分の知らない姿になっていくような感覚を覚えた。お互いに自立した生活ができるようになった今でも、なにか、こういうことに託けて、妹に接する機会を増やそうとしてしまう。少しでも彼女について知ろうとする。

 過保護なのだろう。ただの姉のくせに。

「なに」

 箕琴が、壱香がこちらを見ていることに気付いた。

「い、いや……。なんでもない」

 壱香は、はっとして前に向き直る。

「ふうん。余所見してると事故るよ」

「………うるっさいわねえ」

 いつも通りの調子に戻った箕琴に、少し安心しながらもカチンときて、アクセルを思い切り踏み込む。信号待ちで停車していた軽自動車が、車体をうねらせながら前進する。

「お昼、駅の近くのお蕎麦屋さんでいい?」

「うん」

 喧嘩しても、その数分後には何事もなかったかのように会話を始めるのが、この姉妹の独特なところだった。

 仲が良いのか、悪いのか、よく分からない。お互いの気持ちさえも、実はよく知っていないのだから。



§



「ふう。ごちそうさま」

 空になった食器の前で、箕琴は満足そうに手を合わせる。

「ちょっと。もうちょっとゆっくり噛んで食べなさいよ。消化に悪いじゃない」

 壱香は、まだ半分以上残ったざる蕎麦をすすりながら、妹をたしなめる。

「お腹すいてたんだもん、しょうがないじゃん。丹澤さんみたいなこと、言わないでよ。そうやって細かいと、結婚できないよ?」

 箕琴がまた恋愛に関することを持ちだしたので、余計なお世話よ、と壱香の声が高くなる。その話には、あまり触れて欲しくないらしい。壱香はさらに続ける。

「あの人にも、散々迷惑かけているようじゃない。あの部屋だって、綺麗にしてるの丹澤さんでしょう? いつになったら自分でしっかりするのよ」

「なんでそう決めつけんの。確かにいろいろお世話になってるけどさあ」

わりと落ち着いていた箕琴の心がまた逆立ち始める。トントンと踵を床につけて、無意識のうちに貧乏ゆすりしていた。

「憶測でも分かるような様だからでしょ。ていうかあんた、まだ小説家やってるの? そういう、不安定なものに就いてるから、いつまでもだらしないのよ」

「は? 仕事関係ないじゃん」

「ないかどうかは分からないでしょう。あなた成績悪くなかったんだから、普通に就職して、普通に毎日出勤してれば―――」

「ほっといてよ!」

 箕琴が、大声で怒鳴った。周りに居た客や店員が、皆一斉にこちらに注目する。

「………」

 壱香は、その声に驚いて、ただ箕琴の凝視することしかできない。

「………そっちに関係ないじゃん」

 箕琴は、一度も壱香と目を合わせなかった。断固として、合わせようとしなかった。

 間違ったことを言ってしまった。言葉に出した後で、壱香はそのことにやっと気付いた。

「もう出ましょう」

 ざわつく空気の中で、壱香が最初に立ちあがった。


「悪いけど、ここからは歩いて帰ってもらってもいいかしら。もう時間が無いの」

 店から出ると、腕時計を見ながら、壱香は慌てた表情でそう言った。

「うん、まあ近いからいいけど………。仕事、休んできたんじゃないの?」

「休むなんて無理よ。お昼、ちょっと抜けてきたの。またすぐに戻らないと。いま、ちょうど忙しい時だから」

 壱香は、答えながらも、忙しなく自分のスマートフォンをいじったり、手帳をめくったりしている。

「………忙しいのはいつもでしょ」

 壱香の姿を見る箕琴は、低い声で呟いた。

「え?」

「いや。別に」

 その小さな声は、仕事のことで頭がいっぱいになっている壱香には届くはずもなく。

「そう。じゃ」

「うん………」

 荒々しくハンドルを回して、足早に箕琴の前を去っていった。

 箕琴は、その様子を見送ることなく、早々に方向転換して、自宅のある方へと歩いていってしまった。



§



 閉店間際の駅前の本屋。そこへ、一人の女が息を切らして駆け込む。早足でいくつかの本棚を通り過ぎ、そのまま新刊が沢山並ぶコーナーの前に行きついた。

 スーツ姿のままで、肩を上下させながら、目の前に並べられた本たちに視線を巡らせる。

「あった………」

 そして、中央に平積みされた、とある作品に目を止める。本の前には、『笠岡夏野、待望の最新作!』と赤い文字で書かれたポップが立ててある。残りの在庫も、他の作品よりひと際少なかった。彼女は迷わずその一冊を大事そうに手に取り、ほっとしたように眼鏡の奥の瞳を緩ませながら、すぐレジへと歩き出した。

 あんまりその本ばかり見ていたので、途中で人にぶつかる。

「す、すいません」

「いえ、こちらこそ」

 穏やかな男性の声だった。ろくにその相手の顔を見ないまま、女は急ぎ足でレジへと向かっていく。

 一方、その男性はというと、先刻の穏やかな笑顔のままで、女をいつまでも見ていた。

 ずっと、見つめていた。



§



 壁にかけられた時計の針が、十二時ぴったりを示す。壱香は、それを確認すると、同時に自分のデスクチェアから立ち上がった。

 フロアの端が良く見えないほど広い、株式会社NextBOOKの開発部署には、個々に仕切られた作業用のテーブルが何列も並んでいる。その上には一人ずつ大きなデスクトップPCが二台並んでいて、同様にそれぞれの使う資料や所持品がかなり雑多に積み上げられていた。同じ部屋に居るというのに、皆一様に目の前の液晶画面に張り付いて、ほとんど会話を交わさない。

 壱香は、そんないつもと変わらない風景を横目で流しながら、自分の長財布と、一冊の単行本を鞄から取り出して部屋を出た。

 オフィスの外に備え付けられた自動販売機で熱いコーヒーを買い、そのままその近くにある休憩室へ入った。まだ昼休みが始まったばかりなので、中には誰もいない。もっとも、時間が経ったとしても、ここの休憩室を使う人はほとんどいないのだ。

 円状のテーブルに添えてあるパイプ椅子の一つに腰かけ、持っていた本の、栞が挟んである場所を開く。

 壱香は、静かで、冷房が緩くきいていて落ち着くこの場所をあえて選んだ。本を読むには最適だ。

 コーヒーをすすりながら、ページをめくる。しかし、文字を眺める壱香の目は重たい。昨日も、深夜に仕事から帰った後、遅くまでこの本を読んでいた。

「休憩時間まで読書なんて、本当に本が好きなんだねえ」

 うとうとと、舟を漕ぎ始めていた壱香の向かい側から、声がした。

 びっくりして見上げると、休憩室の入り口に、一人の男が腕を組んで立っていた。垢ぬけて穏やかな表情をした、長身で男にしては少し長めの茶髪だ。その顔に覚えはない。

「そんなに嫌そうな顔しないでよ。俺のこと………まあ、知らないか」

 険しい顔を緩めない壱香のもとに、その男が近づいてくる。向かいの席に腰かけた後、首から下げていた社員用のネームプレートを手にとって見せた。

「かきざき……。―――蠣崎チーフ!」

「そう。こんにちは」

 蠣崎とは、開発部署のチーフマネージャーを務める人物の名前だった。しかし、この仕事は個人作業が主なため、この春からチーフになった彼と、壱香は一度も顔を合わせたことがなかった。

 愉快そうに笑う蠣崎を見て、壱香は先刻の驚きの表情に、訝しみの表情を付け加えた。

 名前だけ知っている蠣崎は、いろいろなところで、さまざまな噂が囁かれているということを、壱香は思い出したのだ。

 金持ちだとか、会長の孫だとか、とんでもない女好きだとか、逆に男好きだとか。どれもまったく根拠はないのだけれど、火の無い所に煙は立たない。

 ましてや、これまですべてが謎だったチーフが、今になって急に壱香の前に姿を現したのだ。無意識にいろいろなことを懸念する。

「どうも。………何かご用でしょうか」

 なるべく表情を変えずに、淡々とした口調で蠣崎を見据える。上司だというのに、まったく物怖じしない。

 蠣崎いわく、部署内で唯一言葉を交わしたことのない女性が壱香で、以前からぜひとも話してみたいと興味を抱いていたらしい。本当のところ、女性社員たちが彼に黄色い視線を浴びせる中、一人だけ自分になびかない壱香が癇に障ったんじゃなかろうか。

「それにしても、聞いていた通り本当に美人だねえ! そして気が強いっていうのも当たってるね。松野壱香ちゃん」

 蠣崎は、壱香の睨みにまったく動じす、むしろ面白そうな笑みを浮かべてそう言った。壱香の問いかけを全て無視して。

 そしてなぜ『ちゃん』付けなのだろう。

「そちらこそ、初対面のくせに、やけに図々しい方ですね。噂通りの人で、少し気落ちしました」

「ひどいなあ。俺の噂、そんなに悪い感じなの? でもね、壱香ちゃん。俺と君とは、今日が初対面じゃないよ」

「え?」

「やっぱり気付いてないんだぁ。残念。昨日、その本買ってたでしょう。駅のとこにある、本屋で」

 そう言われて、必死に昨日のことを思い出す。あの本屋で、誰か人に話しかけられた記憶はない。

―――「す、すいません」

―――「いえ、こちらこそ」

「あ………」

 まさか、ぶつかった時の………?

「やっと思い出してくれた?」

「………」

 どうやらそれで正解らしい。顔はよく覚えていないが、確かこんな声で話していたような気がする。

 壱香は、なんとなく恥ずかしくなって蠣崎から目をそらした。自分の昨日の姿を、知人に見られたくなかったのだ。

「笠岡夏野かあ。いま人気だもんね、その作家」

 壱香が俯いているうちに、蠣崎の興味は壱香が手にしていた本のほうへ移った。

「はあ、そうなんですか」

「うん……。あれ……、壱香ちゃん、この作家が好きなんじゃないの?」

「いや、好きというか、なんというか………。私の妹の作品なので。―――あと、下の名前で呼ぶの、やめてください」

「はは。ごめん、ごめん。そんなに睨まないでよ。―――じゃあ、松野さん。………今の話、本当?」

 急に、蠣崎の目の色が変わった。今まで何を考えているかわからないような、どこを見ているのか容易には理解できないような、不透明な瞳で笑んでいたというのに。

「嘘ついてどうするんですか」

 壱香は、その千変万化する表情に、さらに警戒心を強めた。

「いやあ、すごいなあ! この作家、一流大学卒業って聞いたことがあるよ。絵も自分で描いてるんでしょう? こんな優れた妹さんがいて、君も鼻が高いでしょう?」

「別に。小説家の妹をもって得をしたと感じたことは、特にありませんが」

「ふうん。じゃあ、嫌い?」

「嫌いって……。どっちがですか」

「君はどっちだと思った?」

「………からかってるんですか?」

「そんなこと。俺は至って真剣さ」

 そう答える蠣崎の目は濁っている。ふざけているはけではないのだろうが、真剣でもないのだろう。真正面から対峙しているのに、彼の本当の意思が読み取れない。

「分かりませんよ、そんなの。小説家がそんなに偉いのかも、妹がそんなにすごいのかも。だから、好きにも嫌いにも……。そもそも、あの子のことが良く分からない始末ですから」

「分からない? 自分の妹のことなのに?」

「妹とか姉とか、そういうのあんまり関係ないと思いますけど。いえむしろ、姉妹だからこそなのかも」

「冷めてるなあ、君」

「妹と違って、私は不出来な姉なもので。あっちがどう思っているのかもよく知らないし。実際に兄弟がいる人じゃないと分からないかもしれませんが」

「俺もいるよ。兄弟」

「え」

「相手のことを好きかどうかわからなくても、きっと何かしらの感情は抱くんじゃないかな? 何もないなんてことは、きっとないよ。だって兄弟だもんね。この関係性は、何年経っても変わらない」

 蠣崎の言葉尻が、少しだけ震えたような気がした。壱香は気になって表情をうかがうが、依然としてあの掴みどころのない目線に変化はない。

「月見草かぁ」

 蠣崎が、本を手に取って表紙を眺めたり、中身をぺらぺらとめくったりした後、裏表紙をひっくり返して見た。

「それ、妹が書いた作品の裏表紙に、いつも必ず描いてあるんです。なぜか」

「花言葉は……たしか『美人』。君にぴったりだね」

「なんで私なんですか」

 花言葉なんて、いちいち覚えているのだろうか。

「さあね? なんとなく」

「チーフは………、なんだか似ていますね。うちの妹と」

「へえ、俺、天才作家に似てるんだ。光栄だな」

「そういうところですよ。本当に思ったこと言わないでしょう。今だって」

 そこまで言って、壱香は急に口をつぐんだ。

 今だってきっと、私のことなんてどうとも思っていないだろう。

 そう思った。でも、だから何だというのだ。自分は、彼に何か思われたいのだろうか。同じように妹に、何らかの感情を抱いて欲しいのだろうか。

「君は俺のこと、嘘つきだと思ってるってこと?」

「いえ。嘘はついていないと思います。ただ、気持ちの本質が全然掴めないな、と」

「ふうん。なるほどね………。妹さん、そういう人なんだ」

「まあ。………おかげでこっちが苦労するばかりですよ。言葉にして言わないと、何も伝わらないのに」

 そう呟く壱香を、向かいで頬杖をついたまま、蠣崎は見据える。

「俺は君の妹に会ったことはないからわからないけれど、もしかしたら彼女には、本当の気持ちを『言わない』んじゃなくて、『言えない』理由があるのかもね」

 え………?

 それってどういう意味ですか。そう言おうと、唇の形を変えたその刹那、午後の作業時間開始、つまり昼休憩の終わり五分前を告げる、オルゴール調の音楽が、スピーカから部屋全体に鳴り響いた。

「さて、もうそろそろ部署に戻らなくちゃね。君もお仕事頑張ってね」

「チーフは、どちらかに行かれるんですか」

「うん、ちょっとね。重役出勤ってとこかな」

 蠣崎は、早々に席を立ち、ひらひらと手を振りながら休憩室を出て行った。

―――でも、あれでしょう。社長になるのは、チーフじゃなくて………。

―――あんなに熱心なのにねえ。お兄さんとも、いろいろあるみたいだし。

 彼について囁かれる、断片的なうわさ話を、壱香はひたすら頭の中で再生し直していた。

 蠣崎は、むやみに曖昧にした意図の中に、そういう自分では何年経っても変えることのできないものを抱え込んでいるのだろうか。

 そして、あの子の中にも。



§



 夕暮れ時の庭に、白い花弁を開く植物を、幼い少女はいつも縁側から眺めていた。

 涼しい風が吹いてくるこの場所で、小さな足は裸足のまま庭の方へ投げ出して、一人で、この見下ろす花と同じくらい真っ白な自由帳の上に、色鉛筆を滑らせる。いつかの誕生日に買ってもらった、色がみんなより何本も多く入ったものだ。

 夜になる前に花を開いて、朝にはもうしぼんでしまうから、なかなか会えない。それに、薄暗い庭に霞むことなく白く光って見える。他の花は持っていない魅力があるような気がして、少女は、緑の多い庭にたくさん咲いている植物の中で、その花が一番好きだった。

 毎日同じところで、同じ時間に、同じ花を描いていたら、一番先に短くなったのは白色だった。なくなったら、買ってくれる、と姉は言ったが、少女は、できるだけ大切に、その残り少ない白の鉛筆を、大切に、大切に、使っているようだった。

「今年もきれいに咲いたねえ」

 彼女の小さな手にも、持って描くのが難しいくらいになった頃、一度だけ、母と姉と、三人で庭を眺めた日があった。

「月見草って言うんでしょ? 私、理科で習ったことある。朝になると、花の色が変わるの」

 姉はいつもはこの時間、学校の宿題や夕食の支度をしていて忙しいし、ましてや母は、普通はまだ会社に居るような時間だった。

 三人の都合が、たまたま合ったらしかった。理由が何にせよ、少女は、自分の大好きな花を、自分の大好きな人たちと見られる時間をすごせることが、本当にうれしかった。

 だから、その日は、サンダルを履いて、花の目の前まで降りて行って、いつもより細かい所まで一生懸命に見て描いた。母たちは、その様子を、夕方の風を感じ、時々なにか話しながら、ずっと見ていてくれた。

「すごい、すごい。上手に描けたね、箕琴」

 母は、そういって彼女の頭を撫でた。いつもはひんやりと冷たい、母の細い指が、その時は、とても温かく感じられた。

「絵が前より上手になったね。ミコはきっと、もっと上手になるよ。だって私が応援してるもの。私、ミコの絵、好きだもの」

 姉は、少女の思っていた以上に、自分のことを褒めてくれた。そして、少女の絵を好きだ、と言ってくれた。微笑んだ。今までに見たことのないくらい、姉の表情は、声は、優しさと、強さに充ち溢れていた。

 きっと幸せだ。自分と同じように、目の前の二人も、きっと、あたたかい気持ちになっている。

 この「しあわせ」が、ずっと続いていけばいいのにな。


 それから、まだ幾度も夜を越えていなかったと思う。少女達の母は、突然いなくなってしまった。

「どこいっちゃったんだろうねえ。ねえ、ミコ」

 そしてその日から、姉の笑顔も消えてしまった。



「ねえ丹澤さん。コンビニのおにぎりって、温める派ですか」

 仕事机に向かって、左手の水彩筆を動かしながら、箕琴は唐突に呟いた。

「どうしたんですか、急に。………うーん、あんまり温めたことはないですね」

 その後方、ちょうどローテーブルの隣に正座して、箕琴の原稿の完成を待つ丹澤は、身のまわりに雑多に散らばった書類やら書籍やらを、時折手で綺麗に直していた。やってはいけないと箕琴に言われたが、身体が無意識に動いてしまうようだ。

「うんうん、普通そうですよね。ていうか、温めるか温めないかって、そんなに重要なことじゃないじゃないですか!」

「え、ええ、まあ………。なにかあったんですか?」

 右手に何本も色鉛筆を握ったまま、突然大声を出して立ち上がった箕琴を、丹澤は少し驚いた顔のまま見上げる。

「いやあね、この間、久しぶりにコンビニ行ったじゃないですか。んで、稲荷寿司買ったの。パック入りの。まあ、それは帰る途中で食べちゃったんだけど。そしたらレジで『温めますか?』って。店員さんが」

「あー、なるほど。それはちょっと変わってますね。………あっ、先生、ちゃんと手を動かしてくださいよ。今日締め切りですよ?」

「わーかってるよ、わかってます。ほら、もうできましたし……。―――あー、ちょっと待って。サイン忘れた」

 A4型の、厚手の原稿用紙が丹澤の指に触れる直前で、箕琴は自分の手を引っ込めた。

 今まで使っていた水彩用の色鉛筆を万年筆に持ち替えて、箕琴の駄弁りは続く。

「そういうね、変なことは聞くくせに、プリンにスプーン付けるの忘れたんだよ! あの店員! 優先順位おかしいでしょ」

「確かに、そうかもですね……。―――あ、終わりました? お疲れさまでしたー。今月分は完了です」

 原稿の執筆最中に箕琴が丹澤に話しかけるのはよくあることで、むしろその方が、彼女の筆の進みは良いらしく、丹澤は慣れた様子で相槌を打っていた。

 箕琴は、あまりよくしゃべる性格ではないけれど、年齢の近さと、彼の持つ包容力とで、丹澤に向けてならいろんなことを次々と話した。仕事での付き合いは長いわけではないが、作家としての自分を叱咤激励しながら、箕琴自身の言うことにもしっかりと目を向けてくれる、優しい人だと思っている。

「疲れた、疲れましたよ私は」

 四肢を投げ出して弛緩した表情の箕琴に、丹澤が背後から声をかけた。

「あ、先生。ひとつ気になったんですけど」

「はい?」

 箕琴が、丹澤の方を振り向く。

「なんでいつも、裏表紙には、この花を描くんですか?」

「ああ、これね……。―――願掛け、みたいなもんなんですよね」

 少しだけ視線を逸らして言った。

「『願掛け』?」

 頭上に疑問符を浮かべる丹澤の顔を見上げ、少しだけ何か考えた後、

「………うん、じゃあ、コーヒー入れるから、ゆっくり話しましょうか」

 ゆっくりと微笑んで、立ち上がった。

「えっ、すいません。わざわざ」

「いやいや。たぶん長くなるんですよ。それなりに」


 エアコンの効いた広い部屋の中に、コーヒーの湯気が二つ立ち昇る。

「そういえば丹澤さん。この花の名前、知ってますか」

 箕琴は、コーヒーをすすりながら、ローテーブルの上の、先刻出来上がったばかりの原稿を指差した。色鉛筆で、淡い色を使って描かれた一輪の花がある。

「………すいません、植物のことには明るくないもので………」

「いえ、まあ、都会じゃなかなか見られませんし。月見草って言うんですけど」

「あ、名前は聞いたことあります! こんなに可愛らしい花だったんですね」

 熱心に箕琴の話を聞く丹澤の顔を見下ろしながら、椅子の上で体育座りをして、箕琴は話を続けた。

「ちょうど今くらいから、九月くらいまで咲く一夜草で、夕方咲く時は白、翌朝しぼむ時は薄紅に色を変えるんですよ」

「あ、だから毎回、花弁の色が違うんですね!」

「うん。今日のは、シリーズの初巻だから白。………まあ、そんなのはどうでもいいことなんですけどね」

「すごい………凝ってるんですね。なんか、担当のくせにそういうこと知らなかったから、ちょっと恥ずかしいです」

 そう言って丹澤は視線を落とした。

「いやいや。ファンの方でも、分かった人少ないから。別に、こんなくだらないこと、気付いてほしいわけじゃないんです。それに、本当はこんなことじゃないんです」

 箕琴が、足の指先をそわそわと動かす。コーヒーカップを見つめる眼差しもきつい。

「『こんな』……?」

 丹澤は、訳が分からずに、ただ疑問を投げかける。

「丹澤さん、人から花をもらった時、とか、花言葉って、気にしますか?」

 言葉を詰まらせながら、言った。

「花言葉、ですか」

 だがそれは、丹澤にとっては意外な言葉だったようだ。

「月見草、花言葉。『美人』、『自由な心』………。他にもいろいろあるんですけど………。―――うーん、まあ、なんていうのか……。言葉選びに迷いますね、作家なのに」

 箕琴が、困ったような笑みを浮かべた。今日は不自然に笑う回数が多い。丹澤は、箕琴が、いつもと違う何か大きなことを、自分に打ち明けようとしているのだと、その時ようやく気付いた。

 もう一度意識を奮い立たせて、必死に言葉を紡ごうとしている彼女の様子を、真剣に見守った。

「私ね、親がいないんですよ」

「!」

 それでも、想定外だった。そのくらい、ドスンと胸の奥に落ちてくるような言葉を、彼女は吐き出した。

「自分が小さい時に父が出て行って、母さんはその数年後に行方不明になって。結局は自殺したらしいんですけど。姉が八歳も年上だから、私が学生の頃には、ほとんどあの人が養ってくれてたんですよ。………丹澤さん、どう思いますか」

 箕琴は、丹澤の目を、真っ直ぐに見つめる。

「え………」

 逸らしてはいけない。そう思いながらも、目線が一瞬ふらつく。

「やっぱり、引きましたか」

「引く……なんて……そんな……」

 丹澤の喉は、これ以上ないほど乾ききっていた。

小説や漫画やドラマや、そんな虚像の物でしか聞いたことのないような現実が、箕琴の背後に広がっている。瞬時には信じがたいことだと思った。

「でも驚いているでしょう。そらそうだ。私だって、自分の家庭が普通じゃないって気付いた時、なんか驚き過ぎて呆れましたもん。正直、吐きました」

 箕琴が、また笑む。

「気付いた時って……」

「分かんなかったんですよ。あんまり不自由がないから。あんまり順調すぎるから。あの人が、あんまり私のことを考えすぎるから」

 箕琴の口の動きが、幾分か駆け足になった。ぎこちない笑顔のまま、淡々と言葉を口にする。まるでそれが、なにかの単純な作業のように。

「あの人、全然なにも言わないんですよ。何も。苦しいとか、しんどいとか、ムカつくとか、悲しいとか、あれしたい、これしたい、とか。………まるで、まるでそれが当たり前みたいな。もとからそういう運命だったみたいな。何の疑問も持たないで。何の幸せも知らないで。それこそ馬鹿みたいに」

「なに言ってるんですか……、お姉さんは、先生のために――」

 その発言に違和感を感じ、丹澤はすかさず抗議するが、箕琴はそれを充分に聞き入れない。

 箕琴の指先に力がこもっていく。

「それがムカつくんじゃないですか。自分のために生きるのが人生でしょう? 自分のやりたいことをするのが人生でしょう? なのに、なんでですか。なのに、なのに………」


―――箕琴。最近あんた、帰り遅いんじゃないの? もう今年、受験生でしょう。

―――いいでしょ別に。勉強はちゃんとやってるもん。

―――自分の好きなことばかりやってても、どうにもならないのよ。

―――自分の好きなこと我慢したら、将来どうなんの。何かいいことでもあんの。

―――箕琴! あんたは、どうしてそんなことばかり……。

―――自分の姉みたいになりたくないからに決まってんでしょ。


「なんであの人だけ、自由じゃないんですか。いつまでも私のことなんか気にしなきゃいけないんですか」

 壱香は、ただの『姉』なのに、どうしてそれ以上のことを求められるようになってしまったのだろうか。

 何がいけなかったのだろうか。どうすれば、彼女は自由になれるのだろうか。

 幸せに、笑っていられるのだろうか。

「………」

 丹澤は、結局、押し黙ってしまう。

 今も昔も、何一つ、あの人の言うことは変わらない。

「もう十作目ですよ。気付いてもらえないまま。小さい頃、この絵を描いて褒めてもらったこともあるんですけどねえ……。でも、それでも描いてしまうんですよ」

 もう分かってもらえないなんて、思いたくはないから。

 箕琴は、眉間に深いしわを寄せて、とてもつらそうな表情を浮かべた。力の入り過ぎた指先が、小刻みに震え始める。

「先生………」

 丹澤は、何もできずに、ただ箕琴を呼んだ。その声に反応して、やっと我に帰ったのか、箕琴の表情は幾分か和らいだ。

「すいません、長々と。でも、なんか全部話した方が良いような気がして。隠したくもないし」

「俺も、先生のことを改めてよく知れて良かったです。たとえ、それがあなたのごく一部だったとしても。先生の力になれるなら」

「ありがとう。本当にありがとうございます、丹澤さん」

 微笑む箕琴の前で、丹澤は、大きく息を吸ってから、もう一度話し出した。

「でも、俺は、思ったのは、たぶんお姉さんが先生のことを考えているのは、不自由なことじゃないと思います。血の繋がる姉妹でも、なかなかここまで相手を大切に思える人はいません。それは、絶対にそうです」

 先刻までとは違う、強い目をしていた。

「でも、でも笑わないんですよ……? 母さんがいなくなった日から、ずっと」

 必死に問いかける箕琴の傍へ、丹澤は立ち上がり近づいていく。そして、細い手首にそっと触れてから、

「なら、彼女を笑顔にすることが、あなたの使命なんじゃないでしょうか。感謝しているんでしょう? あんな綺麗な人だから、きっと笑うともっと綺麗ですよ」

 優しく、そう言って笑いかけた。

「……はい……」

 箕琴は、俯いたままで頷いた。

「丹澤さん」

「はい?」

「丹澤さんは、兄弟とか、いますか」

「いますよ、弟が。すごく大切な弟が、いました……」



§



 お経の声音と不協和音を作りながら、アブラゼミの大群が忙しなく鳴いている。

 箕琴の目の前に映るのは、人。他人。ヒト。みんな一様に黒い服を着た、顔に沢山しわのある人たち。名前もよく知らないような、誰か。

「あらぁ、壱香ちゃんじゃないの! 大きくなって」

 線香の匂い。ぬるい麦茶の味。加齢臭。古い畳の匂い。扇風機の風。

「箕琴ちゃんも。今日は来てくれたのね」

 はあ、まあ。と、箕琴は小さく頭を下げる。その時に目に入ってくる、自分の手と正座した脚。着なれない喪服。

「二人とも、すっかり美人になって。一瞬、どちらさんだか、分からんかったわ」

 右隣を見る。堅く冷たい表情のまま、話しかけてくる相手に淡々と会釈をして答える壱香の姿があった。

 夏の、陽が随分と高くなってきた頃、叔母の美稔子が亡くなった。

「行くの?」

 箕琴は、それを壱香から聞かされた時、一言だけ、そう問うた。しかし、「親戚なんだから」と、連絡事項を告げた時と変わらない声で、姉は答えた。楽しい思い出など、一つとして残っていないあの場所へ戻る。どんな酷いことを言われるか分からない。どんな扱いをされるか分からない。箕琴は、それでも本当にいいのか、と、彼女に伝えたかった。

「じゃあ、明後日。朝、迎えに行くからね」

 受話器から電子音で聞こえたその声には、壱香の本心を窺い知ることはできなかった。でもきっと、覚悟はしているのだろうと思った。

「壱香か」

 他の親戚の人たちへの対応から、意外と何事もなくやりすごせるのかと、箕琴は思い始めていた。

「もう十年以上やないか。一度も顔出さんで」

 でも、やはり、そうではなかった。

「その顔ばっかり、義妹に似てきよる」

 箕琴たちの母の義兄、つまり美稔子の夫に会った時も、壱香は静かに押し黙ったまま、目の前の親戚の言う言葉を聞いていた。厭味ったらしいその声を、聞き流しているように見えた。

 どこまで胆の据わった女なのだろうと、箕琴は隣で半分呆れていた。

「結婚は、………まだしとらんのか。見合いでも考えたらどうや。ちっとは仕事から離れて、落ち着いてみたらええ」

 壱香の、折った膝の上に置かれた両手に、少しだけ力が入った。箕琴は、その小さな変化に一番に気づいて、そのまま姉の顔を見上げる。しかし、彼女はこちらを見ない。

 毅然とした態度で、無表情のまま、………いや、違う。違った。

「仕事だけできたって、なんも意味あらへん、女は」

 誰にも気づかれないように小さく噛んだ下唇。注意していなければ聞き逃してしまいそうな、かすかな呼吸の乱れ。

 何より、気の強い壱香が、何も言い返さずにいること自体が、彼女が今、平静を保てていないということを表していた。

 それでも、ちらりともこちらを見ない。

 辛いくせに。

 いつの間にか、気持ちが苛立っていた。箕琴は、壱香の味方にもつかずに、その場を立ち上がってしまった。

 自分の身の回りすらも良く見えていない姉を、助けたいとは思えなかった。


「帰るよ」

 広く、長い縁側に、ぼんやりと腰かけていた箕琴の背後から、単調な声がする。

 振り返らずとも判ってしまう声の主の、先刻の表情を思い出して、箕琴は眉間にしわを寄せた。

「ねえ」

 数歩先を歩く、若い長身の喪服姿の人物に問いかける。

「私たちって、姉妹だよね?」


 蝉の声がする。

 目を閉じても、違う音の蝉の声がする。

 母は、あの日、この酷い蟲の轟きの中で、一人、幸せだったのだろうか。

 一人、自由を手に入れたのだろうか。



§



「うーん、おかしいですね」

 見慣れた仕事場のまるい掛け時計の前で、箕琴は首をかしげる。

「何がですか?」

 自分の荷物や回収した原稿を、ローテーブルに広げて整理しながら、丹澤が問うた。

「今、もう十時一分じゃないですか」

「はい、そうですね」

「今日、十時に来るはずでしたよね、あの人」

 話したいことがあるから、と、三日前の夜に、壱香から電話があった。その内容は詳しくは聞かなかったが、とにかく、午前十時には、予定を開けておいて欲しいと言われた。

「ええ、まあそうですけど………。遅れてるんじゃないですか?」

「いや、それはありえません」

「え?」

 どうせいつもと同じような説教や忠告なんかだろうと思っていた。しかし箕琴は、今の状態にいささか違和感を覚える。

「あの人は、絶対に時間に遅れることはありません。遅れるどころか、時間通りに来ないことがないんです。いつも、絶対に予定時間きっかりに来るんです」

「そんなまさか、ロボットじゃないんですから」

 笑い飛ばす丹澤と反対に、箕琴の表情は少し険しい。

「信じたくないけどそうなんです。本当に。気持ち悪いくらいキッチリしてるから。だからおかしいな、と。―――あっ」

上着の右ポケットに入れていた携帯電話が振動する。差出人は、やはり壱香だった。

「来られないそうです、今日」

「ええっ? そんなあ」

 丹澤の声が、唐突に大きくなった。

「なんで丹澤さんが、そんなに落ち込むんですか」

「えっ、いや、なんていうか、また久しぶりにお話ししたいなーと、思って。先生のお姉さんですからね!」

 はは、と、わざとらしい笑い声をたてる丹澤に、箕琴は肩をすくめながら一喝する。

「あの外見に騙されてたら、後で痛い目みますよ」

「べ、別に、そういう訳じゃ」

「………」

 箕琴が、急に黙り込んだ。

「先生?」

「でも………、にしても、なんか変だと思います」

「まだなにか?」

「遅れるにしても、行けないにしても、あの人は時間よりも後に連絡を入れるような人じゃないから。それに、理由も書いてないし………。いや、まあ風邪とか、そこら辺でしょうけど」

 携帯電話に付いたストラップを指で回しながら、箕琴はぶつぶつと呟く。

「心配そうですね」

「は? 私が?」

「決まってますよ」

「な、何言ってんですか、そんな」

「そうだ、先生。最近ずっと締め切り近くて、部屋に籠りきりだったでしょう。気晴らしと運動も兼ねて、お姉さんのご様子、窺ってきたらどうですか?」

 そう言いながら手鼓を打つ丹澤は、なぜか笑顔だ。

「なんで、私が」

 箕琴は、苦々しい顔で後ずさりしながら、必死に抗議する。

「だって姉妹でしょう? それにもし、本当にお姉さんが体調を崩していたら、いろいろ一人じゃ大変でしょうし。ね?」



 電車で幾駅か行った所の近くに、最近できた高層マンションがある。そこが壱香の住まう場所だった。通年引きこもり気味の箕琴がここへ訪ねるのは、もちろん初めてのことである。

 エレベーターがぐんぐん上に登っていく。来る途中で寄ったコンビニの袋を提げて、箕琴は、まるで初めてのお遣いを任された時のような顔色だった。

「うわ、広………」

 壱香の部屋があるフロアに降り立ったとき、思わずそう呟いた。やっと日の目を見ることができた、姉からもらった合鍵を使って、中に入る。

 一人で暮らすには広すぎるくらいだった。どうしたらよいのか分からず、人気の少ない薄暗い廊下を歩いて、一番奥の部屋のドアを開ける。

「箕琴………?」

 数センチほど扉をずらした時、その部屋の中から声がした。なんとなくほっとして、箕琴は部屋に入って、ドアのすぐ隣にあった電気をつける。

「あ………」

 案の定、壱香はベッドの中で横になっていた。夏なのに布団を首元までかけて、顔を赤くしていた。

「やっぱり風邪?」

 コンビニに寄ってよかった。箕琴は、壱香の枕元まで行って、しゃがんで手荷物を探り始めた。

「ええ。―――ごめんね、今日」

「いや、別に」

 浅い呼吸を繰り返す姉の、浮き沈みする額に、箕琴は買ってきた冷却シートを張り付けた。一瞬だけ触れた壱香の肌は、吃驚するほど熱い。相当に熱もあるようだ。

「ありがとう。ちょうど切らしてたのよ」

「………」

 箕琴は、黙ったまま、袋から風邪薬やら、スポーツドリンクやら、マスクやら、のど飴やらを、次々とベッドの隣にあるテーブルの上に乗せていく。

「いっぱい買ってきたのね」

 かすれた声で言う壱香の姿が、予想以上に衰弱していて、箕琴は内心動揺していた。物腰に棘や強みのない彼女の言葉に、どう反応していいか分からない。

「ちゃんと寝ないと治らないんじゃないの。………特に、普段あんまり風邪引かない人は」

 ぶっきらぼうに言って、無理矢理マスクをつけさせ、箕琴は再び立ち上がった。

「氷枕と、あと鶏肉買ってくる。卵ってある?」

「あるけど………。なに作るの?」

「親子丼。いつもそうでしょ」

 松野家では、誰かが風邪をひくと、必ず親子丼を作った。母がそうしていたらしく、壱香も、箕琴が風邪をひくと、毎回親子丼を作っていた。

「………」

 バッグを肩に掛け直して、部屋を出ていく箕琴を、目線だけで見送ってから、壱香はゆっくりと眼を閉じた。

 熱や疲労が相まって、すぐにまどろんでいく。


 携帯のインターネットで検索したレシピと睨めっこして、なんとか完成した箕琴の親子丼は、それとは呼べないような見た目をしていた。自分がもし、風邪をひいている時にこれを出されたら、食べる前に嘔吐するだろう。自分の料理の才能のなさには、箕琴も我ながら唖然としてしまう。

「大丈夫、きっと食べられる……」

 広いきれいな台所で、誰にともなくそう言い聞かせて、箕琴は、親子丼を盛り付けた丼にラップを軽くかぶせ、再び壱香のいる寝室へ向かった。

 先ほどよりは幾分か安らかな寝息をたてて、壱香は眠っていた。その隣に、作った料理をそっと置く。

「………」

 もうすることがなくて手持無沙汰になった箕琴は、ベッドの隣に座って、部屋をぐるりと見渡した。

 ふと、この部屋から繋がるもう一つの扉があることに気付く。奥にも部屋があるようだ。少しだけドアが開いていて、箕琴は、何となくそちらへ歩いていった。

 ゆっくりとドアを押すと、そこは書斎のようで、本棚が沢山並んだ中に、デスクトップ型のパソコンが一台乗ったビジネスデスクがあった。よく見ると、パソコンの電源がスリープ状態になったままだ。もったいないと思って、点滅する電源ボタンを押す。

 その刹那、電子音を上げて明るくなった画面に、箕琴は目線を奪われる。


『月見草』(ツキミソウ、ツキミグサ)

 アカバナ科マツヨイグサ属の多年草。六月から九月にかけて見られる。夕方の咲き始めは白色、翌朝のしぼむ頃には薄いピンク色の花弁。一夜草。

 花言葉:美人、自由な心、うつろな愛、無言の恋


 『花ことば辞典』というウェブサイトの一ページだった。

「え………」

 驚いて身を退いた拍子に、指に何かが触れて、机の下へ落ちる。拾い上げると、それは箕琴の作家としての、笠岡夏野の最新作だった。

 信じられない。これは、どういうことだろうか。今、何が起こっているのだろうか。

 本の途中に、何かメモ用紙のようなものが挟まっていた。動揺して小刻みに震える指で、箕琴はそれを抜き取る。

 二つ折りのそれを、開いた。

―――月見草 花言葉 美人 自由な心―――

 油性インクで並べられた単語の最後に、違う色のペンで丸印がしてある。

 姉の字だ。

「なんで、なんで」

 ぐわり、と、視界が歪む。混乱する思考回路のままで、部屋を見渡すと、本棚の中に、箕琴は見つけた。

 しっかりと、あった。

 笠岡夏野という名前の印刷された本が、綺麗に、一冊も余すことなく並んでいた。

「――う、……うう……っ」

 大きく見開かれた箕琴の瞳から、涙がこぼれた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、こんな沢山の水が身体のどこにあったのか。どうしたって止まらない。

 そのうち、脚の力が抜けて、箕琴はその場にしゃがみ込んでしまった。本と、メモ用紙を胸に抱きしめたまま、たくさん、たくさん、泣いた。声を殺して泣いた。



 早朝の白い光が、暗い部屋の中へ優しく差し込んでくる。

 壱香が目を覚ましたのは、次の日のことだった。朝日に目を刺激され、ゆっくりと瞼を上げると、壱香の枕元で突っ伏して眠ってしまっている妹の姿を見つけた。起こしてしまわないようにそっと身体を起こす。

テーブルの上に、妹が作ったであろう親子丼と、その隣に、笠岡夏野の本があることに気がついた。もちろん、メモ用紙も一緒に。

 壱香は、それですべてを悟ったようで、しかし、それでも穏やかな表情のままだった。

 箕琴の頭を、そっと撫でる。すると、すぐに目を覚ました。

「おはよう」

「あ……、うん」

 壱香と目が合うと、少し驚いたような顔をして、箕琴はすぐに逸らした。

「ずっと看ててくれたの?」

「………いや、だって」

 箕琴は、自分の前髪を指でいじった。なんだか恥ずかしいらしい。

「それ、食べてもいい?」

 壱香が、テーブルの方に目線を移した。

「………おいしくないよ」

「でも、食べたいわ」

 壱香は、真っ直ぐに箕琴の顔を見つめた。その瞳は、すでにいつもの強さを取り戻していた。

「おいしいよ。おいしい」

「本当? え、ほんとに?」

 何度も褒めてくれる姉に、箕琴は不安そうに質問を繰り返す。

「うん。―――ねえ、箕琴」

 ふと、壱香が箸を運ぶ手を止めて、

「そこの、引き出しの中にあるアルバム、取ってごらん」

 部屋の向こうの方を指差した。

「?」

 箕琴は、言われた通りに、テレビの隣にある引き出しの中から、古そうなアルバムを持ってきて、壱香に手渡した。

「これ」

 その中に挟んであった、一枚の写真を箕琴に差し出した。

 一人の、美しい若い女性が、こちらへ微笑んでいる。

「!」

「そんなに私に似てるかしら?」

 壱香は、少し困ったように言った。

「母さん………!」

「そう。これを見せようと思ってたの」

 なんで、どうして。箕琴は、疑問符のついた言葉ばかりを次々に口にする。

 なぜなら、母親の写真は、あるはずがないからである。

「一枚だけ。小さい頃の、玩具箱の中に入ってたの」

 不祥事を起こして、無残な死に方をした母の、服も持ち物も写真も、家の格式を大事にする祖母は、何一つとして残しておかなかった。

 だから、箕琴は母の顔を知らない。

―――その顔ばっかり、義妹に似てきよる。

 本当にそうだった。その通りだった。

 写真に写る、若い頃の母は、今の壱香にそっくりだった。

「本当は、ずっと見せないでおこうと思ってた。見せたところで、箕琴を変に傷つけるだけだって」

でも、本当は自分が、中途半端に思い出して、傷つきたくないだけだった。

いくつ歳を重ねても稚拙なままの感情を、壱香はこれ以上になく恥ずかしく思う。

「知らないほうがもっと嫌よね」

「………」

 箕琴は、口を堅く閉じたまま壱香の話を聞いていた。そして、少し困惑していた。本音を素直に打ち明ける姉の姿に、慣れていない。

「ごめんなさい」

 聞きなれない音が聞こえた。咄嗟に上を向くと、壱香が、頭を垂れて下唇を噛んでいる。彼女の口から漏れた、予想外の言葉に、箕琴は、ぱくぱくと口を動かして、声にならない息を吸ったり吐いたりしていた。

 箕琴が、壱香に一番言いたい言葉だった。

「なんで謝んの」

 箕琴は、実姉のことをきつく睨みつける。

「え………?」

「悪いのは私でしょ? だって、だってずっと好きなことばっかしてきたじゃん。何も良いことなんてしてないし、何も変わってないじゃんよ」

「でも箕琴だけが悪いわけじゃないでしょ。私だって何も気づかなかったもの。今まで、ずっと」

 壱香が、箕琴の本の裏表紙を手でそっとなぞる。

「変わらないで。あなたは私の妹でしょ?」

 そして、妹に訴える。

「でも……絶対迷惑かけるよ。親子丼も、ちゃんと作れないし」

 箕琴の声が震える。そんな自分にも不甲斐なさを感じて、さらに眉をしかめた。

 幸せでいてほしい。大好きだから。

 でも、妹として、ずっと一緒にいたい。やり直したい。

 もう一度、姉妹として。

「それでもいいの……?」

 弱々しく問いかける箕琴を見下ろして、壱香はふっと息を吐きだした。

彼女の瞳に、光が灯る。

「当り前じゃない。姉妹なんだから」


 姉はその日、初めて笑った。






 ―――――end.


ここまで読んでくださりありがとうございました!


最初あっさりと終わらせるつもりだったのに、月見草の事やら調べて行くうちにいつの間にかどんどん設定を凝らせていました。

家族の、しかも姉妹が関係した話は書いたことが無かったので楽しかったです。


コメントなどお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ